ゴールデンウィーク、後半の3日間、わたしは鎌倉の伯母さんのところに、ひとりで遊びに行った。
伯母さん、柊木 沙織、52歳。
わたしの母の姉で、もと中学校の家庭科教師。
4年前に早期退職して、いまは、鎌倉の古い一軒家で、伯父さんとふたりで暮らしている。
子どもはいない。代わりに、わたしと、わたしの妹を、ちっちゃいときから、ずっとかわいがってくれた。
ふだんは、にこにこと、お菓子を焼いて、お茶をいれてくれる伯母さん。
でも、その日、わたしが鎌倉駅で会った伯母さんは、ちょっとだけ、痩せていた。
「あら、葵、すこし、雰囲気変わった?」
「あ、ピンクのリップ、はじめてつけてみました」
「いいじゃない、似合うよ」
伯母さんは、にこっと笑った。
笑い方は、いつもの伯母さんだった。
でも、目のまわりに、小さな疲れが、たまっていた。
伯母さんの家は、北鎌倉から坂をのぼったところにある、古い木造の家。
庭には、藤棚と、紫陽花の蕾。
夕食の時間、伯父さんは、近所のお酒の好きな友人と、外で飲んでくる、ということで、家には伯母さんとわたしの2人だけだった。
伯母さんが、台所で、お味噌汁を作りながら、急に手を止めた。
「葵、ちょっと、ごめんね、暑い」
わたしは、首をかしげた。
5月の鎌倉、夕方、肌寒いくらいだった。
伯母さんは、エプロンの胸元をぱたぱた仰いで、お風呂場に行って、しばらく、戻ってこなかった。
5分くらいして、戻ってきた伯母さんは、ハンドタオルで、こめかみと首の汗を、ふいていた。
「ごめんね、急に、汗、噴き出すの」
「だいじょうぶ?」
「ううん、これ、いつもなの」
そう言って、伯母さんは、しずかに、ためいきをついた。
夕食は、お味噌汁と、しらすのまぜご飯と、菜の花のおひたしと、卵焼き。
向かい合って座って、ごはんを食べはじめた。
伯母さんは、3口くらい食べて、おはしを置いた。
「葵、伯母さんね、いま、更年期なの」
「あ、はい」
「葵に、すこし、聞いてもらってもいいかな」
わたしは、おはしを、置いた。
「もちろんです」
伯母さんは、ぽつぽつと、自分のからだのことを、話してくれた。
伯母さんの更年期、いま
- 48歳のころから、月経がだんだん不規則に
- 50歳で閉経(半年こなくなって、医師に確認)
- 51歳のころから、急にこれまで経験したことがない不調
- ホットフラッシュ(急に上半身が熱くなる、汗が噴き出す):1日5〜10回
- 不眠:寝ても2時間で目が覚めて、その後、寝つけない
- 動悸:何もしていなくて、心拍が早くなる
- イライラ:理由なく、急に泣く
- うつ気味:朝、布団から出るのに、毎朝、20分かかる
- 関節痛:とくに膝
- ドライアイ・ドライマウス
「わたし、教師のときから、自分のことを、わりと「大丈夫な人」と思って生きてきたの」
「うん」
「でも、51歳の冬、台所で、急に、わけもなく、立ったまま、号泣したのね」
「うん」
「そのとき、はじめて、「あ、わたしのからだ、なにかが、変わってる」って気づいた」
📖 もっと詳しく:閉経年齢の正常範囲(45〜55歳)、月経周期の正常範囲(25〜38日)、月経異常の見方は [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。閉経は突然来るわけではなく、数年かけてホルモンが変わること、そしてその時期を「更年期」と呼ぶこと――この基礎知識があるだけで、自分のからだの変化が「異常」ではなく「ふつう」と思えます。
伯母さんは、52歳の春、ようやく、婦人科に行った。
医師から、こう言われたという。
「沙織さん、これは、典型的な、更年期症状です。ホットフラッシュ、不眠、抑うつは、エストロゲン(女性ホルモン)の急激な低下による、ふつうの反応です」
そして、医師は、こう続けたそうだ。
「つらさが日常生活に影響しているなら、HRT(ホルモン補充療法)を検討する選択肢があります」
伯母さんは、HRTの説明を受けて、いったん家に持ち帰った、という。
そして、それを、まだ、決めかねている。
わたしは、ナチュラルに、聞いてしまった。
「伯母さん、HRTって、なんですか?」
伯母さんは、すこし、笑った。
「葵が知らないのは、当たり前。わたしも、52歳まで、ぜんぜん知らなかった」
伯母さんは、立ち上がって、自分の引き出しから、医師にもらったパンフレットを持ってきた。
そのパンフレットを、わたしと一緒に、読んだ。
ホルモン補充療法(HRT)とは
#### 概要
- 更年期症状の原因であるエストロゲン低下を、薬で補う治療
- 内服薬(飲み薬)、貼付薬(パッチ)、塗り薬(ジェル)など、いくつかの方法
- 更年期症状に対して、約80%の有効率(国際的にも、最も有効な治療と考えられている)
#### 期待できる効果
- ホットフラッシュ・発汗の改善
- 不眠・うつ気分の改善
- 関節痛・腟の乾燥の改善
- 骨粗しょう症の予防
- 動脈硬化の予防効果(閉経後10年以内に開始した場合)
#### 注意点・リスク
- 乳がん:5年以上の長期使用で、わずかにリスクが上昇する報告
- 子宮内膜増殖:子宮がある人は、エストロゲン単独ではなく、プロゲスチン併用が必要
- 静脈血栓症:内服薬で、わずかにリスク上昇(パッチ・ジェルではほぼ上昇しない)
- 40〜45歳未満で開始した場合のみ、リスク・ベネフィットは別評価
- 閉経から10年以上経過、または60歳以上で初めて開始する場合は、慎重に検討
#### 継続できる期間
- 「いつまで」という一律の年齢や期間はない、というのが世界的な統一見解
- 症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ
📖 もっと詳しく:HRTのほか、LEP(低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬) や IUS(ミレーナ) といったホルモン製剤の使い分け(避妊目的・治療目的・更年期目的)は [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) と [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。「ピルやHRTは怖い」という日本特有の心理的ハードル(OECD平均と比べてピル使用率が低い背景)も解説しています。
伯母さんが、ぽつりと、言った。
「葵、伯母さんね、HRTを、はじめるの、ちょっと、こわいの」
「どうしてですか?」
「「乳がん」って言葉が、こわい」
「うん」
わたしは、しずかに、伯母さんに聞いた。
「いま、どれくらい、つらいですか?」
伯母さんは、ほんとに長く、しずかにしていた。
そして、こう言った。
「朝、布団から、出られない日が、月の半分」
「うん」
「伯父さんとも、ほとんど、しゃべらなくなった」
「うん」
「わたし、たぶん、いまの自分が、自分で、いやなの」
わたしは、伯母さんの手を、机のうえで、握った。
伯母さんは、ほっとしたように、ちょっと笑った。
そして、こう続けた。
「葵、もうひとつ、ぜんぜん、別の話なんだけど」
「うん」
「伯父さんとね、もう、5年くらい、セックスがないの」
「あ、はい」
「最初は、なんとなくの、すれ違いだったの」
「うん」
「でも、いまは、わたしのからだが、痛くて、できない」
わたしは、息を止めた。
「痛い」
伯母さんは、しずかに、教えてくれた。
閉経後の腟の変化(GSM)
- GSM(Genitourinary Syndrome of Menopause):閉経後泌尿生殖器症候群
- 閉経後のエストロゲン低下で、腟の壁が、薄く・乾きやすく・もろくなる
- 性交時に痛み・出血が起きやすくなる
- 尿もれ・頻尿・尿路感染症 も、起きやすくなる
- 40代後半の女性の20〜40%が、なんらかのGSM症状を経験
- 多くの女性が、恥ずかしさから、医師に相談しない
「わたしね、これも、医師に相談するまで、「年だから仕方ない」って思ってたの」
#### GSMへのアプローチ
- 保湿ジェル・ローション(市販のものでもよい)
- 腟用エストロゲン製剤(局所投与・全身への影響は少ない)
- HRT(全身的に補充する場合は、GSMの改善効果もあり)
- 痛みのある性交を、無理してつづけない
「痛みを、我慢して、夫に合わせるのは、それは、もう、性的な関係として、健康じゃないって、医師に言われた」
伯母さんは、ぽつりと言った。
「でも、夫にどう話せばいいか、わからなくて、ずっと、わたし、口を閉じてた」
📖 もっと詳しく:性交痛は「年のせい」ではなく、医学的に治療できるサイン です。子宮内膜症・骨盤底機能障害・腟けいれんなど、年齢を問わず原因はさまざま。[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「4. 性機能の悩み」と、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「4. 月経のトラブル」(子宮内膜症・腺筋症)を合わせて読むと、若い世代の性交痛から閉経後のGSMまで、ひとつながりの問題として見えてきます。
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📖 そして「言わなかったから、わかってもらえなかった」を超えるためのヒント:パートナーと性について話す具体的な質問例(「何が気持ちよくて、何が嫌か」「セーフワード」など)は [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) の「11. パートナーとの性的コミュニケーション」に。コンセントは、若い恋人だけのテーマではなく、長年のパートナーシップにこそ必要なものです。
そのとき、玄関のドアが、開いた。
「ただいまー」
伯父さんが、ほんのりお酒を飲んで、帰ってきた。
伯母さんは、急いで、笑顔をつくって、伯父さんに、お茶をいれた。
伯父さんは、わたしに、「葵、ひさしぶりだなあ」と、いつもの笑顔で、声をかけてくれた。
3人で、お茶を飲みながら、しばらく、雑談をした。
23時、伯父さんは、お風呂に入った。
わたしと伯母さんは、台所のテーブルで、コーヒーを淹れなおした。
そのとき、わたしは、すこし、勇気を出して、伯母さんに、こう言った。
「伯母さん、伯父さんに、話してみませんか?」
伯母さんは、目をあげた。
「話す?」
「はい。からだのことも、夫婦のあいだのことも」
「そんなの、恥ずかしい」
「でも、伯母さんが、いま、苦しんでること、伯父さんは、たぶん、ぜんぜん、わかってない」
伯母さんは、しばらく、黙っていた。
「葵、わたしね、夫の世代の男のひとは、こういう話を、聞きたくない、って思ってる気がしてた」
「うん」
「でも、たぶん、それは、「伯父さんに、聞かせたくない」って、わたしが思ってたんだと思う」
わたしは、しずかに、うなずいた。
「わたしは、看護師でもないし、医者でもないけど」
「うん」
「最近、ちょっとだけ、「言わなかったから、わかってもらえなかった」っていうこと、自分でもあるなあ、って思ってて」
「うん」
「伯父さん、たぶん、知りたいと思います」
その夜、わたしは、客間で寝た。
夜中、お手洗いに起きたら、台所のあかりが、ついていた。
そっと、廊下から、台所をのぞくと、伯母さんと、伯父さんが、向かい合って座っていた。
伯母さんは、医師にもらったHRTのパンフレットを、伯父さんに見せていた。
伯父さんは、しずかに、それを読んでいた。
途中で、伯父さんは、伯母さんの手を、両手で、つつんだ。
わたしは、見てはいけないものを見た気がして、急いで、客間に戻った。
朝になって、伯父さんは、伯母さんと一緒に、北鎌倉の駅まで、わたしを送ってくれた。
伯母さんは、わたしに、ぎゅっと、ハグをして、こう言った。
「葵、ありがとう」
「わたし、なにもしてないですよ」
「ううん。葵がいたから、わたし、話せた」
伯父さんも、後ろで、にっこり笑って、わたしに、手を振ってくれた。
電車に揺られながら、横浜に戻る道、わたしは、ぼんやり、考えていた。
52歳の伯母さん。
52歳のからだ。
52歳の心。
それは、いまの27歳の、わたしには、ピンとこない、未来。
でも、確実に、わたしも、いつか、そこに行く。
そして、たぶん、伯母さんと、まったく同じことで、悩む。
汗が出る、寝られない、痛い、夫婦の心が、遠くなる。
そのときに、わたしは、いまの伯母さんのことを、思い出せるだろうか?
そのときに、わたしは、ちゃんと、医師に、相談できるだろうか?
そのときに、わたしは、ちゃんと、隣にいる人に、「いま、こういう状態なの」って、話せるだろうか?
そのために、いまから、すこしずつ、自分のからだのことを、知っていこう。
横浜駅についたとき、まりあから、LINEが来ていた。
まりあ:葵、ゴールデンウィーク、どうだった?
まりあ:5月、髪、5センチ切りに、おいで。
わたしは、返信した。
葵:たくさん、話せた。
葵:5月の、はじめての土曜、行きます。
葵:5センチ、お願いします。
葵:そのあと、はじめて、婦人科にも、行ってみる。
「自分のからだを知ること」は、未来の自分への、いちばんの贈り物かもしれない。
今日、葵が学んだこと
- 日本人女性の閉経の平均年齢は50.5歳、更年期は45〜55歳
- 40〜60歳の女性の60〜80%が、なんらかの更年期症状を経験
- HRT(ホルモン補充療法)は、更年期症状に約80%の有効率
- HRTには乳がん・血栓症などのわずかなリスクもあるが、症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ
- GSM(閉経後泌尿生殖器症候群):腟の乾燥・痛み・尿もれは、年齢ではなく、ホルモン低下による医学的変化。治療できる
- 「セックスが痛い」を我慢する必要はない。医師に相談していい
- 「言わなかったから、わかってもらえなかった」は、夫婦のあいだでも、ある
- 中年期の女性の不調は、「年齢のせい」「気のせい」ではなく、ホルモンの医学的変化
相談窓口
- 公益社団法人 女性の健康とメノポーズ協会:更年期や女性のからだの相談
- HP:https://www.meno-sg.net/
- 日本産科婦人科学会「女性の健康Q&A」
- 女性の健康推進室 ヘルスケアラボ(厚生労働省研究班)
- 更年期相談(各都道府県の女性健康支援センター):自治体HPで「更年期相談」で検索
- DV相談プラス:0120-279-889(夫婦間の性交強要は性的DV)
📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動
| この話で出てきたこと | より深く学ぶには |
|---|---|
| 閉経、月経の正常範囲、初経・閉経年齢 | [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 周期25〜38日/持続3〜7日/経血量20〜140ml/日本人女性の閉経平均約50歳 |
| HRT・GSM・性交痛・腟の乾燥 | [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性機能の悩み(性交痛・腟けいれん・オーガズム障害)/中年期のライフステージ |
| LEP・IUS(ミレーナ)など、閉経前にも使えるホルモン治療 | [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) ─ ピル使用率の国際比較、IUSの保険適用/[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 月経困難症・過多月経の治療 |
| 夫婦のセックスレス、パートナーとどう話すか | [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ セックスレス(日本の約50%)、カップルカウンセリング/[第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 「No」と「Yes」の両方が言える関係 |
| 「年齢のせい」「気のせい」とされてきた女性の不調 | [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ ホルモンと気分(PMS/PMDD・更年期障害・産後うつ) |
| WHOの「性の健康」の定義 | [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 「性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態」 |
次の一歩:男性パートナーが更年期について理解を深めたいときは、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「7. 男性も知っておきたい月経の知識」と、[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の 「LOH症候群(男性更年期)」 を合わせて読むと、お互いの中年期のからだを対等に話しやすくなります。
次回|(予定)第4話 課長の薬箱、40歳のプレ更年期
仕事ができる神田課長が、月のうち1週間、まったく動けない理由。プレ更年期、低用量ピル、ホルモン補充療法、そして「働く女性の40代のからだ」のはなし。
