第7話|葵が、ぽつりと言った日



夏のはじめの、いちばん長い、夕方だった。

葵の部屋は、西向きで、夕方になると、リビングが、オレンジ色に、染まる。

カーテンを開けると、部屋ぜんたいが、たまご色の光に、満たされる。

窓を開けると、目黒川沿いを散歩する人の声が、遠く近く、聞こえてくる。

犬の鳴き声、ベビーカーの軋み、誰かの大きすぎる笑い声

そういう、生活の音が、降ってくる夕方の部屋を、葵は、好きだ

わたしはその日、葵の家に、お泊まりの予定だった。

ふたりで、近所のローソンで、ハーゲンダッツのストロベリーチーズケーキ味を、ふたつ買って、帰り道で、すでに半分とけ始めていたのを、急いで、冷凍庫に、戻した。

そして、20分待って、また出して、ふたりで、半解凍のいちばんおいしいタイミングで、食べていた

こういう、ささやかな段取りを、ふたりで考えるのが、好きだ

床に敷いたラグのうえで、半分寝そべるみたいに、座って、Netflixで、何かを流しっぱなしにしながら、しゃべっていた。

葵が、アイスをひとさじすくって、口に運んでから、こう、言った。

「美咲、わたし、好きな人がいる

スプーンが、わたしのアイスのなかで、ぴたっと、止まった。

「えっ、誰誰?」

わたしは、前のめりに、なった。

葵が、誰かに恋してる話を、聞くの、ほぼ、初めてだった

社会人になってから、彼女から「合コン」「マッチングアプリ」「告白された」というたぐいの話を、わたしは、聞いたことがなかった。

Tinder、Pairs、Bumble、Hinge

わたしの友達のあいだで、誰かしら、必ず使っているマッチングアプリの、葵だけが、まったく、話に乗らなかった

忙しいから、看護師は男ばっかの環境じゃないから、出会いがないから、というSNSで定型化された理由を、わたしは、勝手に、当てはめていた

同じ病棟の、看護師の人

「先輩?」

同期の女の子

わたしは、一瞬、止まった。

そして、たぶん、わたしの表情の0.5秒くらいの止まりを、葵は、ちゃんと、見ていた。



わたし、女の人を好きになるんだよね」と、葵は、ゆっくりと、言った。

声のトーンは、ふだんと、変わらなかった。

仕事の話をするときと、献立の話をするときと、同じ、声。

でも、彼女がいま、自分のなかのいちばん深いところを、わたしに開いてくれていることは、その淡々とした声からも、わかった

いつから、ってのもよくわからない

「うん」

たぶん、ずっと

葵は、アイスのスプーンを、容器に立てて、そのままラグのうえに、置いた。

わたしは、いろんな言葉が、頭のなかで、ぐるぐる、回った。

「えっ、そうだったんだ」

「全然、そんな風に見えなかった」

「いつ気づいたの?」

「家族には言ってる?」

ぜんぶ、口に出す前に、止めた。

それぜんぶ、わたしが、聞きたいだけの質問だと、感覚的に、わかったから。

いまどき、誰かが、何かをカミングアウトしたとき、それをすぐに自分の好奇心で消費するのは、もう、ぜんぜん、現代的じゃない

世間で、「LGBTQ+」のクラスメートに、「で、どうやって付き合うの?」と、興味本位で聞く人が、いまだに、いる

わたしは、そういう人間で、いたくなかった

代わりに、わたしは、こう、言った。

「葵」

「うん」

わたしに話してくれて、ありがとう

それだけは、ちゃんと、言えた。

葵は、ふっと、笑った。

オレンジ色の夕日が、彼女の頬に、横から、差していた。

「うん」

「うん」

ふたりで、しばらく、何も言わずに、Netflixの登場人物が動くのを、ぼんやり、見ていた。

ドラマのなかで、ヒーローとヒロインが、運命的にぶつかって、目を見開いて、抱きしめあっていた

世間が、ふだん、わたしたちに、「これがふつうの恋愛ですよ」と、毎日、テンプレで提示してくる映像

葵は、たぶん、これを、毎日、見ながら、自分は、ここに、入っていない、と、思ってきた

わたしの胸が、すこし、痛くなった



「いつから、誰かに話してたの?」

しばらくしてから、わたしは、慎重に、聞いた。

葵は、天井を見上げてから、答えた。

最初に話したのは、看護学校の同期の、ひとりだけ。25歳のとき

「うん」

家族には、まだ話してない

「うん」

美咲は、3人目

「3人目」

「うん」

葵は、すこし、笑った。

美咲は、わたしが知ってる人の中で、いちばん『差別しない』タイプだとわかってたから、いつかは話そうと思ってた」

わたしが、差別しないって、いつから感じた?」

美咲が、新人歓迎会で、誰かが『あの先輩、実はゲイなんだぜ』って笑ったとき、『え、それ、笑うとこ?』って真顔で言ったとき

わたしは、その瞬間のことを、ぼんやり思い出した。

入社1年目の春、地ビールがぬるくなっていく駅前の居酒屋。

そんなに深く考えて言った言葉でもなかったと思う。

でも、葵は、それを、ずっと、覚えていた

「うん。あれから、わたし、美咲のこと、信頼するようになったの」

葵は、そう言って、ふたたび、アイスを、口に運んだ。

人の信頼って、こういう、自分でも忘れているような、何気ない一言から、ゆっくり、積もっていくんだ、と、わたしは、思った。

SNSの「いいね」の数で、人気を測る世界に、わたしたちは、生きている

でも、いちばん大事な信頼は、たぶん、「いいね」がつかないところで、ひとが、ひそかに、覚えている



「葵」

「うん?」

わたしね、いま、ちょっと、複雑な気持ち

「うん?」

葵が、わたしを信頼してくれてたって、嬉しい

でもね、同時に、葵がそれだけのあいだ、ひとりで抱えてたって思うと、わたし、なんか、悔しくて

葵は、ちょっと、目を細めた。

美咲、それ、どっちも、本物の感情だね

そう、悔しい

わたしは、続けた。

葵が、24時間勤務の看護師として頑張りながら、職場で、好きな人と、毎日、笑顔で話して、でも、家に帰ったら、ひとりで、その気持ちを、誰にも言えずに過ごしてたって、思うと

わたし、同じ部屋に何回も泊まってきたのに、葵のその孤独に、まったく、気づいてあげられなかった

それが、悔しい

葵の目に、ふっと、水が浮かんだ。

美咲

「うん」

それを言ってくれること自体が、すごく大事なことなんだよ

LGBTの友達がいたとき、ふつうに「ふつうのこと」として受け取る人は、けっこういる

でも、「あなたが孤独だったことに気づけなくて悔しい」って、自分の側の感情を、ちゃんと受け取って、外に出してくれる人は、少ない

美咲は、わたしの孤独を、自分の中に、取り込んでくれた

それが、いまのわたしには、すごく、ありがたい

わたしは、葵の手を、両手で、握った。

葵の手は、ちょっと、ひんやりしていた。

看護師の指は、いつも、すこし、冷たい

患者さんを触る前に、何度も洗ってきた指

そういう指のうしろにある、葵の、3年分の沈黙を、わたしは、いま、握っている

「葵」

「うん」

ごめん、長い間、気づかなくて

ううん、こちらこそ、長い間、ひとりで持ってて

ふたりで、ちょっと、笑って、ちょっと、泣いた。



「いつから好きなの、その同期の子?」

しばらくして、わたしは、聞いた。

3年くらい前から

「3年も?」

告白してない。彼女、たぶん、ストレートだから

葵は、淡々と、言った。

わたし、自分のことを話したら、たぶん、関係が変わる。それが怖くて、3年、ただの同期で居続けてる

「うん」

でもね、3年経ってもまだ好きだから、これは、本当の好きだ、って思った

わたしは、しばらく、黙った。

なんと言っていいのか、わからなかった。

わたしは、ストレートで、シスジェンダーで、健太と結婚しようと思ったら、できる立場で、葵が抱えている苦しみの輪郭を、知識としてしか、知らなかった

そして、その「結婚しようと思ったらできる」と言うことの、ほんとうの重さを、わたしは、その夜、はじめて、ちゃんと、考えた。

「結婚しようと思ったらできる」って、特権だ

わたしは、その特権を、ずっと、当たり前のように、持ってきた

だけど、葵には、それがない

そう気づいたとき、わたしのなかで、なぜか、健太の顔が、ふっと、浮かんだ。

健太と、いつか、結婚するかもしれない、ということを、わたしは、いままで、ふつうの未来として、ふつうに、想像してきた

でも、葵には、その「ふつうの想像」が、できない

わたしの「ふつう」は、葵から見たら、「権利」だった

その事実が、わたしの胸の真ん中に、ずしっ、と、来た。

世間で、「結婚」をめぐる議論は、いまだに、「結婚するか、しないか」が、自由の問題として語られる

でも、葵にとって、そもそも、「結婚するか、しないか」を選ぶ自由が、ない

わたしの「結婚しない自由」と、葵の「結婚できない不自由」は、まったく違う、別の重さだった

それを、いま、わたしは、はじめて、ちゃんと、考えた



その夜、わたしは、葵の家のソファで、シーツに、くるまって、寝た。

葵は、寝室で、ドアを少し開けたまま、寝ていた。

葵は、いつも、ドアを少し開けて、寝る

「もしも、わたしが、夜中に体調を崩したら、葵が気づけるように」って、何度泊まりに来ても、絶対に、そうしてくれる

葵の、こういう、看護師ふだんの優しさを、わたしは、いま、はじめて、別の角度から、感じていた

ベッドの上で、わたしはスマホで「LGBTQ+ 基礎知識」と検索した。

夜中の3時くらいまで、いろんな記事を、読んだ。

性の4つの構成要素

要素 意味
生物学的性(Sex) 出生時の身体的特徴
性自認(Gender Identity) 自分の性別をどう認識するか
性的指向(Sexual Orientation) 恋愛・性的関心がどの性に向くか
性表現(Gender Expression) 服装・しぐさ・言葉での自己表現

LGBTQ+とは

略称 意味
Lesbian 女性同性愛者
Gay 男性同性愛者
Bisexual 両性愛者
Transgender 出生時の性と性自認が異なる人
Queer/Questioning 既存カテゴリに当てはまらない/模索中
+ アセクシュアル、パンセクシュアル、ノンバイナリーなど

葵は、レズビアン。

性的指向が、女性に向かう人。

性自認は、女性。

そう書いて、読み上げてみると、ああ、そうか、と思った。

「葵」は、何も変わってない

変わったのは、わたしが知ったかどうかだけ。



数日後、わたしは、美里に、葵の話を、ぜんぶ、した。

(葵には、事前に「美里に話していい? 彼女もきっと、わかってくれる人だから」と、確認した。葵は、「美里になら、いいよ」と、頷いた。)

新宿三丁目の、いつものカフェ。

美里は、しばらく、頷きながら、聞いていた。

そして、紅茶のカップを置いて、こう、言った。

美咲ちゃん、葵が話してくれてよかったね

「うん」

わたしの業界、SOGIに関しては、たぶん、ふつうの会社より、ずっと、多様

わたしのお店にも、何人か、レズビアンの女の子もいるし、トランスジェンダーの女性もいる

お店全体で、ぜんぜん、ふつうのこととして、扱われてる

一方で、お客さんのなかには、ゲイだけど、家庭があるから、夜だけは自分らしく過ごしたい、って人もいる

バイの男性も、多い

夜の街は、世間の「ふつう」が通用しないぶん、性の多様性が、自然に、混在してる

美里は、すこし、声のトーンを、下げた。

わたしのお店の同期で、トランスジェンダーの女性がいるの

麻里香さん、35歳。お店では「マリカ」って呼ばれてる

彼女は、戸籍上は、まだ男性のまま

性別変更には、生殖不能要件とか、いろんな厳しい要件があって、彼女には、まだ、それを乗り越えるお金も、心の準備も、足りない

でも、彼女は、毎日、女性として、お店に立ってる

お客さんは、ぜんぜん、気にしない

「マリカちゃん、面白い」って、ふつうに、人気がある

でもね

美里は、すこし、ため息を、ついた。

マリカが、銀行に行くたびに、書類上の名前と、見た目で、混乱が起きる

病院にかかるとき、保険証の名前で、受付で、大きな声で呼ばれて、隣の人にじろじろ見られる

マンションを借りるとき、性別欄で、ぜんぶ、断られた経験がある

マリカは、ふつうに生きるためのことすべてに、ストレスを、抱えてる

マリカが「お店にいるあいだだけは、わたしは、わたしでいられる」って、笑いながら言うときに、わたしは、毎回、世界の方が、間違ってる、って思う

わたしは、頷いた。

マリカさんの「お店にいるあいだだけは、わたしは、わたしでいられる」って、ものすごく、悲しい喜びだった。

夜のお店という、世間が「特殊」と扱う場所が、マリカさんにとって、いちばん、安全な場所

それは、世間の側が、安全な場所を、用意できていない、という、世間への、痛烈な、証拠だった。

美咲ちゃん」と、美里は、続けた。

「うん」

葵も、マリカも、わたしのお店の同僚たちも、みんな、ふつうに、社会のなかで、生きてる

でも、世間の制度が、その人たちを、ふつうに生きられないようにしてる

だから、わたし、いつか、世間の制度のほうが、変わるって、信じたい

そして、その変化は、わたしたち一人ひとりが、ちゃんと話して、知って、考えて、ようやく、できるんだと思う

美里の言葉は、わたしの胸の真ん中に、深く、入ってきた。

葵が抱えてきた孤独と、マリカさんが毎日抱えている社会の不便と、美里が見守る、夜の街の小さな多様性は、ぜんぶ、繋がっていた



日本の同性婚って、いま、どうなってるの?」と、わたしは、その後、葵に、聞いた。

葵は、ちょっと、笑った。「美咲、ちゃんと興味持ってる。嬉しい

2024年から2025年にかけて、全国の5つの高裁すべてが『同性婚を認めない現行法は違憲』って判断した

「全部?」

「全部。札幌、東京、福岡、名古屋、大阪。ぜんぶ違憲」

唯一、2025年11月の東京高裁の2件目だけが合憲って判断したけど、5対1」

最高裁の判断を、いま、待ってる状態」

「すごい流れ、来てる」

「来てる。でも、最高裁が違憲って判断しても、法律改正は国会だから、まだ時間はかかる」

葵は、そこで、ちょっと、声のトーンを、下げた。

1990年代に、同性愛を理由に勤務先を解雇されて、最高裁まで闘った人がいる

「うん」

2000年代に、レズビアンであることを家族にカミングアウトしたら、家を追い出された人もいた

「うん」

2010年代に、ゲイであることを大学院の同期に勝手に暴露されて、自ら命を絶った人もいる一橋大学アウティング事件って、知ってる?」

「ニュースでなんとなく」

2015年。あの事件以来、多くの大学・自治体・企業でアウティング禁止規定ができた」

葵は、ふぅ、と息を、吐いた。

わたしたちは、その人たちの背中の上に、いま、立ってる

「うん」

だから、いま、簡単に告白できる空気を作りたい、わけじゃないんだよ

誰もが、自分で、自分のタイミングで、自分の言葉で話せる権利を、ちゃんと守れる社会にしたい

「葵、ありがとう。教えてくれて」

「ううん。美咲が、ちゃんと聞いてくれるからだよ



「パートナーシップ制度は?」と、わたしは、聞いた。

全国の自治体の人口カバー率は90%超になった。すごい伸び」

「うん」

「でも、法的効力は限定的

相続、税控除、国民健康保険の被扶養者、こういうものが、及ばない」

家族として死ぬ間際の面会すら拒否されることが、ある」

葵は、お茶を飲んで、続けた。

わたしが、もしいまの好きな人と結ばれることになっても、結婚はできないんだよ

「うん」

同棲はできるけど、家族にはなれない

「……」

「もし、彼女が、事故にあって意識不明になったら、わたしは病院で『家族じゃない』って面会を拒否されるかもしれない

遺体の引き取りも、できないかもしれない

長年一緒に住んだ家から、彼女の家族が来て、わたしを追い出すかもしれない

「葵」

わたしは、声が、出なかった。

何を言っても、薄っぺらい気がした

そして、怒りが、こみ上げてきた。

葵が、こんなに優しくて、優秀で、誰かを大切にできる人なのに

ただ、好きになる人の性別が、世間の想定と違うというだけで

こんな根本的な権利から、排除されている

それは、葵のせいじゃない

社会の側が、追いついてないんだ

」と、わたしは、言った。

「うん」

わたし、葵が、結婚できないって、わたしの問題でもあるって、思った

「うん?」

わたしが、結婚しようと思ったらできるってのは、わたしが特別偉いからじゃなくて、たまたま、社会がわたしを「想定内」に置いてくれてるってだけ

葵が、それから、外されてる

それは、わたしも、社会の側にいる人として、許せない

葵は、ふっと、笑った。

美咲、ありがとう

でもね、美咲

「うん?」

わたしの代わりに、怒ってくれるのも、嬉しい

でも、わたし、自分の人生を、「制度の被害者」だけにしたくない

わたし、いま、ちゃんと、自分の人生を、ちゃんと生きてる

好きな人がいて、仕事があって、美咲みたいな友達がいて、毎日、忙しくて、うれしい

わたしの人生は、欠けてない

ただ、社会の制度のほうが、わたしを、まだ受け入れてないだけ

だから、わたしを、欠けたものとして、見ないで

わたしは、ぽろっと、涙が、落ちた。

葵は、強かった

葵は、自分の幸せを、自分の手で、ちゃんと、作っていた

「マイノリティ=かわいそう」という世間の物語に、わたしも、無意識に、染められていた

葵は、それを、すこし、揺すぶってくれた

葵は、自分の人生を、ちゃんと、自分の物語として、生きていた



葵は、わたしに、「アライ(Ally)」のことを、教えてくれた。

アライ(Ally)とは

当事者ではないが、LGBTQ+の権利を支持し、共に行動する人

誰でもなれる

アライにできること

  • 正しい知識を学ぶ
  • 差別的な発言を、しない・止める
  • 「彼氏/彼女いるの?」と決めつけない
  • カミングアウトを強要しない
  • アウティングしない(本人の同意なく性的指向・性自認を第三者に話さない)
  • 多目的トイレ・ジェンダー中立な選択肢を支持
  • 同性パートナーの福利厚生を企業に求める
  • 当事者を「異質」「特別」扱いしない

「葵、わたしは絶対、誰にも言わないよ

「うん。信じてる

でも、わたしの周りで、誰かが軽く『ホモネタ』とかで笑ってるとき、ちゃんと、一言、言える人になりたい

それで、十分すぎるくらい、ありがたい



会社で、ふと、気づくことが、増えた。

部長が、若手の男性社員に「まだ彼女いないの?」と聞いていた

別の上司が「男ならこのくらいの量、飲めなきゃ」と言っていた

コピー機の横で、女性社員同士が「やっぱ女子会は楽でいいよね、男のいない場所って」と笑っていた。

ぜんぶ、男女が好きになる前提、男性的・女性的な振る舞い前提の言葉。

そこに葵がいたら、居場所がないかもしれない、と、思った。

わたしは、できる範囲で、ちょっとずつ、会話の前提を変える努力を、始めた。

「彼女いないの?」じゃなくて「好きな人いないの?」。

男なら/女なら」じゃなくて「人による」。

「子どもの予定は?」じゃなくて「子どもの予定があれば応援する」。

ちょっとした言い換えだけど、そこに「いる」のに『いない』ことにされてきた人にとって、世界はちょっと変わる気がした。

ある日、ランチで、後輩の女の子が、誰かのうわさ話で「あの子、ちょっとオネエっぽいよね」と笑ったとき、わたしは、初めて、ちゃんと、口に出した。

それ、笑うとこじゃないよ

後輩は、ちょっと、驚いた顔を、した。

「えっ、ふつうに、特徴を言っただけです」

特徴を言うのと、それを笑うのは、違う

もしその場に、その特徴を持つ人がいたら、笑われたくないと思う

後輩は、しばらく、考えてから、頷いた。

ごめんなさい、わかりました

その瞬間、わたしのなかで、葵に「3人目」って言ってもらった責任を、すこし、果たせた気がした。

世間で、「ポリコレうるさい」って言われがちな指摘を、わたしは、いま、ちゃんと、目の前のひとりに、向けて、口にした。

炎上のなかでスローガンを叫ぶより、ランチの席で、ひとりに、ちゃんと、伝えること

それが、たぶん、わたしのできる、いちばん、地味で、いちばん、大事なことだと、思った。



ある日、わたしは、美里と、葵と、3人で、夕飯を食べに、行った。

渋谷の、無国籍料理の小さなお店。

美里と葵は、初対面じゃないけど、3人で会うのは、初めてだった。

葵、ひさしぶり」と、美里は、笑った。

美里、最近、お店、忙しい?

うん、けっこう。年末商戦で

ふたりは、ふつうに、近況を、話した。

そのあと、美里が、わたしに、こう、言った。

美咲ちゃん、葵に、ちゃんと、聞いてもらえる相手がいて、よかった

葵は、すこし、照れたように、笑った。

わたしも、こうやって、ふつうに3人でご飯食べられるって、嬉しい

わたしの周りで、わたしと、わたしの親友と、夜の店で働く女性が、ふつうに、3人で食事できる、って状況、世間ではまだ、あまり、想像されてないと思う

でも、わたしは、これが、わたしの「ふつう」

美咲、わたしのふつうに、入ってきてくれて、ありがとう

わたしは、グラスをあげて、ふたりに、乾杯した。

わたしのほうこそ、ありがとう



それから半年後の、雪が降りはじめた、12月のある夜。

葵から、長いLINEが、来た。

:「今日、彼女に告白した

:「返事は、ごめんなさい、わたしはストレートだから、だった

:「でも、友達でいてくれてありがとう、って、ちゃんと言ってくれた

:「美咲、いま、空いてる?

わたしは、家に来てもらって、葵と、いっしょに、飲んだ。

そして、美里にも、すぐ、LINEを、送った。

美咲:「葵が告白して、振られた

美咲:「いま、わたしの家

美里:「わたしも行く

1時間後、美里が、わたしの家に、来た。

お酒と、おつまみと、3人分のあったかいセーターを、持って。

葵は、ふつうに、ふつうに、めちゃくちゃ落ち込んでた。

3年間ずっと好きだった人に、告白して、振られたんだから、当たり前だ。

でも、彼女は、こうも、言った。

「美咲、美里」

「うん?」

ふつうに失恋できるって、けっこう、悪くない

「うん?」

今日のわたしは、誰かを好きになって、告白して、振られた、っていう、ふつうの失恋をしてる人間なんだよ

「うん」

それが、けっこう、悪くない

美里が、ふっと、笑った。

葵、それね、めっちゃ大事

夜の店で働いてるわたしと、看護師の葵と、広告代理店の美咲ちゃん

3人とも、それぞれ、ふつうの恋愛をして、ふつうに失恋して、ふつうに泣ける

それを、ふつうのこととして、3人で乾杯できる、っていうのが、わたしたちの「ふつう」だ

わたしは、グラスをぶつけて、3人で、乾杯した。

「ふつうの失恋に、乾杯」

「うん。ふつうに、悲しい

葵は、声を出して、笑った。

それから、声を出して、泣いた。

わたしと美里は、彼女の左右に、それぞれの肩を、当てた。

そのとき、わたしは、「ふつう」って言葉の重さを、はじめて、ちゃんと、わかった

葵にとって、「ふつうに失恋できる」夜は、たぶん、これまでで一番、自由な夜だった

そして、その夜が、ふつうのことになる社会を、わたしたちは、これから、ゆっくり、作っていく

世間で「ふつう」というその一語が、誰かを、ぜんぶの権利から、排除してきた

でも、その同じ「ふつう」を、葵は、いま、ぐるりと、別のかたちで、自分のものに、した

「ふつうに失恋できる」っていう、葵の、強い、言葉

わたしは、それを、しばらく、忘れない


目次

まとめメモ:性の多様性

性の4要素は独立

  • 生物学的性/性自認/性的指向/性表現は、それぞれ別の要素
  • どの組み合わせもありえて、すべて自然

LGBTQ+とSOGI

  • LGBTQ+は「特定の人々」のカテゴリ
  • SOGI(ソジ)は「すべての人」が持つ属性
  • 全員が当事者の一人

日本の同性婚(2024-2026)

  • 5つの高裁すべてが違憲(または違憲状態)と判断
  • 札幌・東京(1次)・福岡・名古屋・大阪
  • 東京(2次)のみ合憲
  • 最高裁判断待ち

パートナーシップ制度

  • 自治体の人口カバー率90%超
  • でも法的効力は限定的:相続・税・医療同意などに及ばない

大切な3つのこと

  • カミングアウトを強要しない
  • アウティング絶対NG(重大な人権侵害)
  • アライは誰でもなれる:知って・止めて・寄り添う

心に留めたいこと

  • 「ふつう」と思っている自分の特権を、ちゃんと振り返る
  • 当事者の「孤独」を、自分の問題として受け取る
  • でも、当事者は「欠けたもの」ではなく、ちゃんと、自分の人生を生きている

相談窓口・情報源

  • よりそいホットライン:0120-279-338(ガイダンス4番でセクシュアリティ専門)
  • プライドハウス東京 レガシー:常設のLGBTQ+センター
  • ReBit:LGBTQ+若者支援
  • にじーず:10代〜23歳のLGBTQ向け居場所
  • Marriage For All Japan:同性婚訴訟の最新情報
  • TRP(東京レインボープライド):年1回のパレード

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第7話|杏が、ぽつりと言った日



夏のはじめの、いちばん長い夕方だった。

杏の部屋は西向きで、夕方になるとリビングがオレンジ色に染まる。窓を開けると、目黒川沿いを散歩する人の声が遠く近く聞こえてくる。犬の鳴き声、ベビーカーの音、誰かの大きすぎる笑い声。そういう生活の音が降ってくる夕方の部屋を、杏は好きだと言っていた。

わたしはその日、杏の家にお泊まりの予定だった。

ふたりで近所のローソンでハーゲンダッツのストロベリーチーズケーキ味をふたつ買って、帰り道でもう半分とけかけてたのを急いで冷凍庫に戻した。20分待ってまた出して、半解凍のいちばんおいしいタイミングで食べる。こういうささやかな段取りをふたりで考えるのが好きだった。

床に敷いたラグのうえで半分寝そべるみたいに座って、Netflixで何かを流しっぱなしにしながらしゃべっていた。

杏がアイスをひとさじすくって口に運んでから、こう言った。

「萌、わたし、好きな人がいる

スプーンが、わたしのアイスのなかで止まった。

「えっ、誰誰?」

前のめりになった。杏が誰かに恋してる話を聞くの、ほぼ初めてだった。

社会人になってから、彼女から「合コン」「マッチングアプリ」「告白された」みたいな話を聞いたことがなかった。Tinder、Pairs、Bumble、Hinge。わたしの友達のあいだで誰かしら必ず使っているアプリの話に、杏だけがまったく乗らなかった。忙しいから、看護師は出会いが少ないから、とか、よくある理由を勝手に当てはめていた。

同じ病棟の看護師の人

「先輩?」

同期の女の子

わたしは一瞬、止まった。

そしてたぶん、わたしの表情の0.5秒くらいの止まりを、杏はちゃんと見ていた。



わたし、女の人を好きになるんだよね」と、杏はゆっくり言った。

声のトーンはふだんと変わらなかった。仕事の話をするときと、献立の話をするときと同じ声。

でも、彼女がいま自分のなかのいちばん深いところをわたしに開いてくれていることは、その淡々とした声からもわかった。

「いつから、ってのもよくわからない」

「うん」

「たぶん、ずっと」

杏はアイスのスプーンを容器に立てて、そのままラグのうえに置いた。

わたしはいろんな言葉が頭のなかでぐるぐる回った。

「えっ、そうだったんだ」?「全然そんな風に見えなかった」?「いつ気づいたの?」?「家族には言ってる?」?

ぜんぶ、口に出す前に止めた。それぜんぶ、わたしが聞きたいだけの質問だって、感覚的にわかったから。

誰かがカミングアウトしたとき、それをすぐに自分の好奇心で消費するのは違う。「で、どうやって付き合うの?」と興味本位で聞く人にはなりたくなかった。

代わりに、わたしはこう言った。

「杏」

「うん」

わたしに話してくれて、ありがとう

それだけは、ちゃんと言えた。

杏はふっと笑った。オレンジ色の夕日が彼女の頬に横から差していた。

「うん」

「うん」

ふたりでしばらく何も言わずに、Netflixの登場人物が動くのをぼんやり見ていた。ドラマのなかでヒーローとヒロインが運命的に出会って抱きしめあっている。世間がふだんわたしたちに「これがふつうの恋愛ですよ」と提示してくる映像。杏はたぶん、これを毎日見ながら、自分はここに入っていない、と思ってきたんだろう。

わたしの胸がすこし痛くなった。



「いつから、誰かに話してたの?」

しばらくしてから、慎重に聞いた。

杏は天井を見上げてから答えた。

「最初に話したのは、看護学校の同期のひとりだけ。25歳のとき」

「うん」

「家族には、まだ話してない」

「うん」

萌は、3人目

「3人目」

「うん」

杏はすこし笑った。

「萌は、わたしが知ってる人の中で、いちばん『差別しない』タイプだとわかってたから、いつかは話そうと思ってた」

「わたしが差別しないって、いつから感じた?」

「萌が新人歓迎会で、誰かが『あの先輩、実はゲイなんだぜ』って笑ったとき、『え、それ笑うとこ?』って真顔で言ったとき」

わたしはその瞬間のことをぼんやり思い出した。入社1年目の春、地ビールがぬるくなっていく駅前の居酒屋。そんなに深く考えて言った言葉でもなかったと思う。でも杏はそれをずっと覚えていた。

「あれから、わたし、萌のこと信頼するようになったの」

杏はそう言って、ふたたびアイスを口に運んだ。

人の信頼って、自分でも忘れているような何気ない一言から、ゆっくり積もっていくんだと思った。



「杏」

「うん?」

「わたしね、いまちょっと複雑な気持ち」

「うん?」

「杏がわたしを信頼してくれてたって、嬉しい。でもね、同時に、杏がそれだけのあいだひとりで抱えてたって思うと、なんか悔しくて」

杏はちょっと目を細めた。

「萌、それどっちも本物の感情だね」

「そう、悔しい」

わたしは続けた。

「杏が24時間勤務の看護師として頑張りながら、職場で好きな人と毎日笑顔で話して、でも家に帰ったらひとりでその気持ちを誰にも言えずに過ごしてたって思うと」

「わたし、同じ部屋に何回も泊まってきたのに、杏のその孤独にまったく気づいてあげられなかった」

「それが悔しい」

杏の目にふっと水が浮かんだ。

「萌」

「うん」

「それを言ってくれること自体が、すごく大事なことなんだよ」

「LGBTの友達がいたとき、ふつうに『ふつうのこと』として受け取る人はけっこういる。でも、『あなたが孤独だったことに気づけなくて悔しい』って、自分の側の感情をちゃんと受け取って外に出してくれる人は少ない」

「萌は、わたしの孤独を自分の中に取り込んでくれた。それがいまのわたしにはすごくありがたい」

わたしは杏の手を両手で握った。杏の手はちょっとひんやりしていた。看護師の指はいつもすこし冷たい。患者さんを触る前に何度も洗ってきた指。そういう指のうしろにある杏の3年分の沈黙を、わたしはいま握っている。

「杏」

「うん」

「ごめん、長い間、気づかなくて」

「ううん、こちらこそ、長い間ひとりで持ってて」

ふたりでちょっと笑って、ちょっと泣いた。



「いつから好きなの、その同期の子?」

しばらくして聞いた。

「3年くらい前から」

「3年も?」

「告白してない。彼女、たぶんストレートだから」

杏は淡々と言った。

「わたし、自分のことを話したら、たぶん関係が変わる。それが怖くて、3年、ただの同期で居続けてる」

「うん」

「でもね、3年経ってもまだ好きだから、これは本当の好きだって思った」

わたしはしばらく黙った。なんと言っていいのかわからなかった。

わたしはストレートでシスジェンダーで、翔と結婚しようと思ったらできる立場で、杏が抱えている苦しみの輪郭を知識としてしか知らなかった。

そして、その「結婚しようと思ったらできる」ということのほんとうの重さを、わたしはその夜はじめてちゃんと考えた。

結婚しようと思ったらできるって、特権だ。わたしはその特権をずっと当たり前のように持ってきた。だけど杏にはそれがない。

そう気づいたとき、なぜか翔の顔がふっと浮かんだ。翔といつか結婚するかもしれないということを、わたしはいままでふつうの未来としてふつうに想像してきた。でも杏にはその「ふつうの想像」ができない。

わたしの「ふつう」は、杏から見たら「権利」だった。

世間で「結婚」をめぐる議論は、いまだに「結婚するかしないか」が自由の問題として語られる。でも杏にとって、そもそも「結婚するかしないか」を選ぶ自由がない。わたしの「結婚しない自由」と杏の「結婚できない不自由」はまったく違う重さだった。



その夜、わたしは杏の家のソファでシーツにくるまって寝た。杏は寝室でドアを少し開けたまま寝ていた。

杏はいつもドアを少し開けて寝る。「もしもわたしが夜中に体調を崩したら気づけるように」って、何度泊まりに来ても絶対そうしてくれる。杏のそういう看護師っぽい優しさを、わたしはいま、はじめて別の角度から感じていた。

ベッドの上で、スマホで「LGBTQ+ 基礎知識」と検索した。

夜中の3時くらいまで、いろんな記事を読んだ。

性の4つの構成要素

要素 意味
生物学的性(Sex) 出生時の身体的特徴
性自認(Gender Identity) 自分の性別をどう認識するか
性的指向(Sexual Orientation) 恋愛・性的関心がどの性に向くか
性表現(Gender Expression) 服装・しぐさ・言葉での自己表現

LGBTQ+とは

略称 意味
Lesbian 女性同性愛者
Gay 男性同性愛者
Bisexual 両性愛者
Transgender 出生時の性と性自認が異なる人
Queer/Questioning 既存カテゴリに当てはまらない/模索中
+ アセクシュアル、パンセクシュアル、ノンバイナリーなど

杏はレズビアン。性的指向が女性に向かう人。性自認は女性。

そう整理してみると、ああそうかと思った。「杏」は何も変わってない。変わったのは、わたしが知ったかどうかだけ。



数日後、わたしは美里に杏の話をぜんぶした。

(杏には事前に「美里に話していい? 彼女もきっとわかってくれる人だから」と確認した。杏は「美里になら、いいよ」と頷いた。)

新宿三丁目のいつものカフェ。

美里はしばらく頷きながら聞いていた。そして紅茶のカップを置いてこう言った。

「萌ちゃん、杏が話してくれてよかったね」

「うん」

「わたしの業界、SOGIに関しては、たぶんふつうの会社よりずっと多様」

「わたしのお店にもレズビアンの女の子もいるし、トランスジェンダーの女性もいる。お店全体でぜんぜんふつうのこととして扱われてる」

「お客さんのなかには、ゲイだけど家庭があるから夜だけは自分らしく過ごしたいって人もいる。バイの男性も多い」

「夜の街は、世間の『ふつう』が通用しないぶん、性の多様性が自然に混在してる」

美里はすこし声のトーンを下げた。

「わたしのお店の同期でトランスジェンダーの女性がいるの」

「麻里香さん、35歳。お店では『マリカ』って呼ばれてる」

「彼女は戸籍上はまだ男性のまま。性別変更には生殖不能要件とかいろんな厳しい要件があって、彼女にはまだそれを乗り越えるお金も心の準備も足りない」

「でも彼女は毎日、女性としてお店に立ってる。お客さんはぜんぜん気にしない。『マリカちゃん面白い』ってふつうに人気がある」

「でもね」

美里はすこしため息をついた。

「マリカが銀行に行くたびに、書類上の名前と見た目で混乱が起きる。病院にかかるとき、保険証の名前で受付で大きな声で呼ばれて、隣の人にじろじろ見られる。マンションを借りるとき、性別欄でぜんぶ断られた経験がある」

「マリカはふつうに生きるためのことすべてにストレスを抱えてる」

「マリカが『お店にいるあいだだけはわたしはわたしでいられる』って笑いながら言うときに、わたしは毎回、世界の方が間違ってるって思う」

わたしは頷いた。

マリカさんの「お店にいるあいだだけはわたしはわたしでいられる」って、すごく悲しい喜びだった。夜のお店という世間が「特殊」と扱う場所がマリカさんにとっていちばん安全な場所。それは世間の側が安全な場所を用意できていないという証拠だった。

「萌ちゃん」と美里は続けた。

「うん」

「杏もマリカもわたしのお店の同僚たちもみんなふつうに社会のなかで生きてる。でも世間の制度がその人たちをふつうに生きられないようにしてる」

「だからわたし、いつか世間の制度のほうが変わるって信じたい。そしてその変化はわたしたち一人ひとりがちゃんと話して知って考えて、ようやくできるんだと思う」

美里の言葉は、わたしの胸の真ん中に深く入ってきた。

杏が抱えてきた孤独と、マリカさんが毎日抱えている社会の不便と、美里が見守る夜の街の小さな多様性は、ぜんぶ繋がっていた。



「日本の同性婚っていまどうなってるの?」と、わたしはその後、杏に聞いた。

杏はちょっと笑った。「萌、ちゃんと興味持ってる。嬉しい」

「2024年から2025年にかけて、全国の5つの高裁すべてが『同性婚を認めない現行法は違憲』って判断した

「全部?」

「全部。札幌、東京、福岡、名古屋、大阪。ぜんぶ違憲」

「唯一、2025年11月の東京高裁の2件目だけが合憲って判断したけど、5対1」

最高裁の判断をいま待ってる状態」

「すごい流れ来てる」

「来てる。でも最高裁が違憲って判断しても、法律改正は国会だからまだ時間はかかる」

杏はそこでちょっと声のトーンを下げた。

「1990年代に同性愛を理由に勤務先を解雇されて最高裁まで闘った人がいる」

「うん」

「2000年代にレズビアンであることを家族にカミングアウトしたら家を追い出された人もいた」

「うん」

「2010年代にゲイであることを大学院の同期に勝手に暴露されて自ら命を絶った人もいる。一橋大学アウティング事件って知ってる?」

「ニュースでなんとなく」

「2015年。あの事件以来、多くの大学・自治体・企業でアウティング禁止規定ができた」

杏はふぅと息を吐いた。

わたしたちはその人たちの背中の上にいま立ってる

「うん」

「だからいま、簡単に告白できる空気を作りたいわけじゃないんだよ。誰もが自分で、自分のタイミングで、自分の言葉で話せる権利をちゃんと守れる社会にしたい

「杏、ありがとう。教えてくれて」

「ううん。萌がちゃんと聞いてくれるからだよ」



「パートナーシップ制度は?」と聞いた。

全国の自治体の人口カバー率は90%超になった。すごい伸び」

「うん」

「でも法的効力は限定的。相続、税控除、国民健康保険の被扶養者、こういうものが及ばない」

家族として死ぬ間際の面会すら拒否されることがある」

杏はお茶を飲んで続けた。

「わたしがもしいまの好きな人と結ばれることになっても、結婚はできないんだよ」

「うん」

「同棲はできるけど、家族にはなれない」

「……」

「もし彼女が事故にあって意識不明になったら、わたしは病院で『家族じゃない』って面会を拒否されるかもしれない。遺体の引き取りもできないかもしれない。長年一緒に住んだ家から、彼女の家族が来てわたしを追い出すかもしれない」

「杏」

わたしは声が出なかった。何を言っても薄っぺらい気がした。

そして怒りがこみ上げてきた。杏がこんなに優しくて優秀で誰かを大切にできる人なのに、ただ好きになる人の性別が世間の想定と違うというだけで、こんな根本的な権利から排除されている。

それは杏のせいじゃない。社会の側が追いついてないんだ。

「杏」と言った。

「うん」

「わたし、杏が結婚できないってわたしの問題でもあるって思った。わたしが結婚しようと思ったらできるのはわたしが特別偉いからじゃなくて、たまたま社会がわたしを『想定内』に置いてくれてるだけ」

「杏がそれから外されてる。それはわたしも社会の側にいる人として許せない」

杏はふっと笑った。

「萌、ありがとう」

「でもね、萌」

「うん?」

「わたしの代わりに怒ってくれるのも嬉しい。でもわたし、自分の人生を『制度の被害者』だけにしたくない」

「わたしいまちゃんと自分の人生を生きてる。好きな人がいて、仕事があって、萌みたいな友達がいて、毎日忙しくてうれしい」

わたしの人生は欠けてない。ただ社会の制度のほうがわたしをまだ受け入れてないだけ」

だから、わたしを欠けたものとして見ないで

わたしはぽろっと涙が落ちた。

杏は強かった。自分の幸せを自分の手でちゃんと作っていた。「マイノリティ=かわいそう」という世間の物語にわたしも無意識に染められていた。杏はそれをすこし揺すぶってくれた。



杏はわたしに「アライ(Ally)」のことを教えてくれた。

アライ(Ally)とは

当事者ではないが、LGBTQ+の権利を支持し、共に行動する人

誰でもなれる

アライにできること

  • 正しい知識を学ぶ
  • 差別的な発言をしない・止める
  • 「彼氏/彼女いるの?」と決めつけない
  • カミングアウトを強要しない
  • アウティングしない(本人の同意なく性的指向・性自認を第三者に話さない)
  • 多目的トイレ・ジェンダー中立な選択肢を支持
  • 同性パートナーの福利厚生を企業に求める
  • 当事者を「異質」「特別」扱いしない

「杏、わたしは絶対誰にも言わないよ」

「うん。信じてる」

「でもわたしの周りで誰かが軽く『ホモネタ』とかで笑ってるとき、ちゃんと一言言える人になりたい」

「それで十分すぎるくらいありがたい」



会社でふと気づくことが増えた。

部長が若手の男性社員に「まだ彼女いないの?」と聞いていた。別の上司が「男ならこのくらいの量飲めなきゃ」と言っていた。コピー機の横で女性社員同士が「やっぱ女子会は楽でいいよね、男のいない場所って」と笑っていた。

ぜんぶ、男女が好きになる前提、男性的・女性的な振る舞い前提の言葉。そこに杏がいたら居場所がないかもしれないと思った。

わたしはできる範囲でちょっとずつ、会話の前提を変える努力を始めた。

「彼女いないの?」じゃなくて「好きな人いないの?」。

「男なら/女なら」じゃなくて「人による」。

「子どもの予定は?」じゃなくて「子どもの予定があれば応援する」。

ちょっとした言い換えだけど、そこに「いる」のに「いない」ことにされてきた人にとって、世界はちょっと変わる気がした。

ある日、ランチで後輩の女の子が誰かのうわさ話で「あの子ちょっとオネエっぽいよね」と笑ったとき、わたしは初めてちゃんと口に出した。

それ、笑うとこじゃないよ

後輩はちょっと驚いた顔をした。

「えっ、ふつうに特徴を言っただけです」

「特徴を言うのと、それを笑うのは違う。もしその場にその特徴を持つ人がいたら、笑われたくないと思う」

後輩はしばらく考えてから頷いた。

「ごめんなさい、わかりました」

その瞬間、わたしのなかで杏に「3人目」って言ってもらった責任をすこし果たせた気がした。炎上のなかでスローガンを叫ぶより、ランチの席でひとりにちゃんと伝えること。それがたぶんわたしのできるいちばん地味でいちばん大事なことだと思った。



ある日、わたしは美里と杏と3人で夕飯を食べに行った。渋谷の無国籍料理の小さなお店。

美里と杏は初対面じゃないけど、3人で会うのは初めてだった。

「杏、ひさしぶり」と美里は笑った。

「美里、最近お店忙しい?」

「うん、けっこう。年末商戦で」

ふたりはふつうに近況を話した。

そのあと美里がわたしにこう言った。

「萌ちゃん、杏にちゃんと聞いてもらえる相手がいてよかった」

杏はすこし照れたように笑った。

「わたしもこうやってふつうに3人でご飯食べられるって嬉しい。わたしの周りで、わたしと親友と夜の店で働く女性がふつうに3人で食事できるって状況、世間ではまだあまり想像されてないと思う。でもわたしはこれがわたしの『ふつう』」

「萌、わたしのふつうに入ってきてくれてありがとう」

わたしはグラスをあげてふたりに乾杯した。

「わたしのほうこそ、ありがとう」



それから半年後の、雪が降りはじめた12月のある夜。

杏から長いLINEが来た。

:「今日、彼女に告白した

:「返事は、ごめんなさい、わたしはストレートだから、だった

:「でも、友達でいてくれてありがとう、って、ちゃんと言ってくれた

:「萌、いま空いてる?

わたしは家に来てもらって、杏といっしょに飲んだ。

そして美里にもすぐLINEを送った。

:「杏が告白して振られた

:「いまわたしの家

美里:「わたしも行く

1時間後、美里がわたしの家に来た。お酒とおつまみと3人分のあったかいセーターを持って。

杏はふつうにめちゃくちゃ落ち込んでた。3年間ずっと好きだった人に告白して振られたんだから当たり前だ。

でも彼女はこうも言った。

「萌、美里」

「うん?」

ふつうに失恋できるって、けっこう悪くない

「うん?」

「今日のわたしは、誰かを好きになって告白して振られた、っていうふつうの失恋をしてる人間なんだよ」

「うん」

「それがけっこう悪くない」

美里がふっと笑った。

「杏、それねめっちゃ大事」

「夜の店で働いてるわたしと、看護師の杏と、広告代理店の萌ちゃん。3人ともそれぞれふつうの恋愛をしてふつうに失恋してふつうに泣ける」

「それをふつうのこととして3人で乾杯できるっていうのが、わたしたちの『ふつう』だ」

わたしはグラスをぶつけて3人で乾杯した。

「ふつうの失恋に、乾杯」

「うん。ふつうに悲しい」

杏は声を出して笑った。それから声を出して泣いた。

わたしと美里は彼女の左右にそれぞれの肩を当てた。

そのときわたしは「ふつう」って言葉の重さをはじめてちゃんとわかった。

杏にとって「ふつうに失恋できる」夜は、たぶんこれまでで一番自由な夜だった。そしてその夜がふつうのことになる社会を、わたしたちはこれからゆっくり作っていく。


まとめメモ:性の多様性

性の4要素は独立

  • 生物学的性/性自認/性的指向/性表現は、それぞれ別の要素
  • どの組み合わせもありえて、すべて自然

LGBTQ+とSOGI

  • LGBTQ+は「特定の人々」のカテゴリ
  • SOGI(ソジ)は「すべての人」が持つ属性
  • 全員が当事者の一人

日本の同性婚(2024-2026)

  • 5つの高裁すべてが違憲(または違憲状態)と判断
  • 札幌・東京(1次)・福岡・名古屋・大阪
  • 東京(2次)のみ合憲
  • 最高裁判断待ち

パートナーシップ制度

  • 自治体の人口カバー率90%超
  • でも法的効力は限定的:相続・税・医療同意などに及ばない

大切な3つのこと

  • カミングアウトを強要しない
  • アウティング絶対NG(重大な人権侵害)
  • アライは誰でもなれる:知って・止めて・寄り添う

心に留めたいこと

  • 「ふつう」と思っている自分の特権をちゃんと振り返る
  • 当事者の「孤独」を自分の問題として受け取る
  • でも、当事者は「欠けたもの」ではなく、ちゃんと自分の人生を生きている

相談窓口・情報源

  • よりそいホットライン:0120-279-338(ガイダンス4番でセクシュアリティ専門)
  • プライドハウス東京 レガシー:常設のLGBTQ+センター
  • ReBit:LGBTQ+若者支援
  • にじーず:10代〜23歳のLGBTQ向け居場所
  • Marriage For All Japan:同性婚訴訟の最新情報
  • TRP(東京レインボープライド):年1回のパレード

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