第10話|中野駅前の、夜風



3月、年度末。

仕事は、地獄みたいに、忙しかった。

担当しているクライアントの新商品ローンチが4月にあって、12月から3月にかけて、わたしの平日は、ぜんぶ、その案件で、塗りつぶされていた。

朝7時に家を出て、22時に会社を出て、ターミナル駅で、ラーメン屋に駆け込んで、家に帰り着くのが、23時。

土曜は、出勤、日曜は、寝るだけ。

食事は、コンビニのおにぎり、飲み物は、コーヒーと、エナジードリンク。

Apple Watchが、毎日、夜中に「アクティビティが少ないですね」と通知を出してきて、それを、悪態をつきながら、消す

そういう日々

いまどき、20代後半の女性が、年度末の繁忙期に、心身ともに、すり減っていく姿は、SNSで、たくさんの人がポストしている

みんな、「しんどい」を、ふつうに、ハッシュタグで、共有している

それは、慰めにも、なるし、慣れにも、なる

「みんなしんどい」が、「だからわたしも、もう一日、がんばれる」になってしまう

ある夜、健太が、わたしの家に、来ていた。

土曜日の夜、わたしの家のソファで、お酒を飲んで、ベッドに、行った。

健太がわたしの肩に手を回したとき、わたしは、すこし、言葉を選んでから、言った。

今日はちょっと、無理

健太は、3秒くらい、止まってから、わたしの肩を、ゆっくり、離した。

仰向けになって、しばらく、天井を見上げてから、ぽつりと、言った。

最近、ずっと無理だよね

わたしは、何も、言えなかった。

この3か月、ずっと、そうだった

「俺、美咲のこと、無理にさせたくない。だから、それは絶対大事にしたい」

「うん」

でも、なんか、心が遠くなってる気がして、ちょっと不安

健太の言葉に、わたしは、ハッとした。

わたしのほうこそ、健太の心と、ちゃんと向き合っていない

「ごめんね」

「ううん。気になることがあるなら、教えてほしい、それだけ

その夜、わたしたちは、ふつうに、隣で、寝た。

寝る前、健太の背中に、わたしは、手のひらを、当てた。

ずっと知っている、彼の体温だった。

それでも、何かが、ずれていた。

わたしの体の中で、性欲というスイッチが、いつのまにか、消えていた

「性欲がない」って、いまどき、20代後半の女性のあいだで、ふつうに、語られる話題になっている

過労、ストレス、ホルモン、SSRI、ピル、運動不足、ぜんぶの組み合わせで、わたしたちの「ふだんの自分」が、すり減っていく

でも、その状態を、パートナーに、ちゃんと、ことばで、伝えるのは、まだ、けっこう、難しい



翌週の水曜日、葵に、電話した。

仕事の帰り道、コンビニで買ったホットラテを片手に、表参道の駅まで、歩きながら。

1月の風が、まだ残っていて、コートのなかで、わたしの体は、なんとなく、縮こまっていた。

「ねえ、性欲がないって、わたし、大丈夫なの?

葵は、ラテを飲んでいたらしく、最初、ちょっと、驚いてから、聞いてくれた。

仕事忙しい?

「めっちゃ忙しい」

寝てる?

「5時間くらい」

何か食べてる?

「コンビニのおにぎりくらい」

ストレスは?

「上司ガチャ、大失敗中」

葵は、電話の向こうで、すこし、笑った。

「美咲、ちょっと、聞いて。わたしの病棟に、似たような状態の患者さんが、けっこう、来る

「うん」

月経不順、性欲低下、不眠、食欲不振、肌荒れ。婦人科に来る20代後半の女性の、けっこうな、割合」

「うん」

それね、ぜんぶ、繋がってるの

葵は、医療従事者の声で、丁寧に、説明してくれた。

ストレスと性欲のメカニズム

  • 慢性ストレス → コルチゾールが高い状態
  • コルチゾール高値 → 性ホルモン分泌を抑制
  • → 性欲が下がる、勃起しにくくなる、月経不順になる
  • これは「壊れた」のではなく「身体の正常な反応」

「美咲、これ、ぜんぜん、異常じゃないよ」と、葵は、言った。

身体が、生殖どころじゃない、まず、生き残ろう、ってモードに、入ってるだけ」

「じゃあ、直すには?」

ストレスを下げて、寝て、食べる

「うん、わかってるけど」

そうもいかないよね、わかる」

葵は、ふっと、笑った。

でも、無理だ、って気づくのが、まず、最初の一歩



その夜、わたしは、葵との通話のあと、ふと、美里にも、LINEを、送った。

美里にも、聞いてもらいたかった

美咲:「美里、いま大丈夫?」

美里:「いま、お店終わって、家。電話できる?

通話アイコンを、押した。

「美里」

「うん?」

わたし、最近、性欲が、ぜんぜん、ないの

健太と、ちょっと、距離ができてる気がする

電話の向こうで、美里は、ふっと、笑った。

美咲ちゃん、それ、ふつう

ふつう?

わたし、夜のお店で、性的な「気分」を、毎日、提供する仕事してるけど、わたし自身のプライベートでは、ぜんぜん、性欲ない期間も、よくある

そういうとき、わたしは、自分のからだを、ぜんぜん、責めない

「ああ、わたし、いま、生命維持で精一杯なんだな」って、ふつうに、認める

性欲って、エネルギーの余剰みたいなものでしょう

生きるためのエネルギーで精一杯のときには、余剰、出ない

それは、ふつうのこと

わたしは、ふっと、息が、抜けた。

美里みたいに、毎日、性的な世界の中心にいる人でも、性欲がない期間がある

それは、ぜんぜん、おかしいことじゃない

世間で、「ふだんから性的なものに触れている人は、ふだんから性的に活発」っていう、勝手な前提を、たくさんの人が、持っている

でも、それは、間違いだった

性は、職業ではなく、その人のからだの、その日の状態で、ふつうに、揺らぐ

「美里」

「うん」

ありがとう

こっちこそ、夜中に話聞いてくれて

今度、わたしの仕事も、聞いてね

広告代理店、ぜんぜん知らないから、興味ある

うん、いつか、ちゃんと話す

電話を切って、わたしは、信号待ちで、すこし、笑った。

夜のお店で働く美里と、広告代理店で働くわたし

ぜんぶ違う仕事をしているのに、性欲のないときの感覚は、同じだった

わたしたちは、職業の違いを超えて、おなじ、人間のからだを、もっている。



葵は、続けて、こう、言った。

「あと、メンタルとセックスの関係って、わたしたちの世代で、けっこう深刻なテーマなの」

うつ・不安と性

  • うつ病患者の80%以上が何らかの性的問題を経験するという研究も
  • 抗うつ薬(SSRI)は性機能低下を引き起こすことが多い
  • パフォーマンス不安(特に男性)
  • 性行為への恐怖(外傷後)

日本の若いカップルの「セックスレス」

  • 日本のカップルの約50%がセックスレスとの調査結果も
  • 1か月以上、合意のうえでない期間がない場合を、医学的に「セックスレス」と定義
  • 必ずしも「悪い」ではないが、話し合えていない場合は問題

美咲と健太は、ちゃんと、話せてる?

「うん、健太から『不安』って、言ってくれた」

それ、すごい大事」と、葵は、言った。

話せること自体が、いまの関係性を、守ってる

わたしは、頷いた。

わたしたち世代、「セックスレス=関係性の終わり」って、無意識に、思い込んでいる

でも、葵が言ってくれたみたいに、話せるかどうか、こそが、関係性の本体

性行為の頻度じゃなく、ことばの頻度

それが、いまの、わたしたちの関係を、ちゃんと、保っている

信号が、変わって、表参道の交差点を、渡る。

夜の風が、肌に、冷たかった。



その週末、健太と、中野の、小さなビストロに、行った。

仕事の話は、ぜんぶ、封印した。

中野ブロードウェイ近くの、カウンター席だけの、小さな店。

オープンキッチンで、白髪のシェフが、ひとりで、料理を作っている。

壁には、フランス映画のポスターが、何枚か。

キッチンから、バターと、ハーブと、ガーリックの香りが、ふんわり、流れてくる。

赤ワインのグラスを、傾けながら、健太と、ふだん話せない話を、した。

ねえ健太、わたし、ちょっと、自分のメンタル、限界かも

「うん、そう見えてる」

カウンセリング、行ってみようかな

「いいと思う」と、健太は、すぐに、頷いた。

「健太は、性欲ないって言われたら、傷つく?

「正直、ちょっとは」

健太は、グラスを、くるくる、回しながら、続けた。

「でも、それが、美咲の体の状態のサインなら、心配の方が大きい

そして、俺自身も、最近、けっこう、しんどい

「えっ」

仕事で、めちゃくちゃ大きな炎上案件があって

3か月、毎日、深夜まで、社内会議

美咲を見ると、なんか、自分も無理してるって気づいて、つらくなる

だから、本音言うと、ふたりとも、いま、すこし、休まなきゃ

わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつ、落とした。

健太も、同じだった

わたしばかり、しんどいわけじゃ、なかった

わたしたちは、ふたりとも、無理してた

「健太」

「うん」

わたしたち、いまの時期、性欲どころじゃないんだね

「うん。お互いに、生命維持で、精一杯

でも、生命維持で精一杯のときに、隣にいてくれる

それが、いちばん、嬉しい

健太は、わたしのワインのグラスに、自分のグラスを、ちん、と、当てた。

俺たちさ、性欲がないからって、関係が薄くなってるわけじゃないよね

「うん」

むしろ、性欲がないのに、お互いに「会いたい」って思える今のほうが、すごい関係かも

わたしは、ふっと、笑った。

健太の言葉は、わたしのなかで、すとんと、落ちた

性的な繋がりだけが、関係性の証じゃない

性欲がない時期にも、お互いを大切に思える、その心のあり方こそが、本物の関係

シェフが、わたしたちのテーブルに、白身魚のムニエルを、運んできてくれた。

バターの匂いが、ふっと、わたしのなかの何かを、緩めた。

「美味しい」って、いまの自分のからだに、ちゃんと、届く

それが、わたしの、生命維持に、必要な、栄養素のひとつだった



それから1か月後、わたしは、カウンセリングを、受け始めた。

公認心理師の女性。月2回、1回50分。1回8,000円。

健康保険は、使えない

自費だけど、いまの自分には、これが、必要だと、思った。

いまどき、メンタルヘルスのケアにお金を使うのは、20代後半の女性のあいだで、ふつうに、自己投資の一部に、なってきている

ジムの会費、化粧品、推し活、カウンセリング

わたしは、そのなかから、自分の優先順位を、決め直した

カウンセラーさんは、40代後半、本のたくさんある明るい部屋で、わたしと、向かい合って、座った。

初回、わたしは、50分間、ずっと、泣いていた

理由は、わからなかった。

ただ、誰かが「ちゃんと、あなたの話を、最後まで聞きますよ」という姿勢で、目の前に座っていてくれる、という事実だけで、わたしのなかの何かが、決壊した

世間で、「話を聞いてくれる人」って、ふつうにいる、と思いがちだけど、本当に、何の利害関係もなく、最後まで、急かさず、評価せず、聞いてくれる人は、ほんとうに、貴重

その「聞いてくれる」を、お金で買う、という構造に、最初は違和感があったけど、やってみたら、わたしの人生に、確実に、必要なものだった

カウンセラーさんが、教えてくれたこと。

性とメンタルヘルスのつながり

  • 性は「ぜんぶ」と繋がってる:仕事、家族、自己評価、過去のトラウマ、ホルモン
  • 性欲低下、性機能の悩み、関係性の問題、セックスレス、すべて「身体的・心理的・社会的」な要素が絡んでる
  • 直す」より「理解する」ことから始める

セルフケアの基本

  • 睡眠:7時間以上。性ホルモン分泌は深い眠りに依存
  • 食事:亜鉛、鉄、タンパク質、オメガ3を意識
  • 運動:軽い有酸素運動でストレスホルモンが下がる
  • マインドフルネス:自分の身体感覚に気づく時間
  • 自分との対話:日記、内省

自慰行為(セルフプレジャー)は、自然で健康的な行為で、自分の体を知る大切な機会でもあります」と、カウンセラーさんは、言った。

罪悪感を持つ必要は、全くない

ただ、強迫的・依存的でない範囲で

バイブレーターやセルフケア用品も、選択肢のひとつ

海外では、大手ブランドが普通に女性誌で広告を出してる

ご自分のからだに、ご自分が、いちばん詳しくなれること。それが、性の健康の出発点ですよ」

わたしは、頷いた。

そして、しばらくしてから、また、すこし、泣いた。



夏のはじまり、ある夜、中野駅前の中華料理屋で、5人で、夕飯を食べた。

美咲、葵、ゆい、リサ、美里

わたしの大切な、5人

リサは、第一子の妊娠が安定期に入っていた

お腹がすこし、ふっくらして、髪が、顎のラインで揃えられて、すこし、母の顔を、し始めていた。

ゆいは、新しい彼氏との、デートの話を、なぜか、葵に、詳しく、報告していた。

葵は、看護師長への昇進が決まって、忙しさを、倍速にしていた。

美里は、その日、お店の出勤前で、ノンアルコールビールを、頼んでいた。

「お店で、お客さんを楽しませる体力を、温存しなきゃ」と、笑っていた。

そして、わたし。

わたしも、まだ、毎日が、完璧じゃない。

仕事は、あいかわらず、大変で、健太との関係も、いつも、安定してるわけじゃない。

でも、自分の心と身体に、ちゃんと、毎日、話しかけてあげられるようになった

性って、なんで、こんなに、難しいんだろうね」と、ゆいが、言った。

水餃子を、箸でつかんだまま、しばらく、宙を見つめて。

ぜんぶ、繋がってるからじゃない?」と、リサが、言った。

お腹を、無意識に、手で、なでながら。

仕事も、お金も、家族も、自己肯定感も、過去も、未来も、ぜんぶに、繋がってる

だから、性教育って、本当はぜんぶの教育なんだよ」と、葵は、言った。

葵は、紹興酒のグラスを、すこしだけ、傾けた。

WHOの定義でも、性の健康って、身体・感情・精神・社会的に、ぜんぶ良好な状態のことを指すって、書いてある」

「ぜんぶ良好って、けっこう、ハードル高いよね」と、ゆいが、笑った。

「ね」と、リサも、笑った。

そして、美里が、ノンアルコールビールのグラスを、傾けて、ぽつりと、言った。

ね、わたし、最近、思うんだけど

「うん?」

ここに座ってる5人、職業も、立場も、状況も、ぜんぜん違うんだよね

わたしは、夜のお店で働いてる

葵は、看護師

美咲ちゃんは、広告代理店

ゆいちゃんは、フリーランスのデザイナー

リサさんは、もうすぐお母さん

でも、わたしたち、性のこと、ふつうに、話せる

それって、ほんとに、すごいことなんだよ

わたし、22歳で中絶した夜、こういう仲間が、ひとりでも、いてくれたら、って思った

いま、わたしには、いる

そして、わたしも、誰かのために、いる

それが、いちばんの、性教育かもしれない、って思うの

5人で、グラスを、ちん、と、合わせた。

世間で、「性教育」というと、学校の保健の授業や、行政のパンフレットを、思い浮かべる人が多い

でも、いま、わたしの隣にあるのは、ぜんぜん違う5人の女性が、紹興酒と、餃子と、ノンアルコールビールで、ふつうに、性について話している、その時間そのもの

これも、ひとつの、性教育だ

しかも、たぶん、いちばん、効く



会計を済ませて、5人で、店を出た。

中野駅前のロータリーで、わたしたちは、別れた。

ゆいは、彼氏が、迎えに、来ていた。

リサは、ご主人が、迎えに、来ていた。

葵は、ひとりで、自分の電車に向かって、歩いていった。

そして、美里は、これから、お店に向かう、と、言った。

ハイヒールに履き替えて、お化粧を直して、コートを着直して、歩き出していった。

「夜のお店」へと向かっていく彼女のうしろ姿は、わたしのなかで、もう、特別なものでは、なかった

わたしの大切な友達が、彼女の仕事に、向かっていく、それだけだった。

世間が、「夜のお店へ向かう女性」のうしろ姿を、ある種のステレオタイプで見るのは、まだ、続いている

でも、わたしの目には、もう、それは映らない

美里の歩き方は、わたしが知っている、ふつうの、社会の一員の、歩き方だった

そして、わたしは、自分のスマホで、健太に、電話して、「今日、家に来る?」と、聞いた。

もう中野駅にいる」と、健太は、答えた。

電話を切って、わたしは、ロータリーのベンチに、すこし、座った。

夏の夕方の風が、心地よかった

ふと、自分の人生のいろんなことが、頭のなかを、ぐるぐる、回った。

婦人科の待合室

深夜のドラッグストア

朝の山手線

金曜の夜のホテル街

病院の検査結果

マッチングアプリのDM

ベッドの上の沈黙

カウンセラーの部屋

ぜんぶ、わたしの27歳の風景。

そして、その風景のあちこちに、葵が、いて、ゆいが、いて、リサが、いて、美里が、いた。

ひとりひとり、ぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う仕事で、ぜんぜん違う人生を、生きている

でも、わたしの27歳のなかで、ぜんぶの場面に、彼女たちが、ちゃんと、隣にいてくれた

そして、わたしも、彼女たちのなかの、誰かの隣に、すこし、いられたかもしれない

性は、ひとりで抱えるものじゃない

性は、互いに、知り合い、助け合い、ちゃんと、対話していく、社会のかたち

わたしは、これから、どんな関係を結んで、どんな選択をしていくか、まだ、わからない

でも、ひとつ、確かなのは、わたしは、もう、ひとりじゃない



健太が、ロータリーの向こうから、歩いてきた。

わたしを見つけて、ふっと、ちょっとだけ、早足になった。

遠くから、知っている人が、自分のほうへ歩いてくる、その、ささやかな安心感

この瞬間が、わたしの27歳のいまの、ひとつの、宝物だと、思った。

「お待たせ」

「ううん」

「ご飯、おいしかった?」

「うん。みんなで、いっぱい、笑った」

「美里さん、今夜もお店?」

「うん。もう、向かった」

健太は、ふっと、頷いた。

「美里さん、すごい人だよな」

「うん、すごい人」

「美咲、いい友達、もったね」

「うん」

俺もさ、最近、思うんだけど

「うん?」

美咲が、葵と話したり、美里さんと話したり、リサさんと話したりしてくるたびに、美咲の表情が、ちょっとずつ、変わってくのが、見えてる

美咲は、ぜんぶの人を、ふつうに、隣に置ける人なんだな、って

俺は、それを、すごく、誇りに思う

わたしは、ぽろっと、涙を、ひとつ、落とした。

健太は、わたしのからだの状態だけじゃなくて、わたしの、人としての成長を、見守っていてくれた

「ありがとう」

「うん」

健太は、わたしの手を、自然に、取った。

今夜、家、帰る?

「うん。ご飯はもう食べた?」と、わたしは、聞いた。

「うん、コンビニで」

「じゃあ、お風呂入って、寝るだけ」

「うん」

わたしたちは、駅の改札に向かって、歩き出した。

歩きながら、わたしは、健太の手を、ぎゅっと、握った。

この関係も、ぜんぶ、自分で、選んでいる

選び続けていく、これからも

中野駅前の、夏のはじまりの夜風が、わたしの髪を、ふわっと、揺らした。

その風のなかで、わたしは、すこし、自分の頬の熱を、感じた。

お酒の熱だけじゃ、なかった

いい時間を過ごしたあとの、ふつうの、人間のからだの、ふつうの、熱

それを、ふつうに、感じられる、いまのわたし

そう、いまのわたしを、わたしは、好きだ、と、初めて、思えた。


目次

エピローグ:物語の終わりに

10話、お読みいただき、ありがとうございました。

美咲、葵、ゆい、リサ、健太、翔太、沙織、あかり、美里、マリカさん──。

ひとりひとり、ぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う仕事で、ぜんぜん違う事情で、ぜんぜん違う愛し方で、生きている、27歳前後の女性たちと、その周りの人たち。

婦人科の待合室

深夜のドラッグストア

朝の山手線

金曜の夜のホテル街

病院の検査結果

マッチングアプリのDM

ベッドの上の沈黙

カウンセラーの部屋

駅前のロータリー

夜のお店のドアの向こう

ぜんぶ、わたしたちの毎日のどこかにある場所。

そして、そのぜんぶの場所に、自分のからだに、自分の心に、自分の関係に、ちゃんと向き合おうとしている女性たちが、生きている。

「正しい性の知識」って、教科書みたいな知識のことだけじゃなくて、

自分の体を、自分の心を、自分の関係を、自分のペースで、大切にする方法のことなのかもしれない、と、思います。

そして、それは、ひとりだけでは、たどり着けない場所

わたしたちは、お互いに、知り合い、対話して、助け合って、ようやく、その方法に、近づいていく

夜のお店で働く女性も、看護師も、フリーランスのデザイナーも、結婚して妊活する女性も、広告代理店で働くわたしも、ぜんぶ、同じ社会の、同じ仲間

この物語が、誰かを「特別な人」「目を背けるべき人」「保護すべき被害者」と切り分けるのではなく、ふつうの隣人として、ちゃんと対話し、知り、繋がっていく、ひとつの小さなきっかけになりますように。

完璧でなくていい、悩んでもいい、人と違ってもいい──。

このシリーズが、あなたが自分自身に、もう少し、優しくなるための、そして、隣にいる誰かに、もう少し、ちゃんと、目を向けるための、小さなきっかけになりますように。

最後に、もうひとつだけ。

性のことを、こんなふうに、ふつうに、お茶しながら、話せる時間が、あなたにも、ありますように

そして、そういう時間を、これから、あなた自身が、誰かに、贈れる人で、いられますように


まとめメモ:メンタルヘルスと性

性とメンタルの相互作用

  • ストレスは性欲・性機能に直接影響
  • うつ・不安は性的関心を低下させる
  • 性的トラウマはPTSD・複雑性PTSDの原因
  • 自己肯定感は性のあり方に影響
  • ホルモンは気分を左右

よくあるメンタル課題と性

  • 性への不安・罪悪感
  • ボディイメージへの悩み
  • 性機能の悩み(ED・性交痛・性欲の変化)
  • セクシュアリティの混乱
  • 関係性の悩み・セックスレス
  • トラウマ・PTSD
  • 性依存・強迫的性行動

セルフケアの基本

  • 睡眠:7時間以上、夜10時〜2時の深睡眠が大事
  • 食事:亜鉛・鉄・タンパク質・オメガ3
  • 運動:軽い有酸素運動でコルチゾール低下
  • マインドフルネス:身体感覚への気づき
  • 対話:自分・パートナー・専門家・信頼できる仲間

WHOの「性の健康」定義

性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態であり、単に病気・機能不全・虚弱でないことを意味するものではない。

受診の目安

  • 日常生活に支障が出ている
  • 2週間以上気分が回復しない
  • 自分や他人を傷つける考えが浮かぶ
  • 性に関する悩みを話せる人がいない
  • 性行為への恐怖・回避が続く

心に留めたいこと

  • 性欲がない時期は、ふつうにある
  • 生命維持で精一杯のときには、性欲は出てこない、それでいい
  • 性欲がない時期に、隣にいてくれる関係こそが、本物
  • 性は、職業・立場を超えて、すべての人間が共有する、人間のからだの話

相談窓口(総合)

  • よりそいホットライン:0120-279-338(24時間・無料)
  • いのちの電話:0570-783-556(自殺予防)
  • こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
  • メンタルヘルス専門医:精神科・心療内科
  • 公認心理師・臨床心理士:日本臨床心理士会の名簿
  • オンラインカウンセリング:cotree、unlace 等
  • 自立支援医療制度:精神科通院で1割負担に

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第10話|中野駅前の、夜風



3月、年度末。

仕事は地獄みたいに忙しかった。担当しているクライアントの新商品ローンチが4月にあって、12月から3月にかけてわたしの平日はぜんぶその案件で塗りつぶされていた。

朝7時に家を出て22時に会社を出て、ターミナル駅でラーメン屋に駆け込んで家に帰り着くのが23時。土曜は出勤、日曜は寝るだけ。食事はコンビニのおにぎり、飲み物はコーヒーとエナジードリンク。

Apple Watchが毎日夜中に「アクティビティが少ないですね」と通知を出してきて、それを悪態をつきながら消す。そういう日々。

ある夜、翔がわたしの家に来ていた。土曜日の夜、わたしの家のソファでお酒を飲んでベッドに行った。

翔がわたしの肩に手を回したとき、わたしはすこし言葉を選んでから言った。

「今日はちょっと無理」

翔は3秒くらい止まってからわたしの肩をゆっくり離した。仰向けになってしばらく天井を見上げてからぽつりと言った。

「最近ずっと無理だよね」

わたしは何も言えなかった。この3か月ずっとそうだった。

「俺、萌のこと無理にさせたくない。だからそれは絶対大事にしたい」

「うん」

「でもなんか心が遠くなってる気がしてちょっと不安」

翔の言葉にハッとした。わたしのほうこそ翔の心とちゃんと向き合っていない。

「ごめんね」

「ううん。気になることがあるなら教えてほしい、それだけ」

その夜、わたしたちはふつうに隣で寝た。寝る前、翔の背中にわたしは手のひらを当てた。ずっと知っている彼の体温だった。それでも何かがずれていた。

わたしの体の中で性欲というスイッチがいつのまにか消えていた。



翌週の水曜日、杏に電話した。

仕事の帰り道、コンビニで買ったホットラテを片手に表参道の駅まで歩きながら。

「ねえ、性欲がないってわたし大丈夫なの?」

杏はちょっと驚いてから聞いてくれた。

「仕事忙しい?」

「めっちゃ忙しい」

「寝てる?」

「5時間くらい」

「何か食べてる?」

「コンビニのおにぎりくらい」

「ストレスは?」

「上司ガチャ大失敗中」

杏は電話の向こうですこし笑った。

「萌、ちょっと聞いて。わたしの病棟に似たような状態の患者さんがけっこう来る。月経不順、性欲低下、不眠、食欲不振、肌荒れ。婦人科に来る20代後半の女性のけっこうな割合」

「それねぜんぶ繋がってるの」

杏は医療従事者の声で丁寧に説明してくれた。

ストレスと性欲のメカニズム

  • 慢性ストレス → コルチゾールが高い状態
  • コルチゾール高値 → 性ホルモン分泌を抑制
  • → 性欲が下がる、勃起しにくくなる、月経不順になる
  • これは「壊れた」のではなく「身体の正常な反応」

「萌、これぜんぜん異常じゃないよ。身体が生殖どころじゃない、まず生き残ろうってモードに入ってるだけ」

「じゃあ直すには?」

「ストレスを下げて、寝て、食べる」

「うんわかってるけど」

「そうもいかないよね、わかる」

杏はふっと笑った。「でも無理だって気づくのがまず最初の一歩」



その夜、杏との通話のあと美里にもLINEを送った。

:「美里、いま大丈夫?」

美里:「いまお店終わって家。電話できる?

通話アイコンを押した。

「美里」

「うん?」

「わたし最近性欲がぜんぜんないの。翔とちょっと距離ができてる気がする」

電話の向こうで美里はふっと笑った。

「萌ちゃん、それふつう」

「ふつう?」

「わたし夜のお店で性的な『気分』を毎日提供する仕事してるけど、わたし自身のプライベートではぜんぜん性欲ない期間もよくある。そういうときわたしは自分のからだをぜんぜん責めない」

「『ああわたしいま生命維持で精一杯なんだな』ってふつうに認める。性欲ってエネルギーの余剰みたいなものでしょう。生きるためのエネルギーで精一杯のときには余剰出ない。それはふつうのこと」

わたしはふっと息が抜けた。

美里みたいに毎日性的な世界の中心にいる人でも性欲がない期間がある。それはぜんぜんおかしいことじゃない。性は職業ではなくその人のからだのその日の状態でふつうに揺らぐ。

「美里」

「うん」

「ありがとう」

「こっちこそ夜中に話聞いてくれて。今度わたしの仕事も聞いてね。広告代理店ぜんぜん知らないから興味ある」

「うんいつかちゃんと話す」

電話を切って信号待ちですこし笑った。夜のお店で働く美里と広告代理店で働くわたし。ぜんぶ違う仕事をしているのに性欲のないときの感覚は同じだった。



杏は続けてこう言った。

「あとメンタルとセックスの関係ってわたしたちの世代でけっこう深刻なテーマなの」

うつ・不安と性

  • うつ病患者の80%以上が何らかの性的問題を経験するという研究も
  • 抗うつ薬(SSRI)は性機能低下を引き起こすことが多い
  • パフォーマンス不安(特に男性)
  • 性行為への恐怖(外傷後)

日本の若いカップルの「セックスレス」

  • 日本のカップルの約50%がセックスレスとの調査結果も
  • 1か月以上、合意のうえでない期間がない場合を、医学的に「セックスレス」と定義
  • 必ずしも「悪い」ではないが、話し合えていない場合は問題

「萌と翔はちゃんと話せてる?」

「うん、翔から『不安』って言ってくれた」

「それすごい大事。話せること自体がいまの関係性を守ってる

わたしは頷いた。「セックスレス=関係性の終わり」って無意識に思い込んでいた。でも杏が言ってくれたみたいに、話せるかどうかこそが関係性の本体。性行為の頻度じゃなくことばの頻度。それがいまのわたしたちの関係をちゃんと保っている。



その週末、翔と中野の小さなビストロに行った。仕事の話はぜんぶ封印した。

中野ブロードウェイ近くのカウンター席だけの小さな店。オープンキッチンで白髪のシェフがひとりで料理を作っている。壁にはフランス映画のポスターが何枚か。キッチンからバターとハーブとガーリックの香りがふんわり流れてくる。

赤ワインのグラスを傾けながら翔とふだん話せない話をした。

「ねえ翔、わたしちょっと自分のメンタル限界かも」

「うん、そう見えてる」

「カウンセリング行ってみようかな」

「いいと思う」と翔はすぐに頷いた。

「翔は性欲ないって言われたら傷つく?」

「正直、ちょっとは」

翔はグラスをくるくる回しながら続けた。

「でもそれが萌の体の状態のサインなら心配の方が大きい」

「そして俺自身も最近けっこうしんどい」

「えっ」

「仕事でめちゃくちゃ大きな炎上案件があって。3か月毎日深夜まで社内会議。萌を見るとなんか自分も無理してるって気づいてつらくなる。だから本音言うとふたりともいますこし休まなきゃ」

わたしはぽろっと涙をひとつ落とした。翔も同じだった。わたしばかりしんどいわけじゃなかった。わたしたちはふたりとも無理してた。

「翔」

「うん」

「わたしたちいまの時期、性欲どころじゃないんだね」

「うん。お互いに生命維持で精一杯」

「でも生命維持で精一杯のときに隣にいてくれる。それがいちばん嬉しい」

翔はわたしのワインのグラスに自分のグラスをちんと当てた。

「俺たちさ、性欲がないからって関係が薄くなってるわけじゃないよね」

「うん」

むしろ性欲がないのにお互いに『会いたい』って思えるいまのほうがすごい関係かも

わたしはふっと笑った。翔の言葉はわたしのなかですとんと落ちた。

性的な繋がりだけが関係性の証じゃない。性欲がない時期にもお互いを大切に思えるその心のあり方こそが本物の関係。



それから1か月後、わたしはカウンセリングを受け始めた。

公認心理師の女性。月2回、1回50分。1回8,000円。健康保険は使えない。自費だけどいまの自分にはこれが必要だと思った。

カウンセラーさんは40代後半、本のたくさんある明るい部屋でわたしと向かい合って座った。

初回、わたしは50分間ずっと泣いていた。理由はわからなかった。ただ誰かが「ちゃんとあなたの話を最後まで聞きますよ」という姿勢で目の前に座っていてくれるという事実だけで、わたしのなかの何かが決壊した。

本当に何の利害関係もなく最後まで急かさず評価せず聞いてくれる人はほんとうに貴重。その「聞いてくれる」をお金で買うという構造に最初は違和感があったけど、やってみたらわたしの人生に確実に必要なものだった。

カウンセラーさんが教えてくれたこと。

性とメンタルヘルスのつながり

  • 性は「ぜんぶ」と繋がってる:仕事、家族、自己評価、過去のトラウマ、ホルモン
  • 性欲低下、性機能の悩み、関係性の問題、セックスレス、すべて「身体的・心理的・社会的」な要素が絡んでる
  • 直す」より「理解する」ことから始める

セルフケアの基本

  • 睡眠:7時間以上。性ホルモン分泌は深い眠りに依存
  • 食事:亜鉛、鉄、タンパク質、オメガ3を意識
  • 運動:軽い有酸素運動でストレスホルモンが下がる
  • マインドフルネス:自分の身体感覚に気づく時間
  • 自分との対話:日記、内省

自慰行為(セルフプレジャー)は自然で健康的な行為で自分の体を知る大切な機会でもあります」とカウンセラーさんは言った。

「罪悪感を持つ必要は全くない。ただ強迫的・依存的でない範囲で。バイブレーターやセルフケア用品も選択肢のひとつ。海外では大手ブランドが普通に女性誌で広告を出してる」

「ご自分のからだにご自分がいちばん詳しくなれること。それが性の健康の出発点ですよ」

わたしは頷いた。そしてしばらくしてからまたすこし泣いた。



夏のはじまり、ある夜、中野駅前の中華料理屋で5人で夕飯を食べた。

萌、杏、ゆい、リサ、美里。わたしの大切な5人。

リサは第一子の妊娠が安定期に入っていた。お腹がすこしふっくらして、髪が顎のラインで揃えられてすこし母の顔をし始めていた。

ゆいは新しい彼氏とのデートの話をなぜか杏に詳しく報告していた。

杏は看護師長への昇進が決まって忙しさを倍速にしていた。

美里はその日お店の出勤前でノンアルコールビールを頼んでいた。「お店でお客さんを楽しませる体力を温存しなきゃ」と笑っていた。

そしてわたし。わたしもまだ毎日が完璧じゃない。仕事はあいかわらず大変で翔との関係もいつも安定してるわけじゃない。でも自分の心と身体にちゃんと毎日話しかけてあげられるようになった。

「性ってなんでこんなに難しいんだろうね」とゆいが言った。水餃子を箸でつかんだまましばらく宙を見つめて。

「ぜんぶ繋がってるからじゃない?」とリサが言った。お腹を無意識に手でなでながら。

「仕事もお金も家族も自己肯定感も過去も未来もぜんぶに繋がってる」

だから性教育って本当はぜんぶの教育なんだよ」と杏は言った。紹興酒のグラスをすこしだけ傾けた。

「WHOの定義でも性の健康って身体・感情・精神・社会的にぜんぶ良好な状態のことを指すって書いてある」

「ぜんぶ良好ってけっこうハードル高いよね」とゆいが笑った。

「ね」とリサも笑った。

そして美里がノンアルコールビールのグラスを傾けてぽつりと言った。

「ねわたし最近思うんだけど」

「うん?」

「ここに座ってる5人、職業も立場も状況もぜんぜん違うんだよね。わたしは夜のお店で働いてる。杏は看護師。萌ちゃんは広告代理店。ゆいちゃんはフリーランスのデザイナー。リサさんはもうすぐお母さん」

でもわたしたち性のことふつうに話せる。それってほんとにすごいことなんだよ

「わたし22歳で中絶した夜、こういう仲間がひとりでもいてくれたらって思った。いまわたしにはいる。そしてわたしも誰かのためにいる。それがいちばんの性教育かもしれないって思うの

5人でグラスをちんと合わせた。



会計を済ませて5人で店を出た。

中野駅前のロータリーでわたしたちは別れた。

ゆいは彼氏が迎えに来ていた。リサはご主人が迎えに来ていた。杏はひとりで自分の電車に向かって歩いていった。

そして美里はこれからお店に向かうと言った。ハイヒールに履き替えてお化粧を直してコートを着直して歩き出していった。

「夜のお店」へと向かっていく彼女のうしろ姿はわたしのなかでもう特別なものではなかった。わたしの大切な友達が彼女の仕事に向かっていく、それだけだった。

そしてわたしは自分のスマホで翔に電話して「今日家に来る?」と聞いた。

「もう中野駅にいる」と翔は答えた。

電話を切ってわたしはロータリーのベンチにすこし座った。夏の夕方の風が心地よかった。

ふと自分の人生のいろんなことが頭のなかをぐるぐる回った。

婦人科の待合室。深夜のドラッグストア。朝の山手線。金曜の夜のホテル街。病院の検査結果。マッチングアプリのDM。ベッドの上の沈黙。カウンセラーの部屋。

ぜんぶわたしの27歳の風景。

そしてその風景のあちこちに杏がいてゆいがいてリサがいて美里がいた。ひとりひとりぜんぜん違う場所でぜんぜん違う仕事でぜんぜん違う人生を生きている。でもわたしの27歳のなかでぜんぶの場面に彼女たちがちゃんと隣にいてくれた。

そしてわたしも彼女たちのなかの誰かの隣にすこしいられたかもしれない。

性はひとりで抱えるものじゃない。性は互いに知り合い助け合いちゃんと対話していく社会のかたち。わたしはこれからどんな関係を結んでどんな選択をしていくかまだわからない。でもひとつ確かなのはわたしはもうひとりじゃない。



翔がロータリーの向こうから歩いてきた。

わたしを見つけてふっとちょっとだけ早足になった。遠くから知っている人が自分のほうへ歩いてくるそのささやかな安心感。この瞬間がわたしの27歳のいまのひとつの宝物だと思った。

「お待たせ」

「ううん」

「ご飯おいしかった?」

「うん。みんなでいっぱい笑った」

「美里さん今夜もお店?」

「うん。もう向かった」

翔はふっと頷いた。

「美里さんすごい人だよな」

「うんすごい人」

「萌いい友達もったね」

「うん」

「俺もさ最近思うんだけど」

「うん?」

「萌が杏と話したり美里さんと話したりリサさんと話したりしてくるたびに萌の表情がちょっとずつ変わってくのが見えてる。萌はぜんぶの人をふつうに隣に置ける人なんだなって」

「俺はそれをすごく誇りに思う」

わたしはぽろっと涙をひとつ落とした。翔はわたしのからだの状態だけじゃなくてわたしの人としての成長を見守っていてくれた。

「ありがとう」

「うん」

翔はわたしの手を自然に取った。

「今夜家帰る?」

「うん。ご飯はもう食べた?」

「うん、コンビニで」

「じゃあお風呂入って寝るだけ」

「うん」

わたしたちは駅の改札に向かって歩き出した。歩きながらわたしは翔の手をぎゅっと握った。

この関係もぜんぶ自分で選んでいる。選び続けていくこれからも。

中野駅前の夏のはじまりの夜風がわたしの髪をふわっと揺らした。その風のなかでわたしはすこし自分の頬の熱を感じた。お酒の熱だけじゃなかった。いい時間を過ごしたあとのふつうの人間のからだのふつうの熱。それをふつうに感じられるいまのわたし。

そう、いまのわたしを、わたしは好きだと初めて思えた。


エピローグ:物語の終わりに

10話、お読みいただきありがとうございました。

萌、杏、ゆい、リサ、翔、大輝、沙織、あかり、美里、マリカさん──。

ひとりひとり、ぜんぜん違う場所で、ぜんぜん違う仕事で、ぜんぜん違う事情で、ぜんぜん違う愛し方で生きている27歳前後の女性たちとその周りの人たち。

婦人科の待合室。深夜のドラッグストア。朝の山手線。金曜の夜のホテル街。病院の検査結果。マッチングアプリのDM。ベッドの上の沈黙。カウンセラーの部屋。駅前のロータリー。夜のお店のドアの向こう。

ぜんぶ、わたしたちの毎日のどこかにある場所。

そしてそのぜんぶの場所に、自分のからだに、自分の心に、自分の関係にちゃんと向き合おうとしている女性たちが生きている。

「正しい性の知識」って教科書みたいな知識のことだけじゃなくて、自分の体を、自分の心を、自分の関係を、自分のペースで大切にする方法のことなのかもしれないと思います。

そしてそれはひとりだけではたどり着けない場所。

わたしたちはお互いに知り合い対話して助け合ってようやくその方法に近づいていく。

夜のお店で働く女性も、看護師も、フリーランスのデザイナーも、結婚して妊活する女性も、広告代理店で働くわたしも、ぜんぶ同じ社会の同じ仲間。

この物語が、誰かを「特別な人」「目を背けるべき人」「保護すべき被害者」と切り分けるのではなく、ふつうの隣人としてちゃんと対話し知り繋がっていくひとつの小さなきっかけになりますように。

完璧でなくていい、悩んでもいい、人と違ってもいい──。

このシリーズが、あなたが自分自身にもう少し優しくなるための、そして隣にいる誰かにもう少しちゃんと目を向けるための小さなきっかけになりますように。

最後にもうひとつだけ。

性のことをこんなふうにふつうにお茶しながら話せる時間があなたにもありますように。

そしてそういう時間をこれからあなた自身が誰かに贈れる人でいられますように。


まとめメモ:メンタルヘルスと性

性とメンタルの相互作用

  • ストレスは性欲・性機能に直接影響
  • うつ・不安は性的関心を低下させる
  • 性的トラウマはPTSD・複雑性PTSDの原因
  • 自己肯定感は性のあり方に影響
  • ホルモンは気分を左右

よくあるメンタル課題と性

  • 性への不安・罪悪感
  • ボディイメージへの悩み
  • 性機能の悩み(ED・性交痛・性欲の変化)
  • セクシュアリティの混乱
  • 関係性の悩み・セックスレス
  • トラウマ・PTSD
  • 性依存・強迫的性行動

セルフケアの基本

  • 睡眠:7時間以上、夜10時〜2時の深睡眠が大事
  • 食事:亜鉛・鉄・タンパク質・オメガ3
  • 運動:軽い有酸素運動でコルチゾール低下
  • マインドフルネス:身体感覚への気づき
  • 対話:自分・パートナー・専門家・信頼できる仲間

WHOの「性の健康」定義

性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態であり、単に病気・機能不全・虚弱でないことを意味するものではない。

受診の目安

  • 日常生活に支障が出ている
  • 2週間以上気分が回復しない
  • 自分や他人を傷つける考えが浮かぶ
  • 性に関する悩みを話せる人がいない
  • 性行為への恐怖・回避が続く

心に留めたいこと

  • 性欲がない時期はふつうにある
  • 生命維持で精一杯のときには性欲は出てこない、それでいい
  • 性欲がない時期に隣にいてくれる関係こそが本物
  • 性は職業・立場を超えてすべての人間が共有する人間のからだの話

相談窓口(総合)

  • よりそいホットライン:0120-279-338(24時間・無料)
  • いのちの電話:0570-783-556(自殺予防)
  • こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
  • メンタルヘルス専門医:精神科・心療内科
  • 公認心理師・臨床心理士:日本臨床心理士会の名簿
  • オンラインカウンセリング:cotree、unlace 等
  • 自立支援医療制度:精神科通院で1割負担に

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