3月の終わり、横浜・関内のカフェで、まりあがわたしのスマホを取り上げた。
「葵、貸して」
「えっ」
「いいから貸して」
まりあは慣れた手つきで、App Store を開いて、Pairs、Bumble、with の3つを、いっぺんにダウンロードした。
「まずは入れる。話はそれから」
「いやいや、心の準備が」
「3年やってないでしょ、恋愛。心の準備とか言ってると、また3年たつから」
わたしは、ラテのカップを、両手で包んだ。
去年の冬、会社の忘年会で、酔った同期に「葵さんって、もう恋愛とか、興味なさそうですよね」と言われたことを思い出した。
わたしは、笑って「そうかもね」と返したけど、家に帰って、お風呂で泣いた。
興味がないんじゃない。怖いだけ。
それを、まりあだけは、ずっと知っていた。
「プロフィール写真、まずはこれで撮るよ」
まりあは、わたしを店の窓際に立たせて、ナチュラル光で3枚撮ってくれた。
ベージュのニットに、ネイビーのスカート。いつもの、地味な葵。
「これでいい?」
「初手は、加工しない、盛らない。これが、わたしのおすすめ」
「えっ、加工したほうがマッチするんじゃないの」
「初回は会えるけど、2回目がない。ギャップ詐欺になるから」
なるほど、と思った。
まりあは、わたしのプロフィール文を一緒に考えてくれた。
はじめまして。横浜で経理をしている葵といいます。
趣味はパン屋めぐりと、ふつうに散歩。お酒は弱いです。
どんくさいです。でも、まじめなところはあります。
ゆっくり話せる方と、まずはお茶できたらうれしいです。
「自虐は1個だけ。あと、お酒弱いって書いとくの大事。初回がガッツリ飲み屋になるのを防げるから」
「なるほど」
「会社名・最寄駅・本名は絶対に書かない。身バレ防止。写真にビル名や駅名が映ってないかも、もう1回見て」
わたしは、写真を確認した。背景に、関内の有名なビルが映っていたから、それは差し替えた。
ここで、まりあが、紙ナプキンに何かを書きはじめた。
マッチングアプリ・はじめてリテラシー(2026年版)
#### 個人情報の出しすぎNG
- 本名・会社名・最寄駅・通っているジム などはプロフィールに書かない
- 写真の背景に、特定できるビル・看板・制服が映っていないか
- インスタの裏垢・SNSのIDをプロフ画像のEXIFや角に映さない
- 連絡先交換は、何度かやり取りしたあとで、別アプリ(LINEのID交換)に
- 電話番号は、できれば交換しない(一度わたすと取り戻せない)
#### 会うまでに確認すること
- 顔出しの写真が、最低2枚以上ある
- ビデオ通話を1回はする(顔がプロフィールと同じか)
- 会う前に、必ず Google で名前と特徴を検索(被害情報がないか)
- 初回は昼、人の多いカフェ、長くて90分
#### 会ったあとの自分ルール
- 初回でホテル誘ってくる人は、ぜんぶ二度と会わない
- おごる代わりに何かを期待する系は、ぜんぶ遮断
- 自分のお酒は、自分で目を離さない(飲み物への異物混入防止)
「葵、これ、まじで、ぜんぶ守って」
「うん」
「1か月、いいねが0でも、しょげないで。そういうもん」
📖 もっと詳しく:マッチングアプリの危険サイン・グルーミング・性的画像のリスクは [第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md) で詳しく解説しています。「公的な年齢確認のあるアプリ(インターネット異性紹介事業届出済み)を選ぶ」など、知っておきたい基本がまとまっています。
まりあと別れて、わたしは関内の駅前を、ひとりで歩いていた。
スマホのなかで、Pairs の通知が鳴った。
1件の「いいね」。
心臓が、いつもと違うペースで鳴った。
家に帰って、ベッドの上で、その人のプロフィールをひらいた。
28歳、IT、東京勤務。
妹がいて、いま大学生です。
そんな書き出しのあとに、彼は、丁寧な人だった。
3往復のメッセージのあとに、「よかったら、来週末、お茶しませんか?」と言われた。
わたしは、まりあのルールを思い出して、「お昼に、横浜で、90分以内のお茶」を提案した。
彼は、「いいですね」と返してくれた。
ほんとに、こんなにスムーズに進むんだ、と、ちょっとびっくりした。
でも、あとから知ることになる。スムーズすぎることのほうが、危ないこともあるって。
土曜日、横浜のみなとみらい。
彼との待ち合わせのカフェに、15分早く着いてしまった。
そのカフェで、わたしの隣の席に座っていたのが、杉浦 芽衣(めい) だった。
20歳、都内の大学3年生。
きっかけは、まったくの偶然。
わたしのテーブルの上に置いていたスマホを、芽衣が、ちらっと見て、「あ」と言ったのだ。
「そのアプリ、わたしも入れてます」
「えっ」
「Pairs、ですよね」
「あ、はい、そうです、これ、はじめてで」
「おねえさん、はじめて?」
芽衣は、にこっと笑って、わたしに話しかけてくれた。
ピンクのニットに、ロングの茶髪、メイクは華やかで、爪はネイル、香水のいいかおり。
わたしの、まったく持ちあわせていない、輝き。
でも、口調は、人なつこかった。
「これから会うんですか?」
「うん。30分後に」
「プロフィール、見せてもらっていいですか?」
わたしは、彼のプロフィールを、芽衣に見せた。
芽衣は、3秒、画面を見て、ちょっと黙った。
「おねえさん、これ、ちょっと、わたし気になります」
芽衣が指さしたのは、彼のプロフィールのなかのある一文。
大人な関係を、ゆっくり築ければと思います。
「これね、わたしたちの世代だと、ちょっと、警戒語なんですよ」
「え、そうなの?」
「「大人な関係」って書く人、結構な確率で、最初から身体目当てなんです」
「ほんと?」
「ぜったい全員じゃないけど、確率高い。あと、「肩書きが立派すぎる人」も警戒」
彼の自己紹介には、IT企業勤務、年収1000万円台、海外駐在経験あり、と書いてあった。
「スペック盛りすぎは、嘘か、ヤリモクか、ハイスペハラスメント系って、わたしたちは見ます」
ハイスペハラスメント、という単語に、わたしは固まった。
「今日、ホテル街の方に誘導されたら、絶対に断ってください。「ちょっと部屋で続きしようよ」って、初回でも言ってくる人、多いんで」
芽衣は、ナチュラルに、こんなアドバイスをくれた。
わたしは、まりあと同じことを、20歳の女のひとからも言われていることに、少し、こころのなかで笑った。
世代が違っても、女のひとが集めている「自分を守る情報」は、たぶんほとんど同じなんだ。
待ち合わせの彼は、5分遅れてやってきた。
プロフィール写真と、同じ顔。
身長は、書いてあったより、ちょっと低い。
最初の30分は、ふつうの会話だった。
仕事の話、出身地の話、好きな食べ物の話。
でも、45分を過ぎたあたりから、彼の話の中身が、すこしずつ変わってきた。
「葵さん、3年も恋人いないって、もったいないですよ」
「あ、はい」
「僕、葵さんの落ち着いた感じ、好きですよ。癒されるタイプ」
「ありがとうございます」
「今日、もしよかったら、もう少し落ち着いた場所で話しません?」
そして、彼が口にした店の名前は、わたしでも知っている、ホテルが入ったビルの上のラウンジだった。
わたしは、ぐっと、まりあと芽衣の言葉を、思い出した。
「ごめんなさい、今日は、もう、お茶だけで終わりにさせてください」
彼の表情は、0.3秒、止まった。
そして、「あ、そうですか」と、微笑みのまま、すこし冷たくなった。
そのあと、彼は10分でお茶を切り上げて、店を出た。
最後まで、にこやかだった。
でも、駅で別れたあと、彼からの返信は、二度と来なかった。
カフェに戻ってみたら、芽衣は、まだそこにいて、勉強をしていた。
「おねえさん、戻ってきた」
「うん。1時間も持たなかった」
「それ、ある意味、合格点ですよ」
「合格?」
「断れた、っていうのが」
芽衣は、ノートを閉じて、わたしのテーブルの向かいに、移ってきてくれた。
「おねえさん、ちょっと、わたしと、話していきません?」
「いいの?」
「わたし、論文の合間で、ちょうど休憩したかったんで」
そこから、わたしと芽衣は、2時間、話した。
芽衣は、大学でジェンダー論を専攻していた。
そして、わたしより、性のことを、ぜんぜん詳しく知っていた。
Z世代と「性的同意」のあたりまえ
芽衣が、淡々と教えてくれた。
- 性的同意(consent) は、すべての性的行為の前提
- 「Yes means yes」(はっきりイエスと言わなければノー)の原則
- 沈黙・ためらい・酔っている・寝ている → ぜんぶ「同意ではない」
- 同意は途中で撤回できる
- 同意は、特定の行為に対する同意であって、別の行為まで認めたわけではない
- 服装や、過去の関係、お金を出したかどうか、一切、同意とは関係ない
「わたしたちの大学、入学のときに、性的同意のオリエンテーションがあるんですよ」
「えっ、そうなの?」
「ここ5、6年で、結構な大学が、新入生に必修で教えるようになりました」
わたしの大学のときには、なかった。
たった7年で、こんなに、教える側が変わるんだ。
「あと、2023年7月の刑法改正って、おねえさん、知ってますか?」
わたしは、ぼんやりと、ニュースで見たような、見ていないような、を答えた。
芽衣は、メモアプリを開いて、要点を書いてくれた。
2023年7月13日施行・改正刑法のポイント
#### 「不同意性交等罪」「不同意わいせつ罪」
- 旧「強制性交等罪」「強制わいせつ罪」が改称
- 「同意しない意思を形成・表明・全うすることが困難な状態」にさせて性交した場合に成立
- 暴行・脅迫がなくても、以下のような状況だと、成立しうる:
1. 暴行・脅迫
2. 心身の障害
3. アルコール・薬物の影響
4. 睡眠・意識不明
5. 拒絶のいとま(時間)がないほど突然
6. 恐怖・驚愕
7. 虐待による心理的反応
8. 経済的・社会的関係性に基づく影響
「この8類型、覚えとくと、自分のなかで「これは違うな」って線が引きやすいんです」
📖 もっと詳しく:性的同意の FRIES原則(Freely given / Reversible / Informed / Enthusiastic / Specific)と、不同意性交等罪の8類型のすべての解説は [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) にあります。「Noを言うコツ/Noを受け止めるコツ」までまとまっています。
#### 性交同意年齢の引き上げ
- 13歳 → 16歳(5歳以上の年齢差がある場合のみ)
#### 「性的姿態撮影等処罰法」
- 同意なくスカートのなか・お風呂・着替え・性行為を撮影 → 3年以下の拘禁刑
- 撮影した画像を提供 → 5年以下の拘禁刑
- 公にする → 5年以下の拘禁刑
- 盗撮目的のカメラ・スマホの設置 も処罰
「おねえさん、たとえばですけど」と、芽衣はつづけた。
「酔っぱらってる女のひとに「いいよね?」って聞いて、彼女がうっすらうなずいたとしても、それは「同意」じゃない」
「うん」
「「断る判断ができない状態」だから」
「だから、不同意性交等罪が、成立しうる」
「そうです。わたしたちの世代は、これを、けっこう、はっきりと意識してます」
そして、芽衣は、自分の話をしてくれた。
「わたし、去年、ちょっと、おかしな経験をしたんです」
大学2年のとき、サークルの飲み会のあと、先輩の家に、グループで泊まった。
寝ているあいだに、その先輩が、芽衣のからだに、触ろうとした。
「わたし、半分起きてて、半分寝てて。「やめて」って言えなかったんです」
「うん」
「彼は、わたしが拒絶しなかったから、いい、と思った」
「うん」
「でも、わたしは、ぜんぜん、いい、と思ってなかった」
芽衣は、それを、サークルの女の子たちと、話して、ジェンダー論の先生に相談した。
先生は、芽衣に、こう言ったという。
「それは、不同意性交等罪のうち、たとえば「睡眠」「拒絶のいとまがない」「驚愕」のどれかに、当たりうる行為だ、と」
芽衣は、警察には行かなかった。
でも、サークル内で、その先輩のことを、ちゃんと、申告した。
先輩は、サークルを除名された。
「わたしたちの世代って、「黙って我慢する」ことが、いちばん「もったいない」って、思ってるんです」
「うん」
「でも、「言いふらす」ためじゃなくて、「次の被害者を出さないため」に、ちゃんと話す」
わたしは、芽衣の話を聞きながら、自分の20歳のころを思い出していた。
あのころ、わたしは、嫌だったことを、ぜんぶ、自分のせいにしていた。
「おねえさんも、たぶん、あるんじゃないですか」と、芽衣は、やわらかく聞いてきた。
わたしは、目をふせた。
大学3年のとき、合コンで知り合った人と、酔って、なんとなく、ホテルに連れていかれた夜のことを、思い出した。
わたしは、断れなかった。
でも、あれは、わたしが「いい」と言ったわけじゃなかった。
長いあいだ、自分のなかで、それを、「わたしが軽率だっただけ」と整理してきた。
「あった」と、わたしは、ぽつりと言った。
「でも、自分のせい、だと思ってきた」
芽衣は、ゆっくり、首をふった。
「おねえさん、それ、たぶん、いまの法律だったら、不同意性交等罪なんですよ」
「うん」
「自分を責める必要は、ぜんぜんなかった」
そう聞いて、わたしは、20歳のころのわたしと、すこしだけ、握手ができた気がした。
📖 もっと詳しく:「断れなかった=同意した」ではないこと、フリーズ反応(凍りつき)が科学的にふつうの防衛反応であること、被害を打ち明けられたときの言葉、二次加害になる言動――こうしたことは [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) に詳しくまとまっています。ワンストップ支援センター(#8891) の存在も、知っておくだけで、未来の自分や友人を守れます。
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📖 過去の経験を「いまの心」が抱えているとき:フラッシュバック・自責感・親密さへの恐怖は、被害から長く時間が経っても、ふつうに起きる反応です。[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) には、エビデンスのあるトラウマ治療(EMDR・CPT・PE)や、相談先の選び方が具体的に書かれています。
別れぎわ、芽衣はわたしに、SNSのIDを教えてくれた。
「おねえさん、また、相談させてください。あと、相談に、のってください」
「うん」
「わたし、20歳。おねえさん、27歳。7歳ちがう」
「そうだね」
「でも、「自分のからだのことを大事にしたい」って気持ちは、世代をこえて、いっしょなんだと思います」
横浜の駅前、夕方の風が、すこしひんやりしていた。
電車のなかで、わたしは、まりあに、LINEを打った。
葵:今日、はじめて、アプリで会った。
葵:1時間で帰った。
葵:でも、20歳の女の子と知り合った。
葵:たくさん、教えてもらった。
葵:わたし、ちょっとだけ、強くなった気がする。
まりあからは、5秒で返信が来た。
まりあ:上出来だ。
まりあ:来週、髪を切ろう。
まりあ:ばっさりじゃなくていい。5センチ。
ほんの少し、髪を切る。
ほんの少し、生き方を、変えてみる。
27歳の春、わたしの、はじめてのチャレンジ。
今日、葵が学んだこと
- マッチングアプリ・はじめての10ヶ条
1. 個人情報は出さない(本名・会社・最寄駅)
2. 写真の背景にも個人情報がないか確認
3. 写真の加工は控えめに(ギャップ詐欺は2回目がない)
4. 連絡先交換は、何度かやり取りしてから
5. ビデオ通話で顔をかならず確認
6. 会う前に Google で検索
7. 初回は昼、人の多い場所、90分以内
8. 初回でホテル誘いは、ぜんぶ断る
9. 自分の飲み物から目を離さない
10. プロフィールの「大人な関係」「ハイスペすぎる経歴」は警戒語
- 改正刑法(2023年7月13日施行)の8類型 は、自分の身を守る道具になる
- 「断れなかった」=「同意した」ではない
- 20代女性のマッチングアプリ利用率は約40-51%(2026年)
相談窓口
- 性犯罪・性暴力被害者のためのワンストップ支援センター:#8891(はやくワンストップ)
- 警察相談専用電話:#9110
- 法務省 みんなの人権110番:0570-003-110
- 性犯罪被害相談電話:#8103(ハートさん)
📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動
| この話で出てきたこと | より深く学ぶには |
|---|---|
| マッチングアプリ・「大人な関係」「ハイスペすぎる経歴」「個人情報の出しすぎ」 | [第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md) ─ グルーミング・ロマンス詐欺・撮影罪・ディープフェイク |
| FRIES原則・不同意性交等罪の8類型・性交同意年齢の引き上げ(13→16歳) | [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 改正刑法の全体像、Noを伝えるコツ、健全な関係性 |
| 過去の被害体験を「自分のせい」と整理してきた、フリーズ反応 | [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) ─ 「100%の責任は加害者にある」、ワンストップ支援センターの活用、公訴時効15年(被害時18歳未満は加算) |
| 性的画像の要求・自画撮りのリスク | [第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md) ─ 性的姿態撮影等処罰法(撮影罪)/私事性的画像被害防止法/18歳未満の自画撮りは送信側も受信側も児童ポルノ禁止法違反 |
| 過去のトラウマと、いまの自分のメンタル | [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ PTSDのケア、EMDR・CPT・PEなどエビデンスのある治療 |
次の一歩:もし「アプリで会う」前に、自分のからだの基礎を確認したいなら、[第1回 性とからだの基礎知識](../../01_性とからだの基礎知識.md) と [第4回 性感染症(STI)](../../04_性感染症(STI).md) も先に目を通しておくと安心です。
次回|第2話 歌舞伎町の、わたしじゃない夜
ホストクラブ、35歳のシングルマザー由美さん、姫プ、推し活、女性の性欲、そして2025年に変わった風営法。
