3月、年度末。
仕事は、地獄みたいに、忙しかった。
担当しているクライアントの新商品ローンチが4月にあって、12月から3月にかけて、わたしの平日は、ぜんぶ、その案件で、塗りつぶされていた。
朝7時に家を出て、22時に会社を出て、ターミナル駅で、ラーメン屋に駆け込んで、家に帰り着くのが、23時。
土曜は、出勤、日曜は、寝るだけ。
食事は、コンビニのおにぎり、飲み物は、コーヒーと、エナジードリンク。
Apple Watchが、毎日、夜中に「アクティビティが少ないですね」と通知を出してきて、それを、悪態をつきながら、消す。
そういう日々。
いまどき、20代後半の女性が、年度末の繁忙期に、心身ともに、すり減っていく姿は、SNSで、たくさんの人がポストしている。
みんな、「しんどい」を、ふつうに、ハッシュタグで、共有している。
それは、慰めにも、なるし、慣れにも、なる。
「みんなしんどい」が、「だからわたしも、もう一日、がんばれる」になってしまう。
ある夜、健太が、わたしの家に、来ていた。
土曜日の夜、わたしの家のソファで、お酒を飲んで、ベッドに、行った。
健太がわたしの肩に手を回したとき、わたしは、すこし、言葉を選んでから、言った。
「今日はちょっと、無理」
健太は、3秒くらい、止まってから、わたしの肩を、ゆっくり、離した。
仰向けになって、しばらく、天井を見上げてから、ぽつりと、言った。
「最近、ずっと無理だよね」
わたしは、何も、言えなかった。
この3か月、ずっと、そうだった。
「俺、美咲のこと、無理にさせたくない。だから、それは絶対大事にしたい」
「うん」
「でも、なんか、心が遠くなってる気がして、ちょっと不安」
健太の言葉に、わたしは、ハッとした。
わたしのほうこそ、健太の心と、ちゃんと向き合っていない。
「ごめんね」
「ううん。気になることがあるなら、教えてほしい、それだけ」
その夜、わたしたちは、ふつうに、隣で、寝た。
寝る前、健太の背中に、わたしは、手のひらを、当てた。
ずっと知っている、彼の体温だった。
それでも、何かが、ずれていた。
わたしの体の中で、性欲というスイッチが、いつのまにか、消えていた。
「性欲がない」って、いまどき、20代後半の女性のあいだで、ふつうに、語られる話題になっている。
過労、ストレス、ホルモン、SSRI、ピル、運動不足、ぜんぶの組み合わせで、わたしたちの「ふだんの自分」が、すり減っていく。
でも、その状態を、パートナーに、ちゃんと、ことばで、伝えるのは、まだ、けっこう、難しい。
翌週の水曜日、葵に、電話した。
仕事の帰り道、コンビニで買ったホットラテを片手に、表参道の駅まで、歩きながら。
1月の風が、まだ残っていて、コートのなかで、わたしの体は、なんとなく、縮こまっていた。
「ねえ、性欲がないって、わたし、大丈夫なの?」
葵は、ラテを飲んでいたらしく、最初、ちょっと、驚いてから、聞いてくれた。
「仕事忙しい?」
「めっちゃ忙しい」
「寝てる?」
「5時間くらい」
「何か食べてる?」
「コンビニのおにぎりくらい」
「ストレスは?」
「上司ガチャ、大失敗中」
葵は、電話の向こうで、すこし、笑った。
「美咲、ちょっと、聞いて。わたしの病棟に、似たような状態の患者さんが、けっこう、来る」
「うん」
「月経不順、性欲低下、不眠、食欲不振、肌荒れ。婦人科に来る20代後半の女性の、けっこうな、割合」
「うん」
「それね、ぜんぶ、繋がってるの」
葵は、医療従事者の声で、丁寧に、説明してくれた。
ストレスと性欲のメカニズム
- 慢性ストレス → コルチゾールが高い状態
- コルチゾール高値 → 性ホルモン分泌を抑制
- → 性欲が下がる、勃起しにくくなる、月経不順になる
- → これは「壊れた」のではなく「身体の正常な反応」
「美咲、これ、ぜんぜん、異常じゃないよ」と、葵は、言った。
「身体が、生殖どころじゃない、まず、生き残ろう、ってモードに、入ってるだけ」
「じゃあ、直すには?」
「ストレスを下げて、寝て、食べる」
「うん、わかってるけど」
「そうもいかないよね、わかる」
葵は、ふっと、笑った。
「でも、無理だ、って気づくのが、まず、最初の一歩」
その夜、わたしは、葵との通話のあと、ふと、美里にも、LINEを、送った。
美里にも、聞いてもらいたかった。
美咲:「美里、いま大丈夫?」
美里:「いま、お店終わって、家。電話できる?」
通話アイコンを、押した。
「美里」
「うん?」
「わたし、最近、性欲が、ぜんぜん、ないの」
「健太と、ちょっと、距離ができてる気がする」
電話の向こうで、美里は、ふっと、笑った。
「美咲ちゃん、それ、ふつう」
「ふつう?」
「わたし、夜のお店で、性的な「気分」を、毎日、提供する仕事してるけど、わたし自身のプライベートでは、ぜんぜん、性欲ない期間も、よくある」
「そういうとき、わたしは、自分のからだを、ぜんぜん、責めない」
「「ああ、わたし、いま、生命維持で精一杯なんだな」って、ふつうに、認める」
「性欲って、エネルギーの余剰みたいなものでしょう」
「生きるためのエネルギーで精一杯のときには、余剰、出ない」
「それは、ふつうのこと」
わたしは、ふっと、息が、抜けた。
美里みたいに、毎日、性的な世界の中心にいる人でも、性欲がない期間がある。
それは、ぜんぜん、おかしいことじゃない。
世間で、「ふだんから性的なものに触れている人は、ふだんから性的に活発」っていう、勝手な前提を、たくさんの人が、持っている。
でも、それは、間違いだった。
性は、職業ではなく、その人のからだの、その日の状態で、ふつうに、揺らぐ。
「美里」
「うん」
「ありがとう」
「こっちこそ、夜中に話聞いてくれて」
「今度、わたしの仕事も、聞いてね」
「広告代理店、ぜんぜん知らないから、興味ある」
「うん、いつか、ちゃんと話す」
電話を切って、わたしは、信号待ちで、すこし、笑った。
夜のお店で働く美里と、広告代理店で働くわたし。
ぜんぶ違う仕事をしているのに、性欲のないときの感覚は、同じだった。
わたしたちは、職業の違いを超えて、おなじ、人間のからだを、もっている。
葵は、続けて、こう、言った。
「あと、メンタルとセックスの関係って、わたしたちの世代で、けっこう深刻なテーマなの」
うつ・不安と性
- うつ病患者の80%以上が何らかの性的問題を経験するという研究も
- 抗うつ薬(SSRI)は性機能低下を引き起こすことが多い
- パフォーマンス不安(特に男性)
- 性行為への恐怖(外傷後)
日本の若いカップルの「セックスレス」
- 日本のカップルの約50%がセックスレスとの調査結果も
- 1か月以上、合意のうえでない期間がない場合を、医学的に「セックスレス」と定義
- 必ずしも「悪い」ではないが、話し合えていない場合は問題
「美咲と健太は、ちゃんと、話せてる?」
「うん、健太から『不安』って、言ってくれた」
「それ、すごい大事」と、葵は、言った。
「話せること自体が、いまの関係性を、守ってる」
わたしは、頷いた。
わたしたち世代、「セックスレス=関係性の終わり」って、無意識に、思い込んでいる。
でも、葵が言ってくれたみたいに、話せるかどうか、こそが、関係性の本体。
性行為の頻度じゃなく、ことばの頻度。
それが、いまの、わたしたちの関係を、ちゃんと、保っている。
信号が、変わって、表参道の交差点を、渡る。
夜の風が、肌に、冷たかった。
その週末、健太と、中野の、小さなビストロに、行った。
仕事の話は、ぜんぶ、封印した。
中野ブロードウェイ近くの、カウンター席だけの、小さな店。
オープンキッチンで、白髪のシェフが、ひとりで、料理を作っている。
壁には、フランス映画のポスターが、何枚か。
キッチンから、バターと、ハーブと、ガーリックの香りが、ふんわり、流れてくる。
赤ワインのグラスを、傾けながら、健太と、ふだん話せない話を、した。
「ねえ健太、わたし、ちょっと、自分のメンタル、限界かも」
「うん、そう見えてる」
「カウンセリング、行ってみようかな」
「いいと思う」と、健太は、すぐに、頷いた。
「健太は、性欲ないって言われたら、傷つく?」
「正直、ちょっとは」
健太は、グラスを、くるくる、回しながら、続けた。
「でも、それが、美咲の体の状態のサインなら、心配の方が大きい」
「そして、俺自身も、最近、けっこう、しんどい」
「えっ」
「仕事で、めちゃくちゃ大きな炎上案件があって」
「3か月、毎日、深夜まで、社内会議」
「美咲を見ると、なんか、自分も無理してるって気づいて、つらくなる」
「だから、本音言うと、ふたりとも、いま、すこし、休まなきゃ」
わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつ、落とした。
健太も、同じだった。
わたしばかり、しんどいわけじゃ、なかった。
わたしたちは、ふたりとも、無理してた。
「健太」
「うん」
「わたしたち、いまの時期、性欲どころじゃないんだね」
「うん。お互いに、生命維持で、精一杯」
「でも、生命維持で精一杯のときに、隣にいてくれる」
「それが、いちばん、嬉しい」
健太は、わたしのワインのグラスに、自分のグラスを、ちん、と、当てた。
「俺たちさ、性欲がないからって、関係が薄くなってるわけじゃないよね」
「うん」
「むしろ、性欲がないのに、お互いに「会いたい」って思える今のほうが、すごい関係かも」
わたしは、ふっと、笑った。
健太の言葉は、わたしのなかで、すとんと、落ちた。
性的な繋がりだけが、関係性の証じゃない。
性欲がない時期にも、お互いを大切に思える、その心のあり方こそが、本物の関係。
シェフが、わたしたちのテーブルに、白身魚のムニエルを、運んできてくれた。
バターの匂いが、ふっと、わたしのなかの何かを、緩めた。
「美味しい」って、いまの自分のからだに、ちゃんと、届く。
それが、わたしの、生命維持に、必要な、栄養素のひとつだった。
それから1か月後、わたしは、カウンセリングを、受け始めた。
公認心理師の女性。月2回、1回50分。1回8,000円。
健康保険は、使えない。
自費だけど、いまの自分には、これが、必要だと、思った。
いまどき、メンタルヘルスのケアにお金を使うのは、20代後半の女性のあいだで、ふつうに、自己投資の一部に、なってきている。
ジムの会費、化粧品、推し活、カウンセリング。
わたしは、そのなかから、自分の優先順位を、決め直した。
カウンセラーさんは、40代後半、本のたくさんある明るい部屋で、わたしと、向かい合って、座った。
初回、わたしは、50分間、ずっと、泣いていた。
理由は、わからなかった。
ただ、誰かが「ちゃんと、あなたの話を、最後まで聞きますよ」という姿勢で、目の前に座っていてくれる、という事実だけで、わたしのなかの何かが、決壊した。
世間で、「話を聞いてくれる人」って、ふつうにいる、と思いがちだけど、本当に、何の利害関係もなく、最後まで、急かさず、評価せず、聞いてくれる人は、ほんとうに、貴重。
その「聞いてくれる」を、お金で買う、という構造に、最初は違和感があったけど、やってみたら、わたしの人生に、確実に、必要なものだった。
カウンセラーさんが、教えてくれたこと。
性とメンタルヘルスのつながり
- 性は「ぜんぶ」と繋がってる:仕事、家族、自己評価、過去のトラウマ、ホルモン
- 性欲低下、性機能の悩み、関係性の問題、セックスレス、すべて「身体的・心理的・社会的」な要素が絡んでる
- 「直す」より「理解する」ことから始める
セルフケアの基本
- 睡眠:7時間以上。性ホルモン分泌は深い眠りに依存
- 食事:亜鉛、鉄、タンパク質、オメガ3を意識
- 運動:軽い有酸素運動でストレスホルモンが下がる
- マインドフルネス:自分の身体感覚に気づく時間
- 自分との対話:日記、内省
「自慰行為(セルフプレジャー)は、自然で健康的な行為で、自分の体を知る大切な機会でもあります」と、カウンセラーさんは、言った。
「罪悪感を持つ必要は、全くない」
「ただ、強迫的・依存的でない範囲で」
「バイブレーターやセルフケア用品も、選択肢のひとつ」
「海外では、大手ブランドが普通に女性誌で広告を出してる」
「ご自分のからだに、ご自分が、いちばん詳しくなれること。それが、性の健康の出発点ですよ」
わたしは、頷いた。
そして、しばらくしてから、また、すこし、泣いた。
夏のはじまり、ある夜、中野駅前の中華料理屋で、5人で、夕飯を食べた。
美咲、葵、ゆい、リサ、美里。
わたしの大切な、5人。
リサは、第一子の妊娠が安定期に入っていた。
お腹がすこし、ふっくらして、髪が、顎のラインで揃えられて、すこし、母の顔を、し始めていた。
ゆいは、新しい彼氏との、デートの話を、なぜか、葵に、詳しく、報告していた。
葵は、看護師長への昇進が決まって、忙しさを、倍速にしていた。
美里は、その日、お店の出勤前で、ノンアルコールビールを、頼んでいた。
「お店で、お客さんを楽しませる体力を、温存しなきゃ」と、笑っていた。
そして、わたし。
わたしも、まだ、毎日が、完璧じゃない。
仕事は、あいかわらず、大変で、健太との関係も、いつも、安定してるわけじゃない。
でも、自分の心と身体に、ちゃんと、毎日、話しかけてあげられるようになった。
「性って、なんで、こんなに、難しいんだろうね」と、ゆいが、言った。
水餃子を、箸でつかんだまま、しばらく、宙を見つめて。
「ぜんぶ、繋がってるからじゃない?」と、リサが、言った。
お腹を、無意識に、手で、なでながら。
「仕事も、お金も、家族も、自己肯定感も、過去も、未来も、ぜんぶに、繋がってる」
「だから、性教育って、本当はぜんぶの教育なんだよ」と、葵は、言った。
葵は、紹興酒のグラスを、すこしだけ、傾けた。
「WHOの定義でも、性の健康って、身体・感情・精神・社会的に、ぜんぶ良好な状態のことを指すって、書いてある」
「ぜんぶ良好って、けっこう、ハードル高いよね」と、ゆいが、笑った。
「ね」と、リサも、笑った。
そして、美里が、ノンアルコールビールのグラスを、傾けて、ぽつりと、言った。
「ね、わたし、最近、思うんだけど」
「うん?」
「ここに座ってる5人、職業も、立場も、状況も、ぜんぜん違うんだよね」
「わたしは、夜のお店で働いてる」
「葵は、看護師」
「美咲ちゃんは、広告代理店」
「ゆいちゃんは、フリーランスのデザイナー」
「リサさんは、もうすぐお母さん」
「でも、わたしたち、性のこと、ふつうに、話せる」
「それって、ほんとに、すごいことなんだよ」
「わたし、22歳で中絶した夜、こういう仲間が、ひとりでも、いてくれたら、って思った」
「いま、わたしには、いる」
「そして、わたしも、誰かのために、いる」
「それが、いちばんの、性教育かもしれない、って思うの」
5人で、グラスを、ちん、と、合わせた。
世間で、「性教育」というと、学校の保健の授業や、行政のパンフレットを、思い浮かべる人が多い。
でも、いま、わたしの隣にあるのは、ぜんぜん違う5人の女性が、紹興酒と、餃子と、ノンアルコールビールで、ふつうに、性について話している、その時間そのもの。
これも、ひとつの、性教育だ。
しかも、たぶん、いちばん、効く。
会計を済ませて、5人で、店を出た。
中野駅前のロータリーで、わたしたちは、別れた。
ゆいは、彼氏が、迎えに、来ていた。
リサは、ご主人が、迎えに、来ていた。
葵は、ひとりで、自分の電車に向かって、歩いていった。
そして、美里は、これから、お店に向かう、と、言った。
ハイヒールに履き替えて、お化粧を直して、コートを着直して、歩き出していった。
「夜のお店」へと向かっていく彼女のうしろ姿は、わたしのなかで、もう、特別なものでは、なかった。
わたしの大切な友達が、彼女の仕事に、向かっていく、それだけだった。
世間が、「夜のお店へ向かう女性」のうしろ姿を、ある種のステレオタイプで見るのは、まだ、続いている。
でも、わたしの目には、もう、それは映らない。
美里の歩き方は、わたしが知っている、ふつうの、社会の一員の、歩き方だった。
そして、わたしは、自分のスマホで、健太に、電話して、「今日、家に来る?」と、聞いた。
「もう中野駅にいる」と、健太は、答えた。
電話を切って、わたしは、ロータリーのベンチに、すこし、座った。
夏の夕方の風が、心地よかった。
ふと、自分の人生のいろんなことが、頭のなかを、ぐるぐる、回った。
婦人科の待合室。
深夜のドラッグストア。
朝の山手線。
金曜の夜のホテル街。
病院の検査結果。
マッチングアプリのDM。
ベッドの上の沈黙。
カウンセラーの部屋。
ぜんぶ、わたしの27歳の風景。
そして、その風景のあちこちに、葵が、いて、ゆいが、いて、リサが、いて、美里が、いた。
ひとりひとり、ぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う仕事で、ぜんぜん違う人生を、生きている。
でも、わたしの27歳のなかで、ぜんぶの場面に、彼女たちが、ちゃんと、隣にいてくれた。
そして、わたしも、彼女たちのなかの、誰かの隣に、すこし、いられたかもしれない。
性は、ひとりで抱えるものじゃない。
性は、互いに、知り合い、助け合い、ちゃんと、対話していく、社会のかたち。
わたしは、これから、どんな関係を結んで、どんな選択をしていくか、まだ、わからない。
でも、ひとつ、確かなのは、わたしは、もう、ひとりじゃない。
健太が、ロータリーの向こうから、歩いてきた。
わたしを見つけて、ふっと、ちょっとだけ、早足になった。
遠くから、知っている人が、自分のほうへ歩いてくる、その、ささやかな安心感。
この瞬間が、わたしの27歳のいまの、ひとつの、宝物だと、思った。
「お待たせ」
「ううん」
「ご飯、おいしかった?」
「うん。みんなで、いっぱい、笑った」
「美里さん、今夜もお店?」
「うん。もう、向かった」
健太は、ふっと、頷いた。
「美里さん、すごい人だよな」
「うん、すごい人」
「美咲、いい友達、もったね」
「うん」
「俺もさ、最近、思うんだけど」
「うん?」
「美咲が、葵と話したり、美里さんと話したり、リサさんと話したりしてくるたびに、美咲の表情が、ちょっとずつ、変わってくのが、見えてる」
「美咲は、ぜんぶの人を、ふつうに、隣に置ける人なんだな、って」
「俺は、それを、すごく、誇りに思う」
わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつ、落とした。
健太は、わたしのからだの状態だけじゃなくて、わたしの、人としての成長を、見守っていてくれた。
「ありがとう」
「うん」
健太は、わたしの手を、自然に、取った。
「今夜、家、帰る?」
「うん。ご飯はもう食べた?」と、わたしは、聞いた。
「うん、コンビニで」
「じゃあ、お風呂入って、寝るだけ」
「うん」
わたしたちは、駅の改札に向かって、歩き出した。
歩きながら、わたしは、健太の手を、ぎゅっと、握った。
この関係も、ぜんぶ、自分で、選んでいる。
選び続けていく、これからも。
中野駅前の、夏のはじまりの夜風が、わたしの髪を、ふわっと、揺らした。
その風のなかで、わたしは、すこし、自分の頬の熱を、感じた。
お酒の熱だけじゃ、なかった。
いい時間を過ごしたあとの、ふつうの、人間のからだの、ふつうの、熱。
それを、ふつうに、感じられる、いまのわたし。
そう、いまのわたしを、わたしは、好きだ、と、初めて、思えた。
エピローグ:物語の終わりに
10話、お読みいただき、ありがとうございました。
美咲、葵、ゆい、リサ、健太、翔太、沙織、あかり、美里、マリカさん──。
ひとりひとり、ぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う仕事で、ぜんぜん違う事情で、ぜんぜん違う愛し方で、生きている、27歳前後の女性たちと、その周りの人たち。
婦人科の待合室。
深夜のドラッグストア。
朝の山手線。
金曜の夜のホテル街。
病院の検査結果。
マッチングアプリのDM。
ベッドの上の沈黙。
カウンセラーの部屋。
駅前のロータリー。
夜のお店のドアの向こう。
ぜんぶ、わたしたちの毎日のどこかにある場所。
そして、そのぜんぶの場所に、自分のからだに、自分の心に、自分の関係に、ちゃんと向き合おうとしている女性たちが、生きている。
「正しい性の知識」って、教科書みたいな知識のことだけじゃなくて、
自分の体を、自分の心を、自分の関係を、自分のペースで、大切にする方法のことなのかもしれない、と、思います。
そして、それは、ひとりだけでは、たどり着けない場所。
わたしたちは、お互いに、知り合い、対話して、助け合って、ようやく、その方法に、近づいていく。
夜のお店で働く女性も、看護師も、フリーランスのデザイナーも、結婚して妊活する女性も、広告代理店で働くわたしも、ぜんぶ、同じ社会の、同じ仲間。
この物語が、誰かを「特別な人」「目を背けるべき人」「保護すべき被害者」と切り分けるのではなく、ふつうの隣人として、ちゃんと対話し、知り、繋がっていく、ひとつの小さなきっかけになりますように。
完璧でなくていい、悩んでもいい、人と違ってもいい──。
このシリーズが、あなたが自分自身に、もう少し、優しくなるための、そして、隣にいる誰かに、もう少し、ちゃんと、目を向けるための、小さなきっかけになりますように。
最後に、もうひとつだけ。
性のことを、こんなふうに、ふつうに、お茶しながら、話せる時間が、あなたにも、ありますように。
そして、そういう時間を、これから、あなた自身が、誰かに、贈れる人で、いられますように。
まとめメモ:メンタルヘルスと性
性とメンタルの相互作用
- ストレスは性欲・性機能に直接影響
- うつ・不安は性的関心を低下させる
- 性的トラウマはPTSD・複雑性PTSDの原因
- 自己肯定感は性のあり方に影響
- ホルモンは気分を左右
よくあるメンタル課題と性
- 性への不安・罪悪感
- ボディイメージへの悩み
- 性機能の悩み(ED・性交痛・性欲の変化)
- セクシュアリティの混乱
- 関係性の悩み・セックスレス
- トラウマ・PTSD
- 性依存・強迫的性行動
セルフケアの基本
- 睡眠:7時間以上、夜10時〜2時の深睡眠が大事
- 食事:亜鉛・鉄・タンパク質・オメガ3
- 運動:軽い有酸素運動でコルチゾール低下
- マインドフルネス:身体感覚への気づき
- 対話:自分・パートナー・専門家・信頼できる仲間
WHOの「性の健康」定義
性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態であり、単に病気・機能不全・虚弱でないことを意味するものではない。
受診の目安
- 日常生活に支障が出ている
- 2週間以上気分が回復しない
- 自分や他人を傷つける考えが浮かぶ
- 性に関する悩みを話せる人がいない
- 性行為への恐怖・回避が続く
心に留めたいこと
- 性欲がない時期は、ふつうにある
- 生命維持で精一杯のときには、性欲は出てこない、それでいい
- 性欲がない時期に、隣にいてくれる関係こそが、本物
- 性は、職業・立場を超えて、すべての人間が共有する、人間のからだの話
相談窓口(総合)
- よりそいホットライン:0120-279-338(24時間・無料)
- いのちの電話:0570-783-556(自殺予防)
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
- メンタルヘルス専門医:精神科・心療内科
- 公認心理師・臨床心理士:日本臨床心理士会の名簿
- オンラインカウンセリング:cotree、unlace 等
- 自立支援医療制度:精神科通院で1割負担に
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