第8話|山手線で、誰かのうしろ姿

⚠️ この回は、性暴力被害の体験を含みます。読むのがつらい方は、無理せず、別の話を選んでください。



10月の月曜日の朝、空気は、もう完全に、秋だった。

家を出るとき、薄手のニットの上に、すこし迷ってから、トレンチコートを、羽織った。

化粧をしている時間が、いつもより、5分、多かった。

理由は、特に、なかった。

ただ、その朝、すこしだけ、丁寧な気分だったんだと、思う。

鏡のなかの自分の眉を、いつもより、ちゃんと、左右対称に、整えた。

口紅も、ふだんはつけないオレンジ寄りのを、選んだ。

「今日は、ちょっと、いい日にしたい」って、起きたときから、思っていた。

けれど、世間は、ときどき、「いい日にしたい」女の子の意志を、ぜんぶ、無視して、踏みにじってくる

それを、わたしは、その日、いままでで、いちばん、はっきり、知ることになる。

代々木公園駅から、渋谷方向の山手線、8時50分発。

ピーク時間からは、ちょっと、ずれた、いわゆる「少しマシな」山手線。

それでも、ドアの近くは、降車駅まで身動きが取れないくらいの、混雑になる。

わたしは、ドアの近くに立って、片手で、つり革を持ち、もう片方の手で、スマホを、見ていた。

朝のニュースアプリのトップに、円安と、政治と、気象予報。

ふだん通りの、月曜だった



電車は、原宿駅で、いつものように、人が、乗ってきた。

わたしの背中の方から、スーツの腕が、すっと伸びてきて、つり革を掴むのが、視界の端で、わかった。

ふつうに、満員電車で、つり革を掴んだだけだった。

そう、思っていた。

そのスーツの腕の手首が、わたしの腰のあたりを、ふっと、擦った。

最初は、「満員電車だから、仕方ない」と思った。

電車って、そういうもの。

密着するし、揺れるし、人と人の体が、触れる。

でも、それが「ある一定のリズム」で、続いていることに、気づいてしまった。

電車の揺れと、関係ない動き。

電車が、止まったときも、続いていた。

少しずつ、確実に、撫でるように



頭が、真っ白に、なった。

「あれ、これ、痴漢、なのかな」

「でも、勘違いだったらどうしよう」

「もし違ったら、訴えられた人を、傷つけてしまう」

「いや、でも、この動き、たぶん、わざとだ」

「でも、声が出ない」

「振り返れない」

「どうしよう」

「どうしよう」

「どうしよう」

わたしの手は、つり革を、強く握ったまま、固まっていた。

スマホを持っていた指も、画面のうえで、止まっていた。

叫べばいい、と頭ではわかっていた

振り向けばいい、とも、わかっていた

なのに、体は、ぜんぜん、動かなかった

頭と体が、別々の生き物みたいに、ばらばらに、動いていた

そして、もうひとつ、奇妙なくらい、はっきりしていたのは、「自分の頭のなかで、相手を、心配する声」だった。

「もし、勘違いだったら、相手の人生を、壊してしまう」

わたしは、自分のからだが、いま、踏みにじられている、その瞬間に、相手のことを、心配していた

世間が、わたしに、教えてきた、優しさのフォーマットが、わたしの体のなかで、わたしを、麻痺させていた。

そう考えているうちに、電車は、渋谷に、着いた。

ドアが開いた瞬間、その男性は、ものすごい速さで、降りていった。

顔は、最後まで、見られなかった

わたしは、ドアの脇の壁に、もたれかかって、しばらく、動けなかった。

人波は、わたしを、取り巻いて、ホームに、流れていった。

何も、できなかった



会社のトイレに、駆け込んで、3分間、息を整えてから、葵にLINEした。

手が、震えて、変換を、何度も間違えた

美咲:「電車の中で、痴漢にあった、たぶん」

美咲:「何もできなかった」

美咲:「自分が情けない」

葵から、3秒で、電話が、来た。

わたしは、トイレの個室に入って、便座のうえに座って、震える手で、出た。

「美咲、聞こえる?」

「うん」

いい? まず、これは聞いて

葵の声は、ぴたっと、真っ直ぐで、わたしの内側で散り散りになっていた何かを、ぎゅっと、ひとつにまとめてくれるみたいに、響いた。

フリーズ反応って言って、恐怖や驚愕で身体が動かなくなるのは、人間の正常な防衛反応

戦う・逃げるだけじゃなくて、固まる、っていう生存戦略がある」

「うん」

「これ、医学的には強直性不動(Tonic Immobility)って言うんだけど、動物が捕食者の前で死んだふりをするのと、同じ防御メカニズム

動かないことで、危険をやり過ごすっていう、深い、生存戦略」

「うん」

美咲は、何も悪くない

わたしは、トイレの個室で、ぽろぽろ、泣いた。

誰にも聞こえないように、口を片方の手で、押さえながら。

泣くと、肩が震えて、ニットの繊維が、頬に当たって、痒かった。

『なんで抵抗しなかった』『なんで声を出さなかった』って、自分を責めないで

「うん」

それは身体の自動反応で、責任能力の問題じゃ、ない」

「うん」

今日、できる範囲で仕事して、夜、わたしの家においで

「……うん」

美咲は、何も、悪くない

葵は、最後にもう一度、それを、言った。

そのあと、葵から、追加で、メッセージが、来た。

:「美里にも、声かけていい? 今夜、3人がいい

美咲:「うん



その日の午後、わたしは、デスクで、企画書のレイアウトを直すフリをしながら、ぼんやりしていた。

頭の中で、今朝の10秒が、何度も、何度も、リピートされた。

スーツの腕。腰の感触。電車のドアが開いた瞬間、降りていった、誰かのうしろ姿

わたしは、その人の顔を、見ていない。

スーツの色も、ぼんやりとしか、覚えていない。

何も、特定できる情報を、わたしは、持ち帰ってこられなかった

それが、わたしのなかで、いちばん、悔しかった

世間で、痴漢の被害について、「ちゃんと顔を見て、現行犯逮捕したらいい」みたいに言う人が、たまに、いる

でも、いま、わたしには、それが、絶対に、できないことだった、っていうのが、ぜんぶ、わかった

フリーズしているとき、視覚も、聴覚も、ほとんど、機能しない

頭は、ぜんぶ、心臓のドキドキで、いっぱいになっている

世間の「正論」は、フリーズしている人には、届かない

夕方、葵の家に向かう電車のなかで、わたしは、ずっと、つり革を持たないで、ドア横の壁に、もたれていた。

つり革を握った右手の感触が、まだ、痺れているような気がした



葵の家に着くと、葵は、もう、夕飯の準備を、していた。

湯気の立ったキッチンで、スープを煮ているのが、見えた。

美里は、すでに、ソファに座って、わたしを待っていた

美咲ちゃん

美里は、わたしを見て、何も言わずに、ぎゅっ、と、ハグして、くれた。

その腕の力が、思っていたよりずっと強くて、わたしは、その瞬間、はじめて、声を出して、泣いた。

ごめん」と、わたしは、彼女の肩のところで、嗚咽した。

ごめんって、なに」と、美里は、笑った。「美咲ちゃん、何も悪くない

でも、何も、できなかった、わたし

動けなかったの、それが、わたしたちのからだの、いちばん深い、生き残るための知恵

動けなかった美咲ちゃんを、わたしは、誇りに思う

ちゃんと、生き残ってくれたから

その言葉に、わたしのなかの、何か、最後まで、突っ張っていた糸が、ぷつ、と、切れた。

動けなかったわたしを、誇りに思う

それは、わたしが、これまで、自分にも誰にも、言ってもらえなかった言葉だった。

世間は、いつも、被害者に、「強くなってください」と、急かす

「次は、ちゃんと声を上げよう」「証拠を残そう」「警察に行こう」

それは、ぜんぶ、正しい

けど、いまの瞬間に、「動けなかったあなたを、誇りに思う」と、言ってくれる人は、ふつう、いない

美里は、夜のお店で、何度も、自分のからだを、フリーズさせてきた人だった

そして、フリーズした自分を、何度も、抱きしめなおしてきた人だった

だから、わたしを、ちゃんと、抱きしめられた



夕飯のあと、3人で、ソファに座って、お茶を飲みながら、話した。

葵は、まず、ワンストップ支援センターのことを、わたしに、教えてくれた。

「美咲、ワンストップ支援センターって、知ってる?」

「うん、葵が前に教えてくれた。#8891でしょ」

「そう。ワンストップって名前の通り、医療・カウンセリング・警察への付き添い・法律相談、全部繋いでくれるところ24時間対応の地域あり、無料

「でも、痴漢って、ワンストップ支援センターに連絡するレベルなの?」と、わたしは、聞いた。

何が『大したこと』で、何が『大したことない』かを、自分以外の誰かが決めるのは、違う」と、葵は、言った。

美咲が今日、一日中、心がざわついて、夜眠れなくて、わたしに泣きながら電話してきたら、それは『大したこと』

そして、美里が、続けた。

美咲ちゃん、わたしね、夜のお店で4年やってきて、痴漢って、ある意味、いちばん身近な犯罪なの

通勤の電車、お店からの帰り道、お客さんと別れたあと

わたしも、何度も、経験ある

わたしのお店の同僚も、ほぼ全員、何回かは、ある

でね、わたしたちは、痴漢にあったあと、家に帰って、お風呂で泣いて、翌日もお店に立つ

それを、ふつうに、何回もやってきた

でも、ある日、わたし、決めたの

「次に痴漢にあったら、絶対、相談する」って

それで、3年前、ある夜、駅のホームで、お尻を触られたとき、わたし、はじめて、駅員さんに駆け込んで、警察を呼んだ

そのとき、犯人は逃げたけど、わたし、ワンストップに繋いでもらって、調書を取って、それから、すこし、心が、軽くなった

「あなたは、何も悪くない、相談してくれて、ありがとう」って、警察の女性の人が言ってくれた

そのときに、わたし、はじめて、「自分のからだを、ちゃんと、自分の手で、守った」って思えた

美咲ちゃんも、これから、相談しよう

わたしと一緒に、電話してもいい

美里の言葉に、わたしは、ふっと、肩の力が、抜けた。

美里も、ぜんぶを、ひとりで乗り越えてきた人だった。

そして、いま、わたしの隣にいてくれる



その夜、わたしは、葵の家のソファで、毛布にくるまって、#8891に、電話した。

美里は、わたしの隣に座って、手を握っていてくれた

最初の数秒、声が、出なかった。

受話器の向こうから、すこし遠い、ざらざらとした静寂が、聞こえた。

もしもし、ワンストップ支援センターです

女性の優しい声が、聞こえた。

それで、ようやく、わたしは、口を、開けた。

「あの、今朝、電車で、痴漢にあって……」

相談員さんは、ゆっくりと、聞いてくれた。

  • いつ、どこで、何があったか
  • いま、身体・心の状態は
  • 今後、どうしたいか

わたしは、できるだけ正直に、話した。

途中で、何度か、涙で、言葉が、止まった。

そのたびに、相談員さんは、「急がなくて大丈夫ですよ」と、待ってくれた

そのたびに、美里が、わたしの手を、ぎゅっと、握り直してくれた

「警察に届けるかどうかも、まだ決めてません」と、わたしは、言った。

それで、大丈夫です」と、相談員さんは、言った。

決めなくていい状態を作ることが、まず大事です

今後、フラッシュバックがあったり、電車に乗るのが怖くなったりすることがあるかもしれません」と、続けた。

それも、正常な反応です」

つらかったら、いつでも、電話してくださいカウンセリングも、繋げます

電話を切ったあと、わたしは、自分の体が、ほんの少しだけ、楽になっているのを、感じた。

話を聞いてもらう、それだけのことの、大きさを、初めて、知った。

そして、その夜、わたしは、葵のベッドに、3人で、寝た。

葵がベッドの片側、美里がもう片側、わたしを真ん中にして、3人並んで、寝た

まるで、女子高生の修学旅行みたいだった

そんな夜が、必要だった

いまどき、27歳になっても、ふつうに、3人で、ベッドに並んで寝るのが、必要な夜が、ある

子どものとき、誰かと布団を並べて寝た夜の、安心感

その記憶を、わたしたちの、おとなのからだは、ちゃんと、覚えていた



それから1週間、わたしは、自分が思っていたより不調であることに、気づいていった。

朝、満員電車に乗るのが、怖い。

スーツの男性を見ると、心臓が、早くなる。

夜、ベッドの中で、あの瞬間が、頭に、蘇る。

「勘違いだったかも」と、何度も、自分に、問い直す

そして──。

健太に触られると、なぜか、体が固くなる

愛情と、恐怖が、頭のなかで、切り離せなくなっているようだった。

ある夜、健太の部屋で、それに、気づいた。

ベッドのうえで、ふつうに、キスしようとした健太の手が、わたしの腰に触れた瞬間、わたしは、反射的に、彼の手を、払いのけてしまった。

健太は、3秒くらい、わたしの顔を、見て、それから、何も聞かずに、手を、引いた。

「ごめんね」と、わたしは、すぐに、言った。

「ううん、こっちこそ、ごめん」と、健太は、言った。

「あのね、わたし、いま、ちょっと、そういうのが、無理かもしれない

「うん」

身体が、覚えちゃってるみたい

健太は、わたしの手だけを、ぎゅっと握って、それで、その夜は、ふたりとも服を着たまま、ふつうに、ご飯を食べて、テレビを見て、隣で、寝た。

わたしは、彼の手のあたたかさだけを、ずっと、握り直して、握り直して、その晩は、ぐっすり、寝た

健太は、その夜、ベッドのなかで、こう、言った。

美咲、教えてくれて、ありがとう

「うん?」

俺、なんで美咲が反射的に手を払ったか、わからなくて、最初、ちょっと、傷ついた

でも、教えてくれて、ぜんぶ、わかった

美咲のからだは、いま、戦っている

俺は、その戦いを、邪魔しないように、隣にいたい

わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつぶ、落とした。

健太は、わたしのからだの、いまの状態を、敵じゃなく、戦友として、見てくれた

世間で、性行為を拒否された男性が、すぐに「俺のこと、嫌いになった?」と、自分の物語に持って行く話を、たくさん聞いてきた

でも、健太は、そうしなかった

わたしのからだのいまを、わたしのものとして、ちゃんと、尊重した

そういう男性が、もっと、世間に、増えてほしい



葵に、相談した。

「これって、PTSDってやつ?

急性ストレス反応のレベルかも。1か月以上続いたら、PTSDって診断される」と、葵は、答えた。

「でも、早めにケアすれば、慢性化しないですむことが多い

「カウンセリング、受けた方がいい?」

受けるのが正解。ワンストップ支援センター経由なら、カウンセリング費用も公費負担になる場合があるから、相談してみて」

わたしは、紹介された臨床心理士のもとで、月に2回、カウンセリングを、受け始めた。

1回50分、自己負担は1,500円。残りはワンストップ支援センター経由の公費

カウンセラーさんは、40代の女性で、白髪まじりのショートカットで、声が、低くて、ゆっくり、していた。

そういう声って、たまに、ふだんの自分の早口を、強制的に、スローダウンさせる効果が、ある。



カウンセラーさんが、教えてくれたこと。

性暴力の被害は、その瞬間で終わらない」と、彼女は、言った。

身体・心・人間関係・睡眠・食欲、いろんなところに、影響が、出る」

それは、弱いからじゃない、自然な反応

フリーズ(凍りつき)反応は、戦う・逃げるより深いレベルの、防衛機能」

動物が捕食者の前で死んだふりをするのと、同じ仕組み

Victim Blaming(被害者非難)っていう問題があります。社会も、自分自身も、『なんで』被害者を責めてしまうことが、ある

でも、100%の責任は、加害者にある

回復のステップは、こんな感じ」と、彼女は、紙に、書いてくれた。

1. 安全の確立(身体的・心理的)

2. 想起と服喪(トラウマ処理)

3. 再結合(人生の再構築)

これは、ジュディス・ハーマンの古典的な理論ね」

EMDRって治療法も、トラウマには、効果が高いです」

美咲さんは、いま、第1段階の終わり頃。安全はだいぶ確立できてる

次の段階で、もう少し、今朝の10秒のことを、ちゃんと言葉にしていく作業を、しましょう」

わたしは、毎回、ぽろぽろ泣きながら、話を、聞いた。

「自分は何もしてないのに、なんで自分がケアを受けないといけないのか」と思うこともあった

でも、それでも、ちゃんと回復するのは、自分のためだった。

帰り道、いつも、コンビニで、ホットココアを、買った。

カウンセリングのあと、わたしは、自分のために、何か甘いものを、買うようにしていた。

ご褒美って、ちょっと、安っぽい言葉だけど、わたしのからだは、その甘いココアを、ちゃんと、覚えていく

「カウンセリングのあと→甘いココア→ちょっと、楽になる」っていう、回路を、わたしのからだのなかに、書き込む作業**。

それが、回復、っていうことの、ふつうの中身だった



3か月後、わたしは、また、ピーク時間の山手線にも、乗れるように、なった。

最初は、女性専用車両を、使うようにしていた。

しばらくは、必ず、ドアの脇の壁にもたれて、背中側からの視界を確保しながら乗るようにしていた。

でも、ふつうに通勤するわたしを、すこしずつ、取り戻した。

ある日、健太に、話した。

渋谷の、ふたりが、よく行く韓国料理屋。

辛い豆腐チゲと、ビール。

わたしさ、あの日のあと、けっこう長く、調子悪かった

「うん。気づいてた」と、健太は、言った。

何か言うと、もっと負担になるかと思って、聞けなかった

「ありがとう。それが、ちょうどよかった」

痴漢って、すごい一瞬の出来事なんだよ。10秒くらい」と、わたしは、言った。

でも、その10秒で、こんなに揺さぶられる

自分でも、信じられなかった

健太は、ビールを飲んでから、ゆっくり、言った。

重さは、時間じゃないんだよね

何を奪われたか、で決まる

わたしは、こんなに、自分の体と心を、信じてくれる人と一緒にいられて、本当によかった、と、思った。



回復が進んだあるとき、わたしは、美里と、ふたりで、また、新宿三丁目のカフェで、お茶を、した。

「美里」

「うん?」

わたし、あの夜、葵の家で、3人で寝てくれて、ありがとう

ううん、こちらこそ

でも、聞いていい?

なに

美里、自分が、3年前に、ホームで触られたとき、警察に駆け込んだって、言ってたよね

うん

そのとき、こわかった?

美里は、しばらく、考えてから、言った。

こわかった

でも、そのとき、わたしを支えたのは、わたしのお店の女の子たちだった

店の同僚に電話したら、3人くらい、すぐ駅まで来てくれた

「美里、よくやった、ちゃんと声上げてえらい」って、駅前で囲んでくれた

わたしたち、夜のお店の女、って、世間からは「弱い」って思われてるけど、現場で痴漢に立ち向かう瞬間は、めっちゃ強いんだよ

だって、わたしたちは、自分のからだを商品にしてるって言われる業界で生きてるから、自分のからだの境界線について、世間より、ずっと、敏感

痴漢されるって、わたしたちにとっては、商品としての自分じゃなくて、人としての自分が、踏みにじられること

だから、絶対、許せない

美里の声には、強い、強い、芯が、通っていた。

美里

「うん」

夜のお店の人たちが、どれだけ強い人たちか、わたし、ぜんぜん、知らなかった

そりゃそうよ。世間が、知らないようにしてるから

世間は、わたしたちを「保護される対象」か「忌避すべき対象」のどっちかにしか、置きたがらない

でも、わたしたちは、ふつうに、毎日、職場のいやがらせとか、痴漢とか、社会の偏見と、闘いながら、生きてる

それを、誰かに、ちゃんと、知ってもらいたい

わたしは、頷いた。

美里の3年前のホームの夜を、わたしは、ちゃんと、抱きしめた。

そして、わたしの今朝の山手線の朝を、美里が、ちゃんと、抱きしめてくれた。

わたしたちは、職業も、立場も、ぜんぜん違う

でも、痴漢にあった朝の、震えるような恐怖は、同じ

そのことを、わたしたちは、お互いに、ちゃんと知っている

それが、わたしには、何より、大きな救いだった。



ある朝、わたしは、また、山手線に乗っていた。

ピークは過ぎた、9時前後の電車。

斜め前で、20代前半くらいの女の子が、青い顔をして、つり革を、握っていた。

目の動きが、おかしかった

横にいた中年男性の、すこし、距離感のおかしい立ち方。

その瞬間、わたしのからだは、3か月前の自分を、ぜんぶ、思い出した

わたしは、思い切って、彼女に、近づいた。

人ごみのなかで、彼女の手の手前に、自分の手を伸ばして、軽く、彼女の指の甲を、ちょんちょん、と、触った。

彼女が、はっとして、わたしを、見た。

わたしは、口の動きだけで「だいじょうぶ?」と、彼女に、伝えた。

彼女は、目で、頷いた。

次の駅で、わたしと彼女は、ふたり並んで、電車を、降りた。

ホームのベンチで、彼女は、しばらく、泣いていた。

わたしは、隣に座って、ティッシュを差し出して、ただ、そこにいた。

そして、彼女に、こう、言った。

いま、わたし、あなたが感じてることを、ちょっとだけ、わかる

わたしも、何か月か前に、同じ経験をした

何も、悪くないよ

ちゃんと、降りてくれて、よかった

彼女は、泣きながら、頷いた。

よかったら、相談先のリスト、メモしていく?

わたしは、スマホで、ワンストップ支援センターの番号を、彼女のメモアプリに、送った。

わたしが、3か月前、葵と美里にしてもらったことを、いま、わたしも、誰かにできる

痛みは、ループしていく

でも、回復も、ループしていく

わたしは、それの、輪のひとつに、なれた

ホームの天井を、雀が、一羽、横切っていった。

雀が、しゅっと、視界を、過ぎたあとに、わたしは、すこし、笑った

こんな、ありふれたホームのベンチで、こんな、ふつうの東京の朝に、こんな、ささやかな救いを、ふたり、共有できる

世間で、表彰されるような、大きなことではない

でも、それは、確実に、世界を、すこし、ましにする、ひとつの、行動だった


目次

まとめメモ:性暴力・性被害

内閣府の調査(令和5年度)

  • 女性の約14人に1人が、無理やり性交等をされた経験あり
  • 加害者の多くは面識のある人物(配偶者・元配偶者・交際相手・職場・親族)
  • 相談しなかった理由の半数:「恥ずかしくて誰にも言えなかった」

よくある誤った神話と事実

神話 事実
派手な服装の人が狙われる 服装は関係ない
抵抗すれば防げる フリーズ反応は正常な防衛反応
知らない人にされる 加害者の多くは知人・家族・恋人
大したことない 被害の重さは、本人の傷の深さで決まる

被害にあったら

1. 安全な場所へ

2. #8891(ワンストップ支援センター)へ電話

3. 必要なら医療・警察・カウンセリング

4. 証拠保全(シャワーNG、衣服はそのまま)

5. 緊急避妊薬・PEP(HIV予防)は72時間以内

心のケア

  • 正常な反応:フラッシュバック、不眠、食欲不振、麻痺、罪悪感
  • PTSDは、1か月以上続く場合
  • EMDR・CPT・PE・TF-CBTなどエビデンスのある治療がある

関連法律

  • 不同意わいせつ罪:6か月以上10年以下の拘禁刑
  • 不同意性交等罪:5年以上の有期拘禁刑
  • 迷惑防止条例違反(痴漢)
  • 性的姿態撮影等処罰法(盗撮)

心に留めたいこと

  • 動けなかった自分を、責めずに、誇りに思う
  • 抱えている人の隣にいる、それだけで救いになる
  • 痛みも、回復も、ループしていく

相談窓口

窓口 番号 内容
ワンストップ支援センター #8891 24時間対応の地域あり、医療・法的支援を一括
性犯罪被害相談電話 #8103 警察相談
Cure Time gender.go.jp 夜間・休日のチャット相談
DV相談プラス 0120-279-889 24時間
児童相談所虐待対応ダイヤル 189 子どもの被害
よりそいホットライン 0120-279-338 24時間・無料
ぱっぷす 050-3177-5432 性的画像被害・JKビジネス

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第8話|山手線で、誰かのうしろ姿

⚠️ この回は、性暴力被害の体験を含みます。読むのがつらい方は、無理せず、別の話を選んでください。



10月の月曜日の朝、空気はもう完全に秋だった。

家を出るとき、薄手のニットの上にすこし迷ってからトレンチコートを羽織った。化粧にいつもより5分多くかけた。理由は特にない。ただその朝、すこしだけ丁寧な気分だったんだと思う。

鏡のなかの自分の眉をいつもよりちゃんと左右対称に整えた。口紅もふだんはつけないオレンジ寄りのを選んだ。「今日はちょっといい日にしたい」って起きたときから思っていた。

けれど、世間はときどき「いい日にしたい」という気持ちをぜんぶ無視して踏みにじってくる。

それをわたしはその日、いままででいちばんはっきり知ることになる。

代々木公園駅から渋谷方向の山手線、8時50分発。ピーク時間からはちょっとずれた「少しマシな」山手線。それでもドアの近くは降車駅まで身動きが取れないくらいの混雑になる。

わたしはドアの近くに立って、片手でつり革を持ちもう片方の手でスマホを見ていた。朝のニュースアプリのトップに円安と政治と気象予報。ふだん通りの月曜だった。



電車は原宿駅でいつものように人が乗ってきた。

わたしの背中の方からスーツの腕がすっと伸びてきてつり革を掴むのが視界の端でわかった。ふつうに満員電車でつり革を掴んだだけ。そう思っていた。

そのスーツの腕の手首がわたしの腰のあたりをふっと擦った。

最初は「満員電車だから仕方ない」と思った。電車ってそういうもの。密着するし揺れるし人と人の体が触れる。

でもそれが「ある一定のリズム」で続いていることに気づいてしまった。電車の揺れと関係ない動き。電車が止まったときも続いていた。少しずつ、確実に、撫でるように。



頭が真っ白になった。

「あれ、これ痴漢なのかな」「でも勘違いだったらどうしよう」「もし違ったら訴えられた人を傷つけてしまう」「いや、でもこの動きたぶんわざとだ」「でも声が出ない」「振り返れない」「どうしよう」

わたしの手はつり革を強く握ったまま固まっていた。スマホを持っていた指も画面のうえで止まっていた。

叫べばいいと頭ではわかっていた。振り向けばいいともわかっていた。なのに体はぜんぜん動かなかった。頭と体が別々の生き物みたいにばらばらだった。

そしてもうひとつ奇妙なくらいはっきりしていたのは、「自分の頭のなかで相手を心配する声」だった。

「もし勘違いだったら、相手の人生を壊してしまう」

わたしは自分のからだがいま踏みにじられているその瞬間に、相手のことを心配していた。世間がわたしに教えてきた「優しさのフォーマット」がわたしの体のなかでわたしを麻痺させていた。

そう考えているうちに電車は渋谷に着いた。ドアが開いた瞬間、その男性はものすごい速さで降りていった。

顔は最後まで見られなかった。

わたしはドアの脇の壁にもたれかかってしばらく動けなかった。人波はわたしを取り巻いてホームに流れていった。

何もできなかった。



会社のトイレに駆け込んで、3分間息を整えてから杏にLINEした。手が震えて変換を何度も間違えた。

:「電車の中で痴漢にあった、たぶん」

:「何もできなかった」

:「自分が情けない」

杏から3秒で電話が来た。

わたしはトイレの個室に入って便座のうえに座って、震える手で出た。

「萌、聞こえる?」

「うん」

「いい? まず、これは聞いて」

杏の声はぴたっと真っ直ぐで、わたしの内側で散り散りになっていた何かをぎゅっとひとつにまとめてくれるみたいだった。

フリーズ反応って言って、恐怖や驚愕で身体が動かなくなるのは人間の正常な防衛反応

「戦う・逃げるだけじゃなくて、固まるっていう生存戦略がある」

「うん」

「医学的には強直性不動(Tonic Immobility)って言うんだけど、動物が捕食者の前で死んだふりをするのと同じ防御メカニズム。動かないことで危険をやり過ごすっていう深い生存戦略」

「うん」

萌は、何も悪くない

わたしはトイレの個室でぽろぽろ泣いた。誰にも聞こえないように口を片方の手で押さえながら。

「『なんで抵抗しなかった』『なんで声を出さなかった』って自分を責めないで」

「うん」

「それは身体の自動反応で、責任能力の問題じゃない」

「うん」

「今日、できる範囲で仕事して、夜、わたしの家においで」

「……うん」

萌は何も悪くない

杏は最後にもう一度、それを言った。

そのあと杏から追加でメッセージが来た。

:「美里にも声かけていい? 今夜、3人がいい

:「うん



その日の午後、デスクで企画書のレイアウトを直すフリをしながらぼんやりしていた。

頭の中で今朝の10秒が何度もリピートされた。スーツの腕。腰の感触。電車のドアが開いた瞬間降りていった誰かのうしろ姿。

わたしはその人の顔を見ていない。スーツの色もぼんやりとしか覚えていない。何も特定できる情報を持ち帰ってこられなかった。それがいちばん悔しかった。

「ちゃんと顔を見て現行犯逮捕したらいい」みたいに言う人がたまにいる。でもいまのわたしにはそれが絶対にできないことだったっていうのがぜんぶわかった。フリーズしているとき、視覚も聴覚もほとんど機能しない。頭はぜんぶ心臓のドキドキでいっぱいになっている。

夕方、杏の家に向かう電車のなかでずっとつり革を持たないでドア横の壁にもたれていた。つり革を握った右手の感触がまだ痺れているような気がした。



杏の家に着くと、杏はもう夕飯の準備をしていた。湯気の立ったキッチンでスープを煮ているのが見えた。

美里はすでにソファに座ってわたしを待っていた。

「萌ちゃん」

美里はわたしを見て何も言わずにぎゅっとハグしてくれた。

その腕の力が思っていたよりずっと強くて、わたしはその瞬間はじめて声を出して泣いた。

「ごめん」と嗚咽した。

「ごめんって、なに」と美里は笑った。「萌ちゃん何も悪くない」

「でも何もできなかったわたし」

「動けなかったの、それがわたしたちのからだのいちばん深い生き残るための知恵」

動けなかった萌ちゃんをわたしは誇りに思う。ちゃんと生き残ってくれたから

その言葉にわたしのなかの最後まで突っ張っていた糸がぷつと切れた。

「動けなかったわたしを誇りに思う」。それはわたしがこれまで自分にも誰にも言ってもらえなかった言葉だった。

世間はいつも被害者に「強くなってください」と急かす。「次はちゃんと声を上げよう」「証拠を残そう」「警察に行こう」。それはぜんぶ正しい。けどいまの瞬間に「動けなかったあなたを誇りに思う」と言ってくれる人はふつういない。

美里は夜のお店で何度も自分のからだをフリーズさせてきた人だった。そしてフリーズした自分を何度も抱きしめなおしてきた人だった。だからわたしをちゃんと抱きしめられた。



夕飯のあと、3人でソファに座ってお茶を飲みながら話した。

杏はまずワンストップ支援センターのことをわたしに教えてくれた。

「萌、ワンストップ支援センターって知ってる?」

「うん、杏が前に教えてくれた。#8891でしょ」

「そう。ワンストップって名前の通り、医療・カウンセリング・警察への付き添い・法律相談、全部繋いでくれるところ。24時間対応の地域あり、無料」

「でも痴漢ってワンストップ支援センターに連絡するレベルなの?」

何が『大したこと』で何が『大したことない』かを自分以外の誰かが決めるのは違う」と杏は言った。

「萌が今日一日中心がざわついて夜眠れなくてわたしに泣きながら電話してきたら、それは『大したこと』」

そして美里が続けた。

「萌ちゃん、わたしね夜のお店で4年やってきて、痴漢っていちばん身近な犯罪なの。通勤の電車、お店からの帰り道、お客さんと別れたあと。わたしも何度も経験ある」

「わたしのお店の同僚もほぼ全員何回かはある。でね、わたしたちは痴漢にあったあと家に帰ってお風呂で泣いて翌日もお店に立つ。それをふつうに何回もやってきた」

「でもある日わたし決めたの。『次に痴漢にあったら絶対相談する』って」

「3年前、ある夜、駅のホームでお尻を触られたときわたしはじめて駅員さんに駆け込んで警察を呼んだ。犯人は逃げたけど、ワンストップに繋いでもらって調書を取ってそれからすこし心が軽くなった」

「『あなたは何も悪くない、相談してくれてありがとう』って警察の女性の人が言ってくれた。そのときにわたしはじめて、自分のからだをちゃんと自分の手で守ったって思えた」

「萌ちゃんもこれから相談しよう。わたしと一緒に電話してもいい」

美里の言葉にわたしはふっと肩の力が抜けた。美里もぜんぶをひとりで乗り越えてきた人だった。そしていまわたしの隣にいてくれる。



その夜、わたしは杏の家のソファで毛布にくるまって#8891に電話した。美里はわたしの隣に座って手を握っていてくれた。

最初の数秒、声が出なかった。

「もしもし、ワンストップ支援センターです」

女性の優しい声が聞こえた。それでようやくわたしは口を開けた。

「あの、今朝電車で痴漢にあって……」

相談員さんはゆっくりと聞いてくれた。いつどこで何があったか、いま身体・心の状態は、今後どうしたいか。

わたしはできるだけ正直に話した。途中で何度か涙で言葉が止まった。そのたびに相談員さんは「急がなくて大丈夫ですよ」と待ってくれた。そのたびに美里がわたしの手をぎゅっと握り直してくれた。

「警察に届けるかどうかもまだ決めてません」

それで大丈夫です。決めなくていい状態を作ることがまず大事です

「今後フラッシュバックがあったり電車に乗るのが怖くなったりすることがあるかもしれません。それも正常な反応です。つらかったらいつでも電話してください。カウンセリングも繋げます」

電話を切ったあと、自分の体がほんの少しだけ楽になっているのを感じた。話を聞いてもらうそれだけのことの大きさを初めて知った。

その夜、杏のベッドに3人で寝た。杏がベッドの片側、美里がもう片側、わたしを真ん中にして3人並んで寝た。まるで女子高生の修学旅行みたいだった。そんな夜が必要だった。



それから1週間、わたしは自分が思っていたより不調であることに気づいていった。

朝の満員電車に乗るのが怖い。スーツの男性を見ると心臓が早くなる。夜ベッドの中であの瞬間が頭に蘇る。「勘違いだったかも」と何度も自分に問い直す。

そして、翔に触られるとなぜか体が固くなる。愛情と恐怖が頭のなかで切り離せなくなっているようだった。

ある夜、翔の部屋で気づいた。ベッドのうえでふつうにキスしようとした翔の手がわたしの腰に触れた瞬間、わたしは反射的に彼の手を払いのけてしまった。

翔は3秒くらいわたしの顔を見て、それから何も聞かずに手を引いた。

「ごめんね」とすぐに言った。

「ううん、こっちこそごめん」と翔は言った。

「あのねわたしいまちょっとそういうのが無理かもしれない」

「うん」

「身体が覚えちゃってるみたい」

翔はわたしの手だけをぎゅっと握って、それでその夜はふたりとも服を着たままふつうにご飯を食べてテレビを見て隣で寝た。わたしは彼の手のあたたかさだけをずっと握り直してその晩はぐっすり寝た。

翔はその夜、ベッドのなかでこう言った。

「萌、教えてくれてありがとう」

「うん?」

「俺、なんで萌が反射的に手を払ったかわからなくて最初ちょっと傷ついた。でも教えてくれてぜんぶわかった」

萌のからだはいま戦っている。俺はその戦いを邪魔しないように隣にいたい

わたしはぽろっと涙をひとつぶ落とした。

翔はわたしのからだのいまの状態を敵じゃなく戦友として見てくれた。性行為を拒否されてすぐに「俺のこと嫌いになった?」と自分の物語に持って行く話をたくさん聞いてきた。でも翔はそうしなかった。わたしのからだのいまをわたしのものとしてちゃんと尊重した。



杏に相談した。

「これってPTSDってやつ?」

急性ストレス反応のレベルかも。1か月以上続いたらPTSDって診断される」と杏は答えた。

「でも早めにケアすれば慢性化しないですむことが多い」

「カウンセリング受けた方がいい?」

「受けるのが正解。ワンストップ支援センター経由ならカウンセリング費用も公費負担になる場合があるから相談してみて」

わたしは紹介された臨床心理士のもとで月に2回カウンセリングを受け始めた。1回50分、自己負担は1,500円。残りはワンストップ支援センター経由の公費。

カウンセラーさんは40代の女性で、白髪まじりのショートカットで声が低くてゆっくりしていた。



カウンセラーさんが教えてくれたこと。

性暴力の被害はその瞬間で終わらない。身体・心・人間関係・睡眠・食欲、いろんなところに影響が出る。それは弱いからじゃない、自然な反応」

フリーズ(凍りつき)反応は戦う・逃げるより深いレベルの防衛機能。動物が捕食者の前で死んだふりをするのと同じ仕組み」

Victim Blaming(被害者非難)っていう問題があります。社会も自分自身も『なんで』と被害者を責めてしまうことがある。でも100%の責任は加害者にある

回復のステップはこんな感じ」と紙に書いてくれた。

1. 安全の確立(身体的・心理的)

2. 想起と服喪(トラウマ処理)

3. 再結合(人生の再構築)

「これはジュディス・ハーマンの古典的な理論ね」

EMDRって治療法もトラウマには効果が高いです」

「萌さんはいま第1段階の終わり頃。安全はだいぶ確立できてる。次の段階でもう少し今朝の10秒のことをちゃんと言葉にしていく作業をしましょう」

わたしは毎回ぽろぽろ泣きながら話を聞いた。「自分は何もしてないのになんで自分がケアを受けないといけないのか」と思うこともあった。でもそれでもちゃんと回復するのは自分のためだった。

帰り道いつもコンビニでホットココアを買った。カウンセリングのあと自分のために何か甘いものを買うようにしていた。「カウンセリングのあと→甘いココア→ちょっと楽になる」という回路をからだのなかに書き込む作業。それが回復ということのふつうの中身だった。



3か月後、わたしはまたピーク時間の山手線にも乗れるようになった。

最初は女性専用車両を使うようにしていた。しばらくは必ずドアの脇の壁にもたれて背中側からの視界を確保しながら乗るようにしていた。でもふつうに通勤するわたしをすこしずつ取り戻した。

ある日、翔に話した。渋谷のふたりがよく行く韓国料理屋。辛い豆腐チゲとビール。

「わたしさ、あの日のあとけっこう長く調子悪かった」

「うん。気づいてた」と翔は言った。「何か言うともっと負担になるかと思って聞けなかった」

「ありがとう。それがちょうどよかった」

「痴漢ってすごい一瞬の出来事なんだよ。10秒くらい。でもその10秒でこんなに揺さぶられる。自分でも信じられなかった」

翔はビールを飲んでからゆっくり言った。

重さは時間じゃないんだよね。何を奪われたかで決まる

わたしはこんなに自分の体と心を信じてくれる人と一緒にいられて本当によかったと思った。



回復が進んだあるとき、美里とふたりで新宿三丁目のカフェでお茶をした。

「美里」

「うん?」

「わたしあの夜、杏の家で3人で寝てくれてありがとう」

「ううん、こちらこそ」

「でも聞いていい?」

「なに」

「美里、自分が3年前にホームで触られたとき警察に駆け込んだって言ってたよね」

「うん」

「そのときこわかった?」

美里はしばらく考えてから言った。

「こわかった。でもそのときわたしを支えたのはお店の女の子たちだった。同僚に電話したら3人くらいすぐ駅まで来てくれた。『美里よくやった、ちゃんと声上げてえらい』って駅前で囲んでくれた」

「わたしたち夜のお店の女って、世間からは『弱い』って思われてるけど、現場で痴漢に立ち向かう瞬間はめっちゃ強いんだよ」

「だってわたしたちは自分のからだを商品にしてるって言われる業界で生きてるから、自分のからだの境界線について世間よりずっと敏感」

「痴漢されるって、わたしたちにとっては商品としての自分じゃなくて、人としての自分が踏みにじられること。だから絶対許せない」

美里の声には強い芯が通っていた。

「美里」

「うん」

「夜のお店の人たちがどれだけ強い人たちかわたしぜんぜん知らなかった」

「そりゃそうよ。世間が知らないようにしてるから。世間はわたしたちを『保護される対象』か『忌避すべき対象』のどっちかにしか置きたがらない。でもわたしたちはふつうに毎日、職場のいやがらせとか痴漢とか社会の偏見と闘いながら生きてる。それを誰かにちゃんと知ってもらいたい」

わたしは頷いた。美里の3年前のホームの夜をちゃんと受け止めた。そしてわたしの今朝の山手線の朝を美里がちゃんと抱きしめてくれた。

わたしたちは職業も立場もぜんぜん違う。でも痴漢にあった朝の震えるような恐怖は同じ。そのことをお互いにちゃんと知っている。それがわたしには何より大きな救いだった。



ある朝、わたしはまた山手線に乗っていた。ピークは過ぎた9時前後の電車。

斜め前で20代前半くらいの女の子が青い顔をしてつり革を握っていた。目の動きがおかしかった。横にいた中年男性のすこし距離感のおかしい立ち方。

その瞬間、わたしのからだは3か月前の自分をぜんぶ思い出した。

わたしは思い切って彼女に近づいた。人ごみのなかで彼女の手の手前に自分の手を伸ばして軽く彼女の指の甲をちょんちょんと触った。

彼女がはっとしてわたしを見た。

わたしは口の動きだけで「だいじょうぶ?」と伝えた。

彼女は目で頷いた。

次の駅でわたしと彼女はふたり並んで電車を降りた。

ホームのベンチで彼女はしばらく泣いていた。わたしは隣に座ってティッシュを差し出してただそこにいた。

そして彼女にこう言った。

「いまわたしあなたが感じてることをちょっとだけわかる。わたしも何か月か前に同じ経験をした。何も悪くないよ。ちゃんと降りてくれてよかった」

彼女は泣きながら頷いた。

「よかったら相談先のリスト、メモしていく?」

わたしはスマホでワンストップ支援センターの番号を彼女のメモアプリに送った。

わたしが3か月前、杏と美里にしてもらったことをいまわたしも誰かにできる。痛みはループしていく。でも回復もループしていく。わたしはそれの輪のひとつになれた。


まとめメモ:性暴力・性被害

内閣府の調査(令和5年度)

  • 女性の約14人に1人が、無理やり性交等をされた経験あり
  • 加害者の多くは面識のある人物(配偶者・元配偶者・交際相手・職場・親族)
  • 相談しなかった理由の半数:「恥ずかしくて誰にも言えなかった」

よくある誤った神話と事実

神話 事実
派手な服装の人が狙われる 服装は関係ない
抵抗すれば防げる フリーズ反応は正常な防衛反応
知らない人にされる 加害者の多くは知人・家族・恋人
大したことない 被害の重さは、本人の傷の深さで決まる

被害にあったら

1. 安全な場所へ

2. #8891(ワンストップ支援センター)へ電話

3. 必要なら医療・警察・カウンセリング

4. 証拠保全(シャワーNG、衣服はそのまま)

5. 緊急避妊薬・PEP(HIV予防)は72時間以内

心のケア

  • 正常な反応:フラッシュバック、不眠、食欲不振、麻痺、罪悪感
  • PTSDは、1か月以上続く場合
  • EMDR・CPT・PE・TF-CBTなどエビデンスのある治療がある

関連法律

  • 不同意わいせつ罪:6か月以上10年以下の拘禁刑
  • 不同意性交等罪:5年以上の有期拘禁刑
  • 迷惑防止条例違反(痴漢)
  • 性的姿態撮影等処罰法(盗撮)

心に留めたいこと

  • 動けなかった自分を、責めずに、誇りに思う
  • 抱えている人の隣にいる、それだけで救いになる
  • 痛みも、回復も、ループしていく

相談窓口

窓口 番号 内容
ワンストップ支援センター #8891 24時間対応の地域あり、医療・法的支援を一括
性犯罪被害相談電話 #8103 警察相談
Cure Time gender.go.jp 夜間・休日のチャット相談
DV相談プラス 0120-279-889 24時間
児童相談所虐待対応ダイヤル 189 子どもの被害
よりそいホットライン 0120-279-338 24時間・無料
ぱっぷす 050-3177-5432 性的画像被害・JKビジネス

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