恵比寿駅西口のロータリーを背に、ガード下のほうへ二本入っていったところに、葵がよく連れて行ってくれる小さな居酒屋がある。
入口の暖簾はもう色がだいぶ抜けていて、木の引き戸を開けると、油の匂いと、出汁の匂いと、知らないおじさんたちの低い笑い声が、たぷん、と、路地に流れ出してくる。
店内の蛍光灯は、たぶんもう何十年も同じトーンで灯っていて、そのせいで、誰の顔色も同じくらい疲れて見える。
わたしは、その均一な疲れた顔色のなかに、ふらっと混ざりに来たかった。
自分だけが疲れている、と思いたくなかったんだと思う。
その日は、朝から胃が重かった。
一週間前から、わたしは、「そろそろ、ちゃんと、行ったほうがいいかもしれない」と何度も思いながら、ぜんぶ仕事のせいにして、行かない理由を作っていた。
スマホのリマインダーには「婦人科」とだけ打ち込んだメモがあって、それを毎朝、ホーム画面でちらっと見ては、横にスワイプして消すのを、もう4日繰り返していた。
「おつかれー」
葵は、すでにジョッキを半分ほど飲み終えたところで、わたしの席に手を上げた。
看護師の夜勤明けに居酒屋。
わたしより明らかにくたくたなはずなのに、葵は、いつも、きちんと、こちらの目を見てくれる。
「お疲れ。生で」
注文を済ませて、わたしは、コートを膝に置いた。
ジョッキが運ばれてくるあいだ、葵は、お通しの煮卵をお箸できれいに半分にしながら、ふっと、わたしの顔をのぞきこんだ。
「美咲」
「うん?」
「最後に婦人科行ったの、いつ?」
──きた、と思った。
ジョッキの取っ手をつかんだまま、わたしは、ちょっと黙ってしまう。
聞かれることを、心のどこかで予感していた。
先週、生理がいつもより5日遅れていたあいだ、わたしは一日に何度もカレンダーアプリを開いて、薄笑いを浮かべながら「たぶん大丈夫」と自分に言い聞かせていた。
それを、葵に、深夜のLINEで、ちょっと愚痴のように送ってしまった。
葵は、いつも、ちゃんと、そういうのを覚えている。
「……たぶん、行ったことない、かも」
声が、思ったより、ちいさくなった。
「27歳でしょ? ちょっと遅いって」
葵の声は、責める調子では、ぜんぜんない。
でも、わたしの耳には、勝手に、「ふつうの27歳の女の子はもう何回も婦人科に行っている」という幻聴が、貼りついた。
実際、SNSでフォローしているフリーランスの先輩はピルを5年飲んでいると書いていたし、大学時代の友達は子宮頸がん検診の結果をストーリーズに上げていた。
婦人科に行く・行かないの選択を、世間は、ふつうにしている。
自分だけが、ぼやっとしたまま27年生きてきた気がした。
「だってさ」
わたしは、ジョッキを口に運んでから、できるだけ軽く、言ってみた。
「なんか怖いし、痛そうだし、なんか変な感じするじゃん。先生に下半身、見られるとか、無理。あとね、台のうえで脚が勝手に開いていくやつ、こわすぎ」
葵は、ちょっと笑った。
「わかる」
ふだん、わたしの愚痴を、葵は「わかる」って言わない。
「わかる」って言うときは、葵が、ほんとうに、わかってる、ってこと。
「わたしも最初は怖かったよ」
「えっ、葵が?」
「怖くて何度も予約とって何度もキャンセルした、19歳のとき」
それは、わたしの知らない葵だった。
看護学生のころから、テキパキと医療を語る葵が、19歳で、何度も予約をキャンセルしていた──その姿を、わたしはうまく像にできなかった。
「そのとき、母にも、友達にも、言えなかったの」と葵は続けた。
「自分のからだのことなのに、誰にも聞けない、誰にも見せられない、誰にも触らせちゃいけない、ってさ、ぜんぶ自分の中だけの問題にしてた」
葵は、煮卵の半分を、口に放り込んだ。
口を動かしながら、続けた。
「でもさ、自分のからだなのに、自分が一番知らないって、おかしくない?」
ふだんの葵の口調より、ちょっとだけ、低い声だった。
葵が、いま、「自分の19歳」のことを、わたしに見せてくれている、というのが、わかった。
「……おかしい」
わたしは、答えた。
それは、葵に向かって言ったというより、長く自分のなかでぐずぐずしていた何かに、はじめて声を出した気がした。
葵は枝豆の殻を、皿の端にきれいに揃えた。
彼女のこういう癖、わたしは前から知っている。
仕事で患者さんの点滴をきちんきちんと扱うのと、たぶん、おなじ手つき。
「あのね、美咲」
「うん」
「わたし、看護師になってから、悔しいと思った場面、いっぱいある」
「うん?」
「もっと早く来てたら、進行する前に治療できたのに、って人」
「子どもをもう少し早く望んでいたら間に合ったかもしれない、っていう人」
「月経痛で20年苦しんで、診察台で泣いた人」
葵の声は、低かった。
怒りでも、嘆きでもなく、ずっと飲み込んできた何かの形を、そのまま外に出しているような声だった。
ジョッキを置いて、葵は、両手をテーブルのうえで、そろえた。
「みんな、別に、怠けてたわけじゃないんだよ。ただ、誰も、その人に、行こう、って言わなかっただけ」
居酒屋の壁の、安っぽい蛍光灯の青白い光が、葵の指の関節に落ちていた。
その指は、いままで、何回、患者さんに点滴の管を通してきた指だろう、とわたしは思った。
「だからね、わたしは、自分の友達には、行こう、って言える人になりたかったの」
葵は、ちょっと照れたように、笑った。
「いま、それ、言ってる」
わたしは、その笑顔を見ながら、心臓のあたりが、すごく、ちいさく、きゅっとなった。
葵は、わたしのことを、心配してくれていた。
それは、知っていた。
でも、こうやって、ちゃんと言葉にしてもらって初めて、わたしは、それを「受け取った」気がした。
世の中には、心配の言葉が、けっこう、たくさんあると思う。
ふわっとした「大丈夫?」とか、社交的な「無理しないでね」とか、SNSのコメントで打たれる「無理せず!」とか。
でも、葵のこの心配は、4年分の、ためてきたものを、いま、ぽつりと、こちらに渡してくれた感じだった。
重さが、ぜんぜん、違った。
ふと、わたしは、ここ最近のいろいろを、思い出した。
先月、おりものの色が、いつもと違って気になったこと。
それを、Googleの検索バーに途中まで打って、結果を見るのが怖くて、ぜんぶ消したこと。
月経が来るたびにお腹が痛くて、エナジードリンクとロキソニンの両方を一気飲みして、社内会議に出ていたこと。
胸を触ると、小さなしこりみたいなのがある気がして、でも、調べたら不安になるからやめたこと。
夜中、シャワーを浴びながら、自分のからだのいろんな部位に、「お願いだから、何も、悪くなっていないでね」と、ぼんやり、祈っていたこと。
ぜんぶ、見て見ぬふりをしてきた。
それは、わたし自身が、わたしのからだに、優しくない、ということだった。
そう気づいた瞬間、目の奥が、ちょっと、熱くなった。
わたしは、ジョッキを口に運んで、その熱を、ビールの泡で、ごまかした。
「葵」
「うん」
「行く。来週、行く」
「えらい」
葵は、それから、迷いなく言った。
「じゃあ、もう一杯飲も」
ハイボールを店員さんに頼んでくれた。
注文の声を聞きながら、わたしはスマホのリマインダーに「婦人科 予約」と打ち込んだ。
指がちょっと震えていた。
葵は、それを、横目で、見た。
何も、言わなかった。
何も言わずに、わたしの肩を、ぽん、と一回、叩いた。
それだけだった。
それが、わたしには、十分だった。
予約した日まで、わたしの心は、思っていたより、落ち着かなかった。
火曜日の夜、ベッドのなかで、わたしは思わずスマホをひらいた。
「初めての婦人科 怖くない」と打ち込んでは消し、「婦人科 内診 痛い」と打っては消し、「婦人科 行く前 持ち物」というあたりに、ようやく、落ち着いた。
画面のなかで、知らない誰かの体験談を、夜中の2時まで読んでいた。
「先生が女性で、優しくて、行ってよかったです」
「内診台はびっくりしたけど、3分で終わりました」
「子宮頸がん検診で異常が見つかって、早期発見できてよかった」
知らない人たちの、知らない体験談。
そのひとつひとつが、ベッドのなかのわたしに、ちゃんと、「だいじょうぶだよ」と言ってくれているように感じた。
SNSで「いいね」をしあう関係よりも、ずっと、こういう、名前も顔も知らない人の言葉のほうが、ときどき、効いたりする。
わたしは、画面の光を見つめながら、ちょっとだけ、泣いた。
理由はよくわからなかった。
たぶん、いままで、怖がっていた自分を、誰かに肯定してもらえた気がした、それだけだった。
葵にLINEを送った。
美咲:「予約とった。来週水曜の午前」
葵:「えらい! 女医さんとこ?」
美咲:「うん、口コミで優しいって書いてあるとこ」
葵:「美咲、よくがんばった」
わたしは「よくがんばった」の文字を、しばらく、見つめていた。
「予約をとった」だけのことなのに、葵は、ちゃんと、それを「がんばった」って言ってくれた。
そう、世の中には、「これくらいで頑張ったって言われても」って、自分で自分の頑張りを引き算してしまう癖が、ついている女の子が、たぶん、たくさんいる。
わたしも、ずっと、そうだった。
葵の「よくがんばった」は、その引き算を、ぜんぶ、いったん、止めてくれた。
その夜、わたしはようやく、すこしだけ、安心して眠った。
枕元のスマホは、「婦人科 予約」のリマインダーに、明日の朝、また光るように、設定したままだった。
でも、もう、それを、横にスワイプして消す必要は、なかった。
水曜日の朝。
代々木公園のいちょうが、半分黄色くなり始めた朝、わたしは渋谷駅で電車を降りた。
緊張で朝ごはんが入らなかったから、コンビニのおにぎりを、ひとつだけ買って、駅前の小さなベンチで食べた。
すじこおにぎり。
塩がしょっぱくて、自分の体温が、すこしずつ、上がっていくのを感じた。
ベンチの隣で、リクルートスーツの男の子が、面接に行く前らしく、ぶつぶつと自己紹介の練習をしていた。
わたしも、いまから、わたしのからだの、自己紹介に、行くんだな、と、なんとなく思った。
クリニックは、駅から少し坂を上った、白いマンションの3階にあった。
エレベーターの「3」のボタンを押す指が、自分のものじゃない気がする。
箱のなかが、思っていたよりも、清潔な石鹸の匂いだった。
そういえば、病院って、自分が想像しているより、いつもいつも、清潔だ。
ドアを開けると、思っていたよりずっと、普通の空間が広がっていた。
ベージュとオフホワイトを基調にした待合室。
観葉植物がふたつ、それなりに大きく育っている。
雑誌は『VERY』『LEE』『anan』の最近号。
受付に立った若い女性は、わたしの保険証を受け取って、「初めましてですね、こちらの問診票にご記入ください」と、ごく普通の声で言った。
椅子は7つ。
そこに、いろんな年代の女性たちが、座っていた。
スーツでパソコンを開いている、40代くらいの人。
お腹の大きな、たぶん臨月に近い妊婦さん。
小学生の娘さんと一緒に来ている、お母さんらしき人。
そして、わたしと同じくらいの年齢の女性が、ふたり。
ふと、わたしは、隣に座っている20代の女の子の手元を見た。
彼女は、スマホは伏せて、問診票を握りしめて、そのうえに、じっと、視線を落としていた。
指先が、すこし震えていた。
問診票の質問のひとつに、長く、視線が止まっていた。
たぶん、書きにくい質問が、あったのだ。
ああ、と思った。
この人も、ここに来るのに、何かを乗り越えてきたんだ。
スーツの40代の人。
お腹の妊婦さん。
母娘。
震える手の女の子。
そして、わたし。
みんな、それぞれの理由で、それぞれの不安を抱えて、ここに来ている。
そう思ったら、ふっと、肩の力が、抜けた。
わたしの不安は、わたしひとりの不安じゃない。
この部屋にいる女性たちみんなが、形は違っても、自分のからだと向き合ってきている。
その共有された静けさが、わたしを、ひとりじゃない気持ちにしてくれた。
問診票には、項目がずらりと並んでいた。
月経の状況、既往歴、性交渉の経験の有無、避妊の方法、最終月経の日、悩み……。
鉛筆を握る手は、冷たかった。
でも、ひとつずつ、正直に、書いていった。
「しこりかもしれないものがある」
「月経痛で鎮痛剤を月2〜3錠使う」
「おりものの色が時々気になる」
書き出してみたら、自分が抱えていたものの量に、自分で、驚いた。
わたしは、こんなに長いあいだ、これらを、ぜんぶ、自分のなかだけにしまっていたんだ。
それを、いま、紙のうえに出している。
外に出している。
それだけのことが、すでに、自分にとって、ものすごく、大きなことのように感じた。
世間でいう「告白」って、こういう感覚のことを言うのかもしれない、と、ふと思った。
好きな人への告白じゃなくて、自分のからだに対する、自分自身の告白。
診察室から、わたしの名前が呼ばれた。
「お待たせしました、谷口美咲さん──」
その声を聞いた瞬間、わたしのなかで、なぜか、ふっと、涙がこみあげてきた。
急いで、まばたきで止めた。
名前を呼ばれただけ、なのに。
「初めまして。はじめてですね、お悩みは何かありますか?」
声から、その先生の人柄が、伝わってきた。
40代後半くらい、ショートカットで、白衣の下にネイビーのワンピース。
眼鏡の奥の目が、にこやかなのに、ちゃんとこちらを見ている。
怖くない、と、最初の3秒で、思った。
でも、こちらが期待した「優しい先生」を演じる感じでもない、ふつうの大人の人。
わたしは、問診票に書いたことを、もう一度、自分の口で、説明した。
おりもののこと、月経痛のこと、しこりかもしれないもののこと、それから、HPVワクチンを打ちたいこと。
話している途中、何度か、声が詰まりかけた。
自分のからだのことを、自分の口で、誰かに、こんなに丁寧に説明したことが、なかったから。
LINEで、葵に、ぼかして愚痴ることはあった。
健太に、ちょっとつまずきながら、伝えたこともあった。
でも、ここまで、構造立てて、自分のからだの状況を、説明したことは、いちども、なかった。
わたしは、自分のからだのことを、誰かに話すための言葉を、持っていなかったんだ。
先生は、メモを取りながら、ひとつひとつに「うん、うん」と頷いた。
急かさなかった。
わたしの言葉が止まったときは、止まったまま、待ってくれた。
そういう間(ま)が、たぶん、世の中には、もうほとんど、なくなっている。
コンビニのレジでも、エレベーターでも、上司との打ち合わせでも、SNSの返信でも、ぜんぶ、間が、許されない。
だから、この、診察室の沈黙を待つ間が、わたしには、すごく、貴重だった。
「ぜんぶ、ちゃんと診ていきましょうね」
それが、たまらなく、ありがたかった。
「ぜんぶ」
「ちゃんと」
「診ていきましょう」
3つの言葉のひとつひとつが、わたしの耳のなかで、繰り返し、響いた。
わたしのからだの悩みを、ぜんぶ、ちゃんと、いっしょに見てくれる人がいる。
それが、こんなに嬉しいことだなんて、思わなかった。
「あと、せっかくなのでHPVワクチンの話と、子宮頸がん検診のことも、聞いてもらっていいですか?」
わたしは頷いた。
先生は、ホワイトボード替わりの大きな紙に、すらすらと、子宮の絵を描きながら、教えてくれた。
「子宮頸がんは、HPV(ヒトパピローマウイルス)っていう、性交経験がある女性の多くが感染するウイルスが原因です」
「性交渉のある女性の50〜80%は、一生のうちに一度は感染するんですよ」
「……ええっ、そんなに」
「ね、そう聞くと驚くでしょう」と先生は笑った。「でも、ほとんどは自然消失するんです。免疫の力で、体が排除してくれる。だから感染すること自体は、そんなに怖いことじゃない」
先生はペンを置いて、わたしの目を見た。
「でもね、何年も持続感染すると、子宮頸部の細胞が変化して、がんに進んでいく」
「それも、初期は症状がほとんどない。気づくのが、難しいんです。だから20歳以上は2年に1回の検診が推奨されています」
「20代って、子宮頸がんの好発年齢でもあります。他人事じゃない」
「……」
「美咲さん、HPVワクチンのキャッチアップ、まだ間に合うかもしれません。1997〜2007年度生まれですよね?」
「……あ、はい。ぎりぎりです」
「まずは打ち始めましょう。1回でも公費の期間内に打てば、残りも来年3月までは公費で打てます」
先生は、すこし、声のトーンを下げた。
「HPVワクチンって、過去にいろんなことがあって、長い間、積極的に勧められない時期があったんですよ」
「だから、わたしより上の世代の女性たちが、打ちたかったのに打てなかった、っていう人がけっこういる」
「えっ……」
「私の患者さんでも、子宮頸がんが見つかって、『あのときワクチン打てればよかった』って泣く人、何人もいた」
先生の目に、ふっと、別の患者さんの顔がよぎったのが、わたしにも、見えた気がした。
「人」をひとり、頭の中に思い浮かべている目だった。
「美咲さんは、いま、ぎりぎり間に合うんですよ」
「打てるなら、打ってあげてほしい」
その「打ってあげてほしい」という言葉に、わたしは、ふっと、頷いた。
それは、未来の自分に、優しくする、という意味の、頷きだった。
過去のわたしは、ぜんぶ、後ろ手にしまっておいて、振り返らなかった。
でも、未来の自分は、いまから、ちゃんと、抱きしめられる。
それが、今日、ここに来た、いちばんのことだった。
内診台は、確かに、びっくりした。
カーテンで仕切られた小さなブースに通されて、下半身だけ服を脱ぐ。下着もぜんぶ。
用意されていた紙のスカートみたいなものを腰に巻く。
上半身は、普段着のまま。
それが、なんか、半分だけ脱いだ夢みたいで、ちょっと笑いたくなった。
電動の椅子が、ふわっと、自分の意思とは関係なく、動いて、両脚が、自然に開く形で、固定される。
「あ、はじまる」
頭の中で、その声が、自分のものなのか、誰かのものなのか、わからなくなった。
カーテン越しに、先生の声だけが、聞こえる。
「いきますね」
「次はちょっと冷たいです」
「はい、もうすぐ終わりますね」
ぜんぶ、声に出して、教えてくれる。
その声を聞きながら、わたしは、ずっと、天井のシーリングライトを、見ていた。
身体のことが、こんなに、誰かに見守られている経験を、わたしは、はじめて、知った気がした。
健太とのセックスでさえ、わたしのからだは、こんなに「いま、何が起きているか」を、声で実況してもらった経験は、ない。
それは、健太が悪いのでも、わたしが悪いのでもない。
ただ、世の中の関係には、お互いのからだに、こんなに丁寧に声を当てる文化が、まだ、あんまりない、っていうだけ。
痛みは、生理痛のいちばんつらい瞬間より、ずっと、軽い。
一瞬、深い場所をつまむような感覚があったけれど、それも、数秒だった。
3分くらいで、終わった。
そのあと、お腹に、冷たいゼリーを塗って、超音波検査もした。
画面に、自分の子宮と卵巣が、白黒で、映し出された。
わたしの子宮。
わたしの卵巣。
こんな顔をしていたんだ。
「これが子宮で、ここが卵巣」と先生は画面を指差した。
「右側にちょっと大きめの卵胞が見えますね。明日くらいに排卵しそう」
「子宮内膜の厚さも、月経周期から考えると、自然です」
「……自分の体って、こんな風になってるんですね」
わたしの口から出た言葉は、自分でも驚くくらい、子どもみたいに、素直だった。
先生は、ふっと、笑った。
「みんな、知らないままなんですよね」
そう言って、画面を、もうすこし、わたしのほうに、近づけてくれた。
「自分の体を知ることって、本当はすごく大事なんです」
「美咲さんのからだは、いま、ちゃんと毎日、働いてくれてます」
「それを、これから、もっと、見てあげてください」
わたしの目から、ぽろっと、涙が、落ちた。
自分でも、なぜ泣いているのか、わからなかった。
ただ、いままで、自分のからだを、嫌ってきたわけじゃないけど、ちゃんと「見て」あげていなかった、ということを、ようやく自分で認めた瞬間だった。
朝、鏡を見るときの「肌荒れた」「むくんだ」「太った」みたいな、減点の目線。
ジムに行けない自分を「サボった」と責める目線。
SNSのきれいな子と比べて、ぜんぶ自分を低く見積もる目線。
わたしは、わたしのからだを、毎日、評価する側に立って、いた。
でも、いま、画面のなかで、毎日、休まずに、ちゃんと働いてくれている、わたしの内臓を、はじめて、ふつうに、ありがとう、と思った。
しこりだと思っていたものは、乳腺の張りで、特に問題ないとのこと。
今度、乳がんも気になるなら、別の日に乳腺外来も予約してくださいね、と先生は言った。
おりものの検査結果は、後日メールで届くと言われた。
「今後の月経痛、つらいときは低用量ピル(LEP)って選択肢もあります」
「痛みは我慢するものじゃないですからね」
その言葉が、なぜか、胸の奥のいちばん柔らかいところに、すとんと、落ちた。
痛みは、我慢するものじゃない。
それを、ちゃんと言ってくれる大人に、わたしは、初めて、出会った気がした。
会計を済ませて、HPVワクチンの初回を打った腕の上腕は、注射の跡が、ぽつんと、赤い丸になっていた。
クリニックを出ると、外は、秋の昼下がりで、渋谷の喧騒が、遠くに、聞こえた。
スクランブル交差点まで歩いて、信号待ちで、足を止める。
青信号を待つ人々の群れのなかに、いま、わたしも、ちゃんと、混ざっている。
いままで、わたしは、この人込みに、ちょっと「うすい」自分で混ざっていた気がした。
でも、今日は、ちょっとだけ、輪郭が、はっきりしている。
赤信号のあいだ、自分の体のいろんな場所に、意識を向けてみた。
朝、おにぎりを食べた、胃。
ヒールで歩いた、足。
緊張で汗をかいた、うなじ。
さっき、診察台で診てもらった、子宮と卵巣。
ぜんぶ、わたしのからだ。
ぜんぶ、毎日働いてくれている、わたしのからだ。
ずっと避けてきたものを、今日、見たんだ、わたし。
そして、思ったよりずっと、怖くなかった。
──むしろ、会えてよかった、って気持ちのほうが、ずっと、大きかった。
信号が青に変わった。
人波に紛れて、わたしも、歩き出した。
「歩き出した」って、ちょっと大袈裟に言うと、たぶん、26歳の終わりまでわたしの脚は、こういう前向きな歩き方を、忘れていた。
歩きながら、葵にLINEを送った。
美咲:「行ってきた」
美咲:「葵が言ってくれたとおり、行ってよかった」
美咲:「HPVワクチンの1回目、打ってきた」
美咲:「ありがとう」
葵から、すぐに、返事が来た。
葵:「えらい」
葵:「美咲、ほんとにえらい」
葵:「今夜、お祝いしよ。なんでも食べたいもの言って」
「お祝い」という言葉に、わたしは、また、目の奥が、熱くなった。
婦人科に行ったことを、お祝いしてくれる友達がいる。
それは、わたしにとっては、人生で一回も経験したことがない種類の、喜びだった。
世の中は、誕生日や、転職や、結婚を、お祝いする。
でも、自分のからだに、ちゃんと向き合ったことを、お祝いしてくれる文化は、まだ、ない。
だから、葵が、それを始めてくれている。
美咲:「ハンバーグ食べたい」
葵:「了解、肉肉しいやつ調べる」
ふだんなら、健太と笑いあう、ふつうのLINE。
でも、その日のわたしには、ちょっとだけ、特別な、お祝いの会話に見えた。
家に帰って、湯船にお湯を張って、仕事の連絡だけ片付けてから、健太に電話をした。
「もしもし」
「もしもし。今日、婦人科行ってきた」
「あ、ほんとに行ったの? えらい」
健太の声が、思っていたより、嬉しそうだった。
わたしは、あれ、と思った。
わたしが婦人科に行くことを、健太も、ちゃんと気にしていてくれたんだ、ということに、わたしは、初めて、気づいた。
「うん、平気だった」
「よかったよかった。心配してたんだよ、最近、調子悪そうだったから」
「……ごめん、心配かけて」
「いや、ぜんぜん。俺、何もしてあげられなかったから、行ってくれて、ほっとした」
電話の向こうで、健太が、ほんとうに、息を吐いたのが、聞こえた。
わたしは、自分のからだのことを、自分ひとりで抱えていたつもりだった。
でも、健太も、ちゃんと、わたしのからだを心配していてくれた。
わたしは、彼にそれを言えていなかっただけだった。
これって、世の中によくある、たぶん、いろんなカップルのすれ違いの、ひとつのかたちだ。
お互いに、相手のからだを、ちゃんと心配しているのに、それを口にする言葉がない。
結果、二人とも、ひとりで、心配を、抱えている。
今日のわたしは、たぶん、その糸を、すこしだけ、ほどいた。
「ねえ健太」
「うん」
「HPVワクチン、男性も任意で打てるって知ってた?」
「……ハ……ハペ? なに?」
電話の向こうで、健太がいつもの、間抜けな声を、出した。
わたしは、ちょっと笑ってしまう。
「ヒトパピローマウイルス。子宮頸がんの原因になる」
「でも、男性も中咽頭がんとか肛門がん、尖圭コンジローマの予防になるんだって」
「シルガード9って9価のワクチン、2025年8月から男性も適応拡大されたんだよ」
「……まじか。そんなの、聞いたことなかった」
「自治体によっては助成あるとこもあるし、なくても3回で5〜9万円くらい。考えてみない?」
「考える」と、健太は短く言った。
そのあと、すこし、間があって、彼は、付け加えた。
「美咲、めっちゃ調べてきたんだな」
「うん、だって」
わたしは、湯船のなかで、声のトーンを、すこし、下げた。
「自分のことだけじゃなくて、二人のことだもん」
電話の向こうで、健太が、ちょっと笑ったのが、息づかいで、わかった。
「美咲、ありがとう」と、健太は言った。
「何が?」
「俺たちのからだのこと、二人のこと、って言ってくれて」
わたしは、湯船のお湯のなかで、自分の足の指を、ぎゅっと握った。
胸のあたりが、あったかかった。
お湯のせいだけじゃなかった。
「明日、職場の近くの内科に問い合わせてみる」と健太は言った。
「ありがとう」
「いや、こっちこそ。ぜんぶ、教えてくれて」
通話を切って、わたしは、湯船に深く沈み込んだ。
お湯のなかで、自分のお腹を、ゆっくり、片手でなでた。
わたしのからだ。わたしだけのからだ。
そして、わたしと、健太と、葵と、いっしょに大切にしていく、わたしのからだ。
天井から、こぼれてくる、お風呂場のオレンジ色の、あかり。
湯気が、ゆっくり、ゆっくり、上がっていく。
ふだん、お風呂のあいだ、わたしはスマホでYouTubeを再生しているか、Voicyを流しているか、明日の仕事のことを考えている。
今日は、なんとなく、何も流さなかった。
自分の呼吸の音だけを、聞いていたかった。
わたしは、誰かのからだを、こんなふうに、大切に思っていただろうか。
わたしは、自分のからだを、こんなふうに、大切に思っていただろうか。
今日、すこし、変わった。
それを、わたしは、確かに、お湯のなかで、感じていた。
そして、お風呂を出るとき、ふと、わたしは、シャワーで、おへその下のあたりを、ふだんよりちょっと、丁寧に、流した。
「今日もがんばってくれて、ありがとう」って、自分の子宮に、思った。
照れくさかったから、声にはしなかった。
でも、たぶん、わたしの内臓には、ちゃんと、聞こえていた気がする。
美咲のひとり言
葵に「行ったことない?」って聞かれた瞬間、わたし、ちょっと、責められた気がしてしまった。
でも、よく考えたら、葵は、ずっと、わたしのことを心配していてくれてたんだ。
わたしは、葵の心配を、自分の罪悪感にすり替えて、受け取りそびれていた。
これって、たぶん、わたしだけの癖じゃない。
「わたしのため」って言われた言葉を、「責められた」って受け取ってしまう癖を、わたしたち世代は、ちょっと、たくさん、持ちすぎている。
SNSで、誰かの「いいね」より、「無言の既読」のほうが気になる。
誰かに親切にされると、「お返ししなきゃ」のプレッシャーが、先に来る。
「優しさ」を、ふつうに、まるっと、受け取ることが、けっこう、難しい。
葵は、それを、わかっていて、「行こう」って、ちゃんと、言葉にしてくれた。
そして、葵が、わたしのことを「行こう」って言える人になりたかったって言ってくれたとき、わたしは、葵の人生のうしろにいる、葵が看護師として見送ってきた患者さんたちの顔を、想像した。
葵が看護師になった理由を、わたしは、たぶん、その夜、はじめてちゃんと知った気がする。
性の知識は、誰かが、誰かを心配する気持ちのうえに、積み重なっているんだなって、思った。
そして、わたしも、いつか、誰かに、「行こう」って、ちゃんと、言える人に、なりたい。
それが、たぶん、今日、わたしが受け取ったものを、誰かに渡す、唯一の方法。
美咲メモ:その日わかったこと
- 婦人科は20歳を超えたら一度行ってみる価値あり。怖いより先に「行ってよかった」と思う人が多い
- HPVワクチン:1997〜2007年度生まれの女性は2026年3月末までにキャッチアップ接種を完了すれば公費で打てる
- 子宮頸がん検診は20歳以上、2年に1回。多くは自治体の補助あり
- HPVは男性も関係あるウイルス。シルガード9は2025年8月から男性適応拡大
- 内診は3分くらい。先生はちゃんと声をかけながら進めてくれる
- 「自分の体を知る」ことは、自分を大切にすることそのもの
- 痛みは、我慢するものじゃない
相談窓口
- 婦人科の探し方:日本産科婦人科学会「専門医検索」、自治体の女性健康支援センター
- 思春期・若年女性の体の悩み:日本家族計画協会「思春期・FPホットライン」
- HPVワクチン:お住まいの自治体(接種券)、厚生労働省ワクチン情報
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