⚠️ この回は、性暴力被害の体験を含みます。読むのがつらい方は、無理せず、別の話を選んでください。
10月の月曜日の朝、空気は、もう完全に、秋だった。
家を出るとき、薄手のニットの上に、すこし迷ってから、トレンチコートを、羽織った。
化粧をしている時間が、いつもより、5分、多かった。
理由は、特に、なかった。
ただ、その朝、すこしだけ、丁寧な気分だったんだと、思う。
鏡のなかの自分の眉を、いつもより、ちゃんと、左右対称に、整えた。
口紅も、ふだんはつけないオレンジ寄りのを、選んだ。
「今日は、ちょっと、いい日にしたい」って、起きたときから、思っていた。
けれど、世間は、ときどき、「いい日にしたい」女の子の意志を、ぜんぶ、無視して、踏みにじってくる。
それを、わたしは、その日、いままでで、いちばん、はっきり、知ることになる。
代々木公園駅から、渋谷方向の山手線、8時50分発。
ピーク時間からは、ちょっと、ずれた、いわゆる「少しマシな」山手線。
それでも、ドアの近くは、降車駅まで身動きが取れないくらいの、混雑になる。
わたしは、ドアの近くに立って、片手で、つり革を持ち、もう片方の手で、スマホを、見ていた。
朝のニュースアプリのトップに、円安と、政治と、気象予報。
ふだん通りの、月曜だった。
電車は、原宿駅で、いつものように、人が、乗ってきた。
わたしの背中の方から、スーツの腕が、すっと伸びてきて、つり革を掴むのが、視界の端で、わかった。
ふつうに、満員電車で、つり革を掴んだだけだった。
そう、思っていた。
そのスーツの腕の手首が、わたしの腰のあたりを、ふっと、擦った。
最初は、「満員電車だから、仕方ない」と思った。
電車って、そういうもの。
密着するし、揺れるし、人と人の体が、触れる。
でも、それが「ある一定のリズム」で、続いていることに、気づいてしまった。
電車の揺れと、関係ない動き。
電車が、止まったときも、続いていた。
少しずつ、確実に、撫でるように。
頭が、真っ白に、なった。
「あれ、これ、痴漢、なのかな」
「でも、勘違いだったらどうしよう」
「もし違ったら、訴えられた人を、傷つけてしまう」
「いや、でも、この動き、たぶん、わざとだ」
「でも、声が出ない」
「振り返れない」
「どうしよう」
「どうしよう」
「どうしよう」
わたしの手は、つり革を、強く握ったまま、固まっていた。
スマホを持っていた指も、画面のうえで、止まっていた。
叫べばいい、と頭ではわかっていた。
振り向けばいい、とも、わかっていた。
なのに、体は、ぜんぜん、動かなかった。
頭と体が、別々の生き物みたいに、ばらばらに、動いていた。
そして、もうひとつ、奇妙なくらい、はっきりしていたのは、「自分の頭のなかで、相手を、心配する声」だった。
「もし、勘違いだったら、相手の人生を、壊してしまう」
わたしは、自分のからだが、いま、踏みにじられている、その瞬間に、相手のことを、心配していた。
世間が、わたしに、教えてきた、優しさのフォーマットが、わたしの体のなかで、わたしを、麻痺させていた。
そう考えているうちに、電車は、渋谷に、着いた。
ドアが開いた瞬間、その男性は、ものすごい速さで、降りていった。
顔は、最後まで、見られなかった。
わたしは、ドアの脇の壁に、もたれかかって、しばらく、動けなかった。
人波は、わたしを、取り巻いて、ホームに、流れていった。
何も、できなかった。
会社のトイレに、駆け込んで、3分間、息を整えてから、葵にLINEした。
手が、震えて、変換を、何度も間違えた。
美咲:「電車の中で、痴漢にあった、たぶん」
美咲:「何もできなかった」
美咲:「自分が情けない」
葵から、3秒で、電話が、来た。
わたしは、トイレの個室に入って、便座のうえに座って、震える手で、出た。
「美咲、聞こえる?」
「うん」
「いい? まず、これは聞いて」
葵の声は、ぴたっと、真っ直ぐで、わたしの内側で散り散りになっていた何かを、ぎゅっと、ひとつにまとめてくれるみたいに、響いた。
「フリーズ反応って言って、恐怖や驚愕で身体が動かなくなるのは、人間の正常な防衛反応」
「戦う・逃げるだけじゃなくて、固まる、っていう生存戦略がある」
「うん」
「これ、医学的には強直性不動(Tonic Immobility)って言うんだけど、動物が捕食者の前で死んだふりをするのと、同じ防御メカニズム」
「動かないことで、危険をやり過ごすっていう、深い、生存戦略」
「うん」
「美咲は、何も悪くない」
わたしは、トイレの個室で、ぽろぽろ、泣いた。
誰にも聞こえないように、口を片方の手で、押さえながら。
泣くと、肩が震えて、ニットの繊維が、頬に当たって、痒かった。
「『なんで抵抗しなかった』『なんで声を出さなかった』って、自分を責めないで」
「うん」
「それは身体の自動反応で、責任能力の問題じゃ、ない」
「うん」
「今日、できる範囲で仕事して、夜、わたしの家においで」
「……うん」
「美咲は、何も、悪くない」
葵は、最後にもう一度、それを、言った。
そのあと、葵から、追加で、メッセージが、来た。
葵:「美里にも、声かけていい? 今夜、3人がいい」
美咲:「うん」
その日の午後、わたしは、デスクで、企画書のレイアウトを直すフリをしながら、ぼんやりしていた。
頭の中で、今朝の10秒が、何度も、何度も、リピートされた。
スーツの腕。腰の感触。電車のドアが開いた瞬間、降りていった、誰かのうしろ姿。
わたしは、その人の顔を、見ていない。
スーツの色も、ぼんやりとしか、覚えていない。
何も、特定できる情報を、わたしは、持ち帰ってこられなかった。
それが、わたしのなかで、いちばん、悔しかった。
世間で、痴漢の被害について、「ちゃんと顔を見て、現行犯逮捕したらいい」みたいに言う人が、たまに、いる。
でも、いま、わたしには、それが、絶対に、できないことだった、っていうのが、ぜんぶ、わかった。
フリーズしているとき、視覚も、聴覚も、ほとんど、機能しない。
頭は、ぜんぶ、心臓のドキドキで、いっぱいになっている。
世間の「正論」は、フリーズしている人には、届かない。
夕方、葵の家に向かう電車のなかで、わたしは、ずっと、つり革を持たないで、ドア横の壁に、もたれていた。
つり革を握った右手の感触が、まだ、痺れているような気がした。
葵の家に着くと、葵は、もう、夕飯の準備を、していた。
湯気の立ったキッチンで、スープを煮ているのが、見えた。
美里は、すでに、ソファに座って、わたしを待っていた。
「美咲ちゃん」
美里は、わたしを見て、何も言わずに、ぎゅっ、と、ハグして、くれた。
その腕の力が、思っていたよりずっと強くて、わたしは、その瞬間、はじめて、声を出して、泣いた。
「ごめん」と、わたしは、彼女の肩のところで、嗚咽した。
「ごめんって、なに」と、美里は、笑った。「美咲ちゃん、何も悪くない」
「でも、何も、できなかった、わたし」
「動けなかったの、それが、わたしたちのからだの、いちばん深い、生き残るための知恵」
「動けなかった美咲ちゃんを、わたしは、誇りに思う」
「ちゃんと、生き残ってくれたから」
その言葉に、わたしのなかの、何か、最後まで、突っ張っていた糸が、ぷつ、と、切れた。
動けなかったわたしを、誇りに思う。
それは、わたしが、これまで、自分にも誰にも、言ってもらえなかった言葉だった。
世間は、いつも、被害者に、「強くなってください」と、急かす。
「次は、ちゃんと声を上げよう」「証拠を残そう」「警察に行こう」。
それは、ぜんぶ、正しい。
けど、いまの瞬間に、「動けなかったあなたを、誇りに思う」と、言ってくれる人は、ふつう、いない。
美里は、夜のお店で、何度も、自分のからだを、フリーズさせてきた人だった。
そして、フリーズした自分を、何度も、抱きしめなおしてきた人だった。
だから、わたしを、ちゃんと、抱きしめられた。
夕飯のあと、3人で、ソファに座って、お茶を飲みながら、話した。
葵は、まず、ワンストップ支援センターのことを、わたしに、教えてくれた。
「美咲、ワンストップ支援センターって、知ってる?」
「うん、葵が前に教えてくれた。#8891でしょ」
「そう。ワンストップって名前の通り、医療・カウンセリング・警察への付き添い・法律相談、全部繋いでくれるところ。24時間対応の地域あり、無料」
「でも、痴漢って、ワンストップ支援センターに連絡するレベルなの?」と、わたしは、聞いた。
「何が『大したこと』で、何が『大したことない』かを、自分以外の誰かが決めるのは、違う」と、葵は、言った。
「美咲が今日、一日中、心がざわついて、夜眠れなくて、わたしに泣きながら電話してきたら、それは『大したこと』」
そして、美里が、続けた。
「美咲ちゃん、わたしね、夜のお店で4年やってきて、痴漢って、ある意味、いちばん身近な犯罪なの」
「通勤の電車、お店からの帰り道、お客さんと別れたあと」
「わたしも、何度も、経験ある」
「わたしのお店の同僚も、ほぼ全員、何回かは、ある」
「でね、わたしたちは、痴漢にあったあと、家に帰って、お風呂で泣いて、翌日もお店に立つ」
「それを、ふつうに、何回もやってきた」
「でも、ある日、わたし、決めたの」
「「次に痴漢にあったら、絶対、相談する」って」
「それで、3年前、ある夜、駅のホームで、お尻を触られたとき、わたし、はじめて、駅員さんに駆け込んで、警察を呼んだ」
「そのとき、犯人は逃げたけど、わたし、ワンストップに繋いでもらって、調書を取って、それから、すこし、心が、軽くなった」
「「あなたは、何も悪くない、相談してくれて、ありがとう」って、警察の女性の人が言ってくれた」
「そのときに、わたし、はじめて、「自分のからだを、ちゃんと、自分の手で、守った」って思えた」
「美咲ちゃんも、これから、相談しよう」
「わたしと一緒に、電話してもいい」
美里の言葉に、わたしは、ふっと、肩の力が、抜けた。
美里も、ぜんぶを、ひとりで乗り越えてきた人だった。
そして、いま、わたしの隣にいてくれる。
その夜、わたしは、葵の家のソファで、毛布にくるまって、#8891に、電話した。
美里は、わたしの隣に座って、手を握っていてくれた。
最初の数秒、声が、出なかった。
受話器の向こうから、すこし遠い、ざらざらとした静寂が、聞こえた。
「もしもし、ワンストップ支援センターです」
女性の優しい声が、聞こえた。
それで、ようやく、わたしは、口を、開けた。
「あの、今朝、電車で、痴漢にあって……」
相談員さんは、ゆっくりと、聞いてくれた。
- いつ、どこで、何があったか
- いま、身体・心の状態は
- 今後、どうしたいか
わたしは、できるだけ正直に、話した。
途中で、何度か、涙で、言葉が、止まった。
そのたびに、相談員さんは、「急がなくて大丈夫ですよ」と、待ってくれた。
そのたびに、美里が、わたしの手を、ぎゅっと、握り直してくれた。
「警察に届けるかどうかも、まだ決めてません」と、わたしは、言った。
「それで、大丈夫です」と、相談員さんは、言った。
「決めなくていい状態を作ることが、まず大事です」
「今後、フラッシュバックがあったり、電車に乗るのが怖くなったりすることがあるかもしれません」と、続けた。
「それも、正常な反応です」
「つらかったら、いつでも、電話してください。カウンセリングも、繋げます」
電話を切ったあと、わたしは、自分の体が、ほんの少しだけ、楽になっているのを、感じた。
話を聞いてもらう、それだけのことの、大きさを、初めて、知った。
そして、その夜、わたしは、葵のベッドに、3人で、寝た。
葵がベッドの片側、美里がもう片側、わたしを真ん中にして、3人並んで、寝た。
まるで、女子高生の修学旅行みたいだった。
そんな夜が、必要だった。
いまどき、27歳になっても、ふつうに、3人で、ベッドに並んで寝るのが、必要な夜が、ある。
子どものとき、誰かと布団を並べて寝た夜の、安心感。
その記憶を、わたしたちの、おとなのからだは、ちゃんと、覚えていた。
それから1週間、わたしは、自分が思っていたより不調であることに、気づいていった。
朝、満員電車に乗るのが、怖い。
スーツの男性を見ると、心臓が、早くなる。
夜、ベッドの中で、あの瞬間が、頭に、蘇る。
「勘違いだったかも」と、何度も、自分に、問い直す。
そして──。
健太に触られると、なぜか、体が固くなる。
愛情と、恐怖が、頭のなかで、切り離せなくなっているようだった。
ある夜、健太の部屋で、それに、気づいた。
ベッドのうえで、ふつうに、キスしようとした健太の手が、わたしの腰に触れた瞬間、わたしは、反射的に、彼の手を、払いのけてしまった。
健太は、3秒くらい、わたしの顔を、見て、それから、何も聞かずに、手を、引いた。
「ごめんね」と、わたしは、すぐに、言った。
「ううん、こっちこそ、ごめん」と、健太は、言った。
「あのね、わたし、いま、ちょっと、そういうのが、無理かもしれない」
「うん」
「身体が、覚えちゃってるみたい」
健太は、わたしの手だけを、ぎゅっと握って、それで、その夜は、ふたりとも服を着たまま、ふつうに、ご飯を食べて、テレビを見て、隣で、寝た。
わたしは、彼の手のあたたかさだけを、ずっと、握り直して、握り直して、その晩は、ぐっすり、寝た。
健太は、その夜、ベッドのなかで、こう、言った。
「美咲、教えてくれて、ありがとう」
「うん?」
「俺、なんで美咲が反射的に手を払ったか、わからなくて、最初、ちょっと、傷ついた」
「でも、教えてくれて、ぜんぶ、わかった」
「美咲のからだは、いま、戦っている」
「俺は、その戦いを、邪魔しないように、隣にいたい」
わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつぶ、落とした。
健太は、わたしのからだの、いまの状態を、敵じゃなく、戦友として、見てくれた。
世間で、性行為を拒否された男性が、すぐに「俺のこと、嫌いになった?」と、自分の物語に持って行く話を、たくさん聞いてきた。
でも、健太は、そうしなかった。
わたしのからだのいまを、わたしのものとして、ちゃんと、尊重した。
そういう男性が、もっと、世間に、増えてほしい。
葵に、相談した。
「これって、PTSDってやつ?」
「急性ストレス反応のレベルかも。1か月以上続いたら、PTSDって診断される」と、葵は、答えた。
「でも、早めにケアすれば、慢性化しないですむことが多い」
「カウンセリング、受けた方がいい?」
「受けるのが正解。ワンストップ支援センター経由なら、カウンセリング費用も公費負担になる場合があるから、相談してみて」
わたしは、紹介された臨床心理士のもとで、月に2回、カウンセリングを、受け始めた。
1回50分、自己負担は1,500円。残りはワンストップ支援センター経由の公費。
カウンセラーさんは、40代の女性で、白髪まじりのショートカットで、声が、低くて、ゆっくり、していた。
そういう声って、たまに、ふだんの自分の早口を、強制的に、スローダウンさせる効果が、ある。
カウンセラーさんが、教えてくれたこと。
「性暴力の被害は、その瞬間で終わらない」と、彼女は、言った。
「身体・心・人間関係・睡眠・食欲、いろんなところに、影響が、出る」
「それは、弱いからじゃない、自然な反応」
「フリーズ(凍りつき)反応は、戦う・逃げるより深いレベルの、防衛機能」
「動物が捕食者の前で死んだふりをするのと、同じ仕組み」
「Victim Blaming(被害者非難)っていう問題があります。社会も、自分自身も、『なんで』被害者を責めてしまうことが、ある」
「でも、100%の責任は、加害者にある」
「回復のステップは、こんな感じ」と、彼女は、紙に、書いてくれた。
1. 安全の確立(身体的・心理的)
2. 想起と服喪(トラウマ処理)
3. 再結合(人生の再構築)
「これは、ジュディス・ハーマンの古典的な理論ね」
「EMDRって治療法も、トラウマには、効果が高いです」
「美咲さんは、いま、第1段階の終わり頃。安全はだいぶ確立できてる」
「次の段階で、もう少し、今朝の10秒のことを、ちゃんと言葉にしていく作業を、しましょう」
わたしは、毎回、ぽろぽろ泣きながら、話を、聞いた。
「自分は何もしてないのに、なんで自分がケアを受けないといけないのか」と思うこともあった。
でも、それでも、ちゃんと回復するのは、自分のためだった。
帰り道、いつも、コンビニで、ホットココアを、買った。
カウンセリングのあと、わたしは、自分のために、何か甘いものを、買うようにしていた。
ご褒美って、ちょっと、安っぽい言葉だけど、わたしのからだは、その甘いココアを、ちゃんと、覚えていく。
「カウンセリングのあと→甘いココア→ちょっと、楽になる」っていう、回路を、わたしのからだのなかに、書き込む作業**。
それが、回復、っていうことの、ふつうの中身だった。
3か月後、わたしは、また、ピーク時間の山手線にも、乗れるように、なった。
最初は、女性専用車両を、使うようにしていた。
しばらくは、必ず、ドアの脇の壁にもたれて、背中側からの視界を確保しながら乗るようにしていた。
でも、ふつうに通勤するわたしを、すこしずつ、取り戻した。
ある日、健太に、話した。
渋谷の、ふたりが、よく行く韓国料理屋。
辛い豆腐チゲと、ビール。
「わたしさ、あの日のあと、けっこう長く、調子悪かった」
「うん。気づいてた」と、健太は、言った。
「何か言うと、もっと負担になるかと思って、聞けなかった」
「ありがとう。それが、ちょうどよかった」
「痴漢って、すごい一瞬の出来事なんだよ。10秒くらい」と、わたしは、言った。
「でも、その10秒で、こんなに揺さぶられる」
「自分でも、信じられなかった」
健太は、ビールを飲んでから、ゆっくり、言った。
「重さは、時間じゃないんだよね」
「何を奪われたか、で決まる」
わたしは、こんなに、自分の体と心を、信じてくれる人と一緒にいられて、本当によかった、と、思った。
回復が進んだあるとき、わたしは、美里と、ふたりで、また、新宿三丁目のカフェで、お茶を、した。
「美里」
「うん?」
「わたし、あの夜、葵の家で、3人で寝てくれて、ありがとう」
「ううん、こちらこそ」
「でも、聞いていい?」
「なに」
「美里、自分が、3年前に、ホームで触られたとき、警察に駆け込んだって、言ってたよね」
「うん」
「そのとき、こわかった?」
美里は、しばらく、考えてから、言った。
「こわかった」
「でも、そのとき、わたしを支えたのは、わたしのお店の女の子たちだった」
「店の同僚に電話したら、3人くらい、すぐ駅まで来てくれた」
「「美里、よくやった、ちゃんと声上げてえらい」って、駅前で囲んでくれた」
「わたしたち、夜のお店の女、って、世間からは「弱い」って思われてるけど、現場で痴漢に立ち向かう瞬間は、めっちゃ強いんだよ」
「だって、わたしたちは、自分のからだを商品にしてるって言われる業界で生きてるから、自分のからだの境界線について、世間より、ずっと、敏感」
「痴漢されるって、わたしたちにとっては、商品としての自分じゃなくて、人としての自分が、踏みにじられること」
「だから、絶対、許せない」
美里の声には、強い、強い、芯が、通っていた。
「美里」
「うん」
「夜のお店の人たちが、どれだけ強い人たちか、わたし、ぜんぜん、知らなかった」
「そりゃそうよ。世間が、知らないようにしてるから」
「世間は、わたしたちを「保護される対象」か「忌避すべき対象」のどっちかにしか、置きたがらない」
「でも、わたしたちは、ふつうに、毎日、職場のいやがらせとか、痴漢とか、社会の偏見と、闘いながら、生きてる」
「それを、誰かに、ちゃんと、知ってもらいたい」
わたしは、頷いた。
美里の3年前のホームの夜を、わたしは、ちゃんと、抱きしめた。
そして、わたしの今朝の山手線の朝を、美里が、ちゃんと、抱きしめてくれた。
わたしたちは、職業も、立場も、ぜんぜん違う。
でも、痴漢にあった朝の、震えるような恐怖は、同じ。
そのことを、わたしたちは、お互いに、ちゃんと知っている。
それが、わたしには、何より、大きな救いだった。
ある朝、わたしは、また、山手線に乗っていた。
ピークは過ぎた、9時前後の電車。
斜め前で、20代前半くらいの女の子が、青い顔をして、つり革を、握っていた。
目の動きが、おかしかった。
横にいた中年男性の、すこし、距離感のおかしい立ち方。
その瞬間、わたしのからだは、3か月前の自分を、ぜんぶ、思い出した。
わたしは、思い切って、彼女に、近づいた。
人ごみのなかで、彼女の手の手前に、自分の手を伸ばして、軽く、彼女の指の甲を、ちょんちょん、と、触った。
彼女が、はっとして、わたしを、見た。
わたしは、口の動きだけで「だいじょうぶ?」と、彼女に、伝えた。
彼女は、目で、頷いた。
次の駅で、わたしと彼女は、ふたり並んで、電車を、降りた。
ホームのベンチで、彼女は、しばらく、泣いていた。
わたしは、隣に座って、ティッシュを差し出して、ただ、そこにいた。
そして、彼女に、こう、言った。
「いま、わたし、あなたが感じてることを、ちょっとだけ、わかる」
「わたしも、何か月か前に、同じ経験をした」
「何も、悪くないよ」
「ちゃんと、降りてくれて、よかった」
彼女は、泣きながら、頷いた。
「よかったら、相談先のリスト、メモしていく?」
わたしは、スマホで、ワンストップ支援センターの番号を、彼女のメモアプリに、送った。
わたしが、3か月前、葵と美里にしてもらったことを、いま、わたしも、誰かにできる。
痛みは、ループしていく。
でも、回復も、ループしていく。
わたしは、それの、輪のひとつに、なれた。
ホームの天井を、雀が、一羽、横切っていった。
雀が、しゅっと、視界を、過ぎたあとに、わたしは、すこし、笑った。
こんな、ありふれたホームのベンチで、こんな、ふつうの東京の朝に、こんな、ささやかな救いを、ふたり、共有できる。
世間で、表彰されるような、大きなことではない。
でも、それは、確実に、世界を、すこし、ましにする、ひとつの、行動だった。
まとめメモ:性暴力・性被害
内閣府の調査(令和5年度)
- 女性の約14人に1人が、無理やり性交等をされた経験あり
- 加害者の多くは面識のある人物(配偶者・元配偶者・交際相手・職場・親族)
- 相談しなかった理由の半数:「恥ずかしくて誰にも言えなかった」
よくある誤った神話と事実
| 神話 | 事実 |
|---|---|
| 派手な服装の人が狙われる | 服装は関係ない |
| 抵抗すれば防げる | フリーズ反応は正常な防衛反応 |
| 知らない人にされる | 加害者の多くは知人・家族・恋人 |
| 大したことない | 被害の重さは、本人の傷の深さで決まる |
被害にあったら
1. 安全な場所へ
2. #8891(ワンストップ支援センター)へ電話
3. 必要なら医療・警察・カウンセリング
4. 証拠保全(シャワーNG、衣服はそのまま)
5. 緊急避妊薬・PEP(HIV予防)は72時間以内
心のケア
- 正常な反応:フラッシュバック、不眠、食欲不振、麻痺、罪悪感
- PTSDは、1か月以上続く場合
- EMDR・CPT・PE・TF-CBTなどエビデンスのある治療がある
関連法律
- 不同意わいせつ罪:6か月以上10年以下の拘禁刑
- 不同意性交等罪:5年以上の有期拘禁刑
- 迷惑防止条例違反(痴漢)
- 性的姿態撮影等処罰法(盗撮)
心に留めたいこと
- 動けなかった自分を、責めずに、誇りに思う
- 抱えている人の隣にいる、それだけで救いになる
- 痛みも、回復も、ループしていく
相談窓口
| 窓口 | 番号 | 内容 |
|---|---|---|
| ワンストップ支援センター | #8891 | 24時間対応の地域あり、医療・法的支援を一括 |
| 性犯罪被害相談電話 | #8103 | 警察相談 |
| Cure Time | gender.go.jp | 夜間・休日のチャット相談 |
| DV相談プラス | 0120-279-889 | 24時間 |
| 児童相談所虐待対応ダイヤル | 189 | 子どもの被害 |
| よりそいホットライン | 0120-279-338 | 24時間・無料 |
| ぱっぷす | 050-3177-5432 | 性的画像被害・JKビジネス |
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