⚠️ この回は、性的境界の侵害についての描写を含みます。読むのがつらい方は、ご無理なさらず。
会社の同期、翔太から、電話が、来たのは、深夜の0時すぎだった。
ベッドのなかで、ぼうっと、Spotifyの就寝前プレイリストを、聞いていたわたしは、画面に「翔太」と表示されたのを見て、ちょっと、驚いた。
翔太は、わたしと、同期入社のやつで、明るくて、声が大きくて、部内の打ち上げでは、いつも、乾杯の音頭を、とる。
SlackのDMで、絵文字をやたら使う。
社内インスタも、フォロワーが、わたしより多い。
プライベートで、電話してくることなんて、ふつうない。
「もしもし」
「美咲、起きてる?」
「うん、どうした?」
声が、いつもと、違った。
ふだん、ムードメーカーで、笑い声が大きい翔太が、明らかに、うろたえていた。
「あの、ちょっと、まずいことしたかも」
わたしは、ベッドのうえで、半身を、起こした。
心臓のあたりが、すこし、冷たくなった。
夜中の電話で、「まずいことした」を、男友達から聞くって、本能的に、防御モードに入る。
「うん、聞くから、ゆっくり、話して」
「営業3課の沙織さん、覚えてる?」
「うん、新人の」
「今日、飲み会のあと、二人で、帰った」
「うん」
「で、ホテルに、行った」
電話の向こうで、翔太の声が、何度も、止まる。
「でも、いま、考えたら、あれ、同意あったのかな、って」
翔太の話を、わたしは、ちゃんと、聞いた。
ベッドから出て、リビングのソファに、移って、足を抱え込んで座って、聞いた。
その夜の飲み会は、部長の歓送迎会だったらしい。
沙織さんは、22歳、入社1年目。お酒があまり強くない。
2次会のあと、3次会に誘ったのは、翔太で、結果的に、二人になった。
「どのくらい、飲んでた?」
「沙織さん、たぶん、普段の3倍くらい、飲んでた」
「3倍」と、わたしは、復唱した。
「終電なくしたって言って、家まで送るって、俺が言ったんだよね」
「うん」
「で、駅前のホテル街を通ったとき、俺が、ちょっと、寄ってこうかって……」
「沙織さんは?」
「うんとも、何とも、言わなかった」
電話の向こうの翔太の呼吸が、不規則に、乱れていた。
「でも、抵抗もしなかったから、いいのかなって」
わたしは、しばらく、黙った。
天井の、クリーム色のシーリングライトを、見上げた。
この5秒の沈黙のあいだに、何かが、ぐらり、と、動いた気がした。
そして、わたしのなかに、最初に湧いた感情は──怒りだった。
沙織ちゃんは、いま、どんな夜を、過ごしているんだろう。
お風呂で、泣いているかもしれない。
眠れないかもしれない。
「自分が悪かったんじゃないか」って、自分を、責めているかもしれない。
そして、その彼女を放って、加害した翔太は、いま、わたしに電話を、かけてきている。
「いまは、まず、沙織ちゃんのこと、考えたい」
そう言いそうになって、わたしは、咄嗟に、ぐっと、口を、つぐんだ。
怒りを、まず、ぜんぶ、自分で、受け止めて、それから、ちゃんと、必要なことを、言葉にしよう、と、思った。
SNSで、こういう告白を聞いたら、たぶん、コメント欄が燃える。
「加害者の心配なんかしてやるな」って言葉が、何百も並ぶ。
わたしのなかにも、その怒りは、確実にある。
でも、いま、わたしのスマホの向こうにいるのは、生身の翔太、生身の沙織ちゃん、生身のわたし。
燃やすだけでは、何も、解決しない。
沙織ちゃんを、ちゃんと、守ること。
翔太を、ちゃんと、責任の場所まで、連れて行くこと。
その2つを、同時にやらないと、ふたりとも、置き去りになる。
「翔太」
「うん」
「それ、性的同意ない、やつだよ」
電話の向こうで、翔太が、息を、呑んだ。
翌日、葵に、頼んで、翔太も交えて、3人で会うことに、した。
中目黒の、小さな会議室付きカフェ。
葵が、よく勉強会で使っている、貸切できるところ。
土曜の午後で、外の散歩道は、若いカップルや、家族連れで、賑わっていた。
そんな場所に、わたしと、葵と、翔太の3人で、座っているのは、何かのコントみたいだった。
翔太は、いつもの、明るい黒のキャップを、かぶらず、地味なグレーのパーカーで、目の下にうっすらクマを浮かべて、両手を膝のうえで、きっちり、揃えていた。
翔太のいまの服装と表情は、たぶん、彼が、25年生きてきたなかで、いちばん、神妙な姿だった。
それは、いままでのキャラの「うすさ」を、いま、ようやく、自分で、認めはじめた人の、顔だった。
葵は、まず、こう、聞いた。
「翔太くん、2023年7月13日に施行された改正刑法って、知ってる?」
「……名前くらい」
「強制性交等罪と、準強制性交等罪が、統合されて、不同意性交等罪っていう新しい罪に、なった」
「『暴行・脅迫があったか』じゃなくて、『同意があったか』が、基準になった」
「うん」
「法律で『同意がない』とされる8類型っていうのが、あって。これ、見て」
葵は、スマホで、法務省のサイトを、開いた。
画面を、翔太に、向ける。
不同意性交等罪・8類型
1. 暴行・脅迫を加えた/加えられた
2. 心身の障害を生じさせた/障害がある
3. アルコール・薬物を摂取させた/摂取で影響下にある
4. 睡眠などの意識不明瞭な状態にさせた/そういう状態
5. 拒絶を考える時間がない(不意打ち)
6. 予想外の事態への恐怖・驚愕を生じさせた/そういう状態
7. 虐待の心理的反応による
8. 経済的・社会的地位の影響力による不利益への憂慮
「翔太くん」と、葵は、静かに、言った。
「沙織さんは、3類型に当てはまる、かもね」
「……アルコール、で」
「普段の3倍飲んでて、ホテル街で『寄ってこうか』って言われて、はっきり拒絶できる状態だった?」
翔太は、しばらく、天井を見てから、絞り出すように、言った。
「……いや、たぶん、判断力なかったと思う」
「あと、8類型のなかの、立場による影響力もあるかも」と、葵は、続けた。
「先輩・後輩関係で、断ったら職場で、気まずくなるって、後輩は、感じやすい」
「沙織さんの立場からすれば、男性の同期入社の先輩で、ふだんから声が大きくて、3次会まで連れていかれて、ホテル街で『寄ってこう』って言われて、それを断る、って、かなり、エネルギーが、要ること」
翔太は、頭を、抱えた。
「俺、沙織さんが嫌だって言わなかったから、いいんだと思ってた」
「沈黙=同意じゃないんだよ」と、葵は、はっきり、言った。
「『No』と言わなかった、抵抗しなかった、それは『Yes』じゃない」
「法律も、社会も、もう、そういう前提で、動いてるんだよ」
葵は、ホワイトボード代わりに、ノートを、開いた。
ページの真ん中に、丸で囲んだ「FRIES」という文字を、書いた。
「同意のFRIES原則」と、葵は、説明した。
| 原則 | 意味 |
|---|---|
| Freely given | 自由意思で(強制・脅迫・薬物・酩酊なし) |
| Reversible | いつでも撤回できる |
| Informed | 何をするか理解した上で |
| Enthusiastic | 積極的・前向きな「Yes」 |
| Specific | 行為ごとに個別に |
「酔ってる人は『Freely given』に、該当しない」
「『嫌じゃないなら、いいんでしょ』はEnthusiasticじゃない」
「キスOKでも、性行為OKじゃない、Specificってこと」
翔太は、しばらく、何も、言えなかった。
葵は、お茶を、ひとくち、飲んでから、続けた。
「あなた、根が悪い人じゃないのは、わかってる」
「……」
「でもね、悪い人じゃなくても、加害は、するんだよ」
「知らないっていうこと自体が、現代では、加害に直結する」
「『そういうもんだ』って思ってきた価値観の、ぜんぶが、もう、いまの法律のもとでは、違反になりうる」
翔太の目から、ぽたっと、ノートのうえに、水が、落ちた。
「俺、これ、性犯罪なのかな」
「沙織さんが、これからどう感じるか、どう動くかは、彼女の権利」と、葵は、言った。
「翔太くんがいま考えるべきは、まず、自分のしたことに、ちゃんと、向き合うこと」
翔太は、頷いた。
ぐっと、深く、頷いた。
翔太の頷きは、ぜんぜん、軽くなかった。
世間で「男ならこんなもん」と、ずっと言われて育ってきた価値観を、彼が、いま、自分の手で、ぐっと、引き剥がしている、その重さが、頷きに、出ていた。
その日の夕方、わたしは、葵と、美里と、3人で、別のカフェに移って、もうすこし、話を、した。
翔太の件は、わたしと葵だけでは、消化できなかった。
葵が、「美里に話を聞いてもらいたい」と言って、美里がすぐに来てくれた。
「美咲ちゃん、お疲れ」
美里は、コートを脱いで、椅子に、座った。
たぶん、お店の前のシフトで、すこし、疲れていた。
それでも、彼女は、わたしの目を見て、ちゃんと、笑った。
わたしは、翔太と、沙織さんのことを、美里に、話した。
美里は、最後まで、頷きながら、聞いていた。
そして、紅茶を、ひとくち飲んでから、こう、言った。
「美咲ちゃん、わたし、コンセントについては、たぶん、世界でいちばんうるさい人種のひとりなんだよね」
「えっ」
「夜のお店で4年やってきて、いちばん大事なのは、何だと思う?」
「……お客さんとの関係、とか?」
「コンセント、なの」
美里は、紅茶のカップを、置いて、続けた。
「仕事のなかで、わたしたちは、お客さんに、毎晩、明確な「Yes」と「No」を、伝えてる」
「「これはOK、これはNG、これはお金次第、これは絶対しない」」
「それを、毎日、何十人も相手に、ちゃんと、言葉にする」
「だから、わたし、コンセントの線を引くプロみたいに、なっちゃった」
「そして、その線がちゃんとあるから、わたしは、わたしの仕事を、誇りに思って、続けられてる」
美里は、すこし、声のトーンを、下げた。
「でね、わたしのお店の女の子で、コンセントなしの行為をされた子、何人もいるの」
「お客さんが、約束を破った、お金で押し切った、無理矢理、強引に、いう感じで」
「わたしたちは、それを「事故」って言うけど、本当は、「事件」」
「ただ、警察に行く子は、少ない」
「仕事を、やめなきゃいけなくなる、世間に、晒される、そういうリスクを、被害者側が、背負うから」
「世間は、わたしたちの仕事を、不当に、扱う」
「だから、わたしたちは、自分たちで、自分たちのルールを、作って、自分たちで、自分たちを、守ってる」
美里の声に、静かな怒りが、混ざった。
それは、SNSで、燃え盛る怒りでは、なかった。
4年、自分のからだを、毎日、自分の手で、守ってきた人の、底のほうに、低く、ずっと、流れている、火種のような怒りだった。
世間にあわただしくぶつけるんじゃなくて、ちゃんと、ことばに、なるところまで、持ってきた怒り。
「美咲ちゃんが今日聞いた、翔太くんの話」
「沙織さんも、もしかしたら、声を上げないかもしれない」
「「自分が酔っていたから」「先輩だから断れなかった」「翔太の人生を壊したくない」って、自分を責めるかもしれない」
「でも、それは、被害者が悪いんじゃない」
「世間が、被害者に、声を上げにくい構造を、作ってるから」
「わたしたちの業界も、ふつうの会社も、同じ構造を、持ってる」
わたしは、頷いた。
美里の言葉は、わたしの胸の真ん中に、鋭く、入ってきた。
性的同意の問題は、ひとりの加害者の問題じゃない。
それを「自分が悪い」と思わせる、社会の構造の問題。
そして、その構造のなかで、いちばん「黙らされる」のは、立場の弱い人たち。
新人の女性社員、夜のお店の女性、若い女の子、性的少数者、外国人、障害者、貧困層。
わたしは、そのこと、もっと、知らなきゃいけない、と、強く、思った。
「美里」と、わたしは、聞いた。
「うん?」
「コンセントを、ちゃんと言葉にする、って、夜のお店では、どんな風に、やってるの?」
美里は、ふっと、笑った。
「美咲ちゃん、いい質問」
「わたしの場合だけど、こう」
美里は、ノートを、取って、書きながら、説明してくれた。
美里の「コンセント実践」
1. 入店時に、お客さんに、できることとできないことのリストを、口頭で確認
2. 行為に入る前に、もう一度、確認
3. 行為のあいだも、定期的に「これは大丈夫?」と聞く
4. お客さんから「これしたい」って言われたら、毎回、判断する
5. 少しでも違和感があったら、即、止める
6. NGを伝えるときは、笑顔で、でも、絶対譲らない
「これね、お店の研修で習ったわけじゃ、ないの」
「わたしが、4年、自分の身を守るために、自分で開発したシステム」
「この体系を、後輩に、伝えてる」
「わたしのお店は、たぶん、世間のふつうの職場より、コンセント教育、進んでる」
美里は、ちょっと、悪戯っぽく、笑った。
「美咲ちゃんの会社、どう? コンセント研修、してる?」
「……してない」
「でしょう。だから、翔太くんみたいな人は、何も知らないまま、加害してしまう」
「翔太くん、ぜんぜん、悪い人じゃないと思う」
「でも、知らなさすぎた」
「そして、知らないことを、社会が、放置してた」
「「男なら、こうするもの」って、誰かが、教えた」
「だからこそ、いまの世代から、変えなきゃいけない」
わたしは、頷いた。
世間で、「男女関係」のテンプレって、いまも、テレビとか、漫画とか、ふだんの会話のなかに、残っている。
「無理やりキスされた」を、「情熱的」と表現する歌詞。
「彼女が嫌がってたけど、結局、ふたりはハッピー」のラブコメ。
「強引な男のほうがモテる」みたいな、雑誌のコラム。
わたしたちの世代は、それを、なんとなく違う、と感じながら、ぜんぶ、消費してきた。
翔太も、わたしも、その「ぜんぶ」のなかから、自分なりの、関係の作り方を、組み立ててきた。
だから、誰かが、根本的に、テンプレを書き換えないと、わたしたちは、何度でも、同じ加害を、繰り返す。
その書き換えを、いま、葵と美里が、やってくれている。
そして、わたしも、それに、加わっている。
その日の夕方、わたしは、沙織さんに、LINEを、送った。
連絡先は、社内で、すこし前に、交換していた。
新人歓迎会のあと、なんとなく、わたしが、先輩面で「何かあったら、相談してね」と言って、それで、交換していた。
そのときの自分の言葉が、まさかこんな形で、活きるとは、思っていなかった。
美咲:「沙織ちゃん、いま大丈夫?」
返事は、20分後に、きた。
沙織:「お疲れ様です」
短い言葉だった。
短いだけで、あんなに、人を傷つけられる文字って、ない。
「お疲れ様です」って、職場で、毎日、何百回もかわす言葉。
でも、いま、沙織ちゃんが打ったその5文字には、彼女の、24時間ぶんの、削られたなにかが、ぜんぶ、入っていた。
美咲:「翔太のこと、聞いていい?」
長い沈黙のあと、沙織さんから、返事が、来た。
沙織:「わたし、朝起きてから、ずっと体が重くて、何も食べてません」
沙織:「『嫌だ』って言えなかった自分が、悪いのかなって」
沙織:「でも、ちゃんと『嫌だ』って言える状態じゃなかった、と思います」
わたしは、何度も、書いては、消して、書いては、消して、結局、こう、送った。
美咲:「沙織ちゃんは、何も悪くないよ」
美咲:「酔ってて、判断できない状態でホテルに連れてかれて、それは『同意』にならない」
美咲:「法律も、そう、変わったの」
美咲:「いま、つらかったら、相談できるところ、紹介する」
葵が事前に教えてくれていた、相談先のリストを、もう一度、確認しながら、送った。
相談先(沙織さんに送ったもの)
- ワンストップ支援センター:#8891(はやくワンストップ)
- 24時間対応の地域あり、医療・カウンセリング・警察への付き添い、無料
- 性犯罪被害相談電話:#8103(ハートさん)
- 警察相談、各都道府県警
- Cure Time(夜間チャット相談):内閣府男女共同参画局のサイト
- DV相談プラス:0120-279-889(24時間)
沙織:「まずは、話を聞いてくれるところに、電話してみます」
そのメッセージを、最後に、その夜、彼女からは、連絡が、なかった。
わたしは、自分のスマホを、枕元に置いたまま、なかなか、眠れなかった。
「ちゃんと届いただろうか」
「いま、彼女は、ひとりで泣いていないだろうか」
「明日、会社で、どう声をかければいいだろうか」
頭のなかで、ぐるぐる、まわる。
それでも、わたしには、それ以上、できることが、なかった。
「できることがないこと」を、ちゃんと、認めることも、たぶん、誰かを支える、ひとつの大事なことだった。
それから1週間、沙織さんは、ワンストップ支援センターに、繋がって、カウンセリングを、受け始めた。
被害届を出すかは、まだ、決めていない。
「いまは、自分の心を整えるのが、先」だと、彼女は、言っていた。
会社では、彼女は、休職することに、なった。
営業3課の課長が、「長期療養」とだけ、アナウンスをして、それ以上の説明はしなかった。
その「長期療養」の3文字が、社内Slackのチャンネルに、ぽつんと、置かれた。
それを、何百人かの社員が、軽く、読んで、流した。
何があったか知っているのは、おそらく、人事と、本人だけ。
世間の被害は、こうやって、組織のなかで、ぜんぶ、抽象化される。
「個人の事情」「長期療養」「家庭の事情」。
そのことばに、ぜんぶ、ひとりの女性の、震える夜が、押し込まれている。
翔太は、自分で、弁護士を、探していた。
「自分の行動の責任を、ちゃんと取りたい」と、何度も、言っていた。
それでも、彼の今後がどうなるかは、わたしには、わからなかった。
わたしには、ここから先、何かを決定する立場は、なかった。
ただ、彼を見守ることと、沙織さんを陰で支えることだけが、できることだった。
その週末、わたしは、ひとりで、自分のなかの、過去を、振り返っていた。
わたしには、似たような経験が、何度か、あった。
学生時代、酔った先輩に、無理に押し倒されかけたこと。
あの夜、「やめて」と言ったら、「ノリ悪い」と笑われた。
冗談みたいに笑われたから、わたしも、ちゃんと、怒ることが、できなかった。
飲み会のあと、知らない間に、彼の家に「送って」もらって、雰囲気で、何かが起こったこと。
「送ってくれてありがとう」と言ったあとの空気が、断りにくくしていた。
別れ話のとき、「最後にもう一回」って言われて、断れなかったこと。
「これで終わりなら、あげる」って、自分で自分を、説得した夜。
そのときは、ぜんぶ、「自分のせい」にしてきた。
「ちゃんと断れなかった自分」が、悪い、と、勝手に、自分を、責めてきた。
でも、本当は、違ったんだ。
わたしは、ベッドのうえで、そのことに、ぼろぼろ、泣いた。
わたしは、わたしを、何度も、見捨ててきた。
わたし自身が、わたしの境界線を、踏みにじる相手の側に立って、自分を責めてきた。
それは、社会が、わたしに、そう教えたからかもしれない。
でも、わたしは、それを、ちゃんと、受け取り直したい。
葵に、LINEを、送った。
美咲:「葵、ちょっと、聞いてもらいたいことが、いっぱいあって」
葵から、すぐに、返事が、来た。
葵:「美咲、こっち、来な。今夜、泊まっていきな」
葵:「美里も呼ぶ。3人で、話そう」
その夜、葵の部屋で、わたしと、葵と、美里、3人で、夜更けまで、話した。
ワインを開けて、チーズと、生ハムと、葵お手製のジェノベーゼのパスタ。
わたしは、自分の過去を、ぜんぶ、ふたりに、話した。
酒の力をすこし借りて、声を、絞り出した。
話しているあいだ、ふたりは、何度も、頷いてくれた。
「それはひどい」「それは加害者が悪い」「美咲、何も悪くない」って、何度も、言ってくれた。
わたしの過去のひとつひとつに、ふたりが、ちゃんと、新しい意味の重さを、与え直してくれた。
美里は、自分の過去の話を、すこし、足してくれた。
「わたしも、いっぱい、ある」
「お店の中だけじゃなくて、ふつうのプライベートの恋愛でも」
「当時の彼氏が、避妊を拒否した、とか」
「「愛してたら、ぜんぶ受け入れろ」って言われた、とか」
「酔って、ふつうにベッドに入ってきた、とか」
「そのたびに、わたしも、自分のせいにしてた」
「「自分が、ちゃんと「No」って言えなかったから」って」
「でも、25歳くらいから、わたしは、考え方を、変えたの」
「「No」を言うのは、わたしのスキルじゃなくて、相手に『Yes』を確認するのが、相手のスキルって」
「それまで、わたしの責任にされてきたものを、相手の責任に、戻した」
「それで、すこし、肩が、軽くなった」
葵が、頷いた。
「世界中の女の子たちが、「No」を言えなかった自分を、責めて生きてる」
「でも、本当は、相手が「Yes」を確認しなかったことが、問題なのに」
「FRIES原則の、Enthusiastic(積極的なYes)が、もっと、社会のスタンダードになるべき」
3人で、ワインのグラスを、合わせた。
「わたしたちは、これから、自分にも他人にも、ちゃんと、Yesを確認できる人で、いよう」
それが、その夜の、3人の合言葉に、なった。
3人で、過去のひとつひとつの夜を、いま、ちゃんと、もう一度、見直す作業を、わたしたちは、していた。
いまどき、女ふたり、男ひとりで居酒屋に行ったあとの帰り道、女のうちひとりが「ちょっと、彼の家、寄ってくね」と笑って手を振ったあと、もうひとりの女が、心配しながら帰る、みたいな夜が、たぶん、何百回も、東京で起きている。
それを、3人は、それぞれ、知っている。
そして、それを、もう、笑い話にしないで、ちゃんと、考える人たちで、ありたい。
そう、わたしたちは、決めた。
電車の中、わたしは、ずっと、考えていた。
家に帰ってから、健太に、長いLINEを、送った。
美咲:「今日のこと、健太に話しておきたい」
美咲:「会社で、ある後輩が、たぶん不同意の性行為の被害にあった」
美咲:「加害したのは、わたしの同期」
美咲:「いまふたりとも、それぞれ、別の場所で、それぞれの整理を、している」
美咲:「わたしたち、ちゃんと話し合ってきたつもりだけど、これからも、そういう話を、お互いにできる関係でいたい」
美咲:「お互いの『Yes』も『No』も、ちゃんと言える関係でいたい」
返事が、すぐ、来た。
健太:「うん、それを、俺もずっと思ってる」
健太:「俺たちは、お互いを、対等な人として見てる」
健太:「それが、いちばん大事だよ」
そのあと、健太は、もう一通、メッセージを、くれた。
健太:「美咲」
健太:「俺、自分の過去のなかにも、もしかしたら、相手にちゃんと『Yes』を確認できなかった瞬間が、あったかもしれない」
健太:「いまから、振り返って、考えてみる」
健太:「そして、これからは、絶対、ちゃんと、確認する」
わたしは、その文章を、読んで、ベッドのなかで、ぽろっと、涙を、一粒、落とした。
健太は、自分のことも、ちゃんと、振り返ってくれた。
それは、彼が、わたしと向き合うために、自分とも、向き合おうとしている証拠だった。
男の人が、自分の過去の関係を、ちゃんと振り返るって、いまの世間では、まだ、簡単じゃない。
「考えすぎ」「自意識過剰」「気にしすぎ」って、すぐに、世間が、刈り取りに来る。
でも、健太は、世間の声よりも、わたしとの関係を、選んでくれた。
それは、わたしには、すごく、ありがたかった。
翔太は、その後、会社を、退職した。
弁護士をつけて、沙織さんとの示談交渉に、入った、と、聞いた。
詳しいことは、わたしには、伝わってこない。
沙織さんは、3か月ほどの休職を経て、別の会社に、転職した。
カウンセリングは、その後も、継続している。
わたしには、月に一度くらい、簡単な近況報告のLINEが、届く。
沙織:「先日、はじめて、休日にちゃんと外食しました。それが、わたしのいまの『大事件』です」
そのメッセージを読んだとき、わたしは、自分のオフィスのデスクで、すこしだけ、泣いた。
世間の人にとっては、ふつうの、外食。
でも、沙織ちゃんにとっては、ぜんぶ、奪われた感覚を、ひとつずつ、取り戻している、その途中の、勝利。
そして、美里に、LINEを、送った。
美咲:「美里、沙織ちゃん、最近、外食できるようになったみたい」
美里:「よかった」
美里:「外食って、自分のからだを、ちゃんと喜ばせるってことだから」
美里:「沙織ちゃんが、自分のからだに、ちょっとずつ、戻ってきてる、ってこと」
美里:「そばにいてあげて」
美咲のひとり言
翔太のことで知ったコンセントの話。
美里が語ってくれた、夜のお店のコンセントのプロフェッショナリズム。
わたし自身が振り返った、過去の自分の境界線。
健太が振り返ってくれた、彼の過去。
性的同意は、ひとつの瞬間の話じゃない。
わたしたちが、誰かと、どう関わるか、ぜんぶに繋がっている話。
「No」を言うことが、わたしの責任じゃなくて、
「Yes」を確認するのが、相手の責任。
それを、社会が、ちゃんと、共有しなきゃいけない。
そして、わたしは、美里を「夜の世界の人」として遠ざけずに、コンセントの先生として、心の底から、尊敬している。
夜の世界は、わたしたちが、目を背けるべき場所じゃない。
むしろ、わたしたちが、コンセントを学ぶための、ひとつの教科書かもしれない。
それを、お互いに認め合って、社会全体で、変わっていく。
それが、これからの、性的同意のかたちだと思う。
そして、いちばん大事な気づき。
沙織ちゃんを思ったときに、わたしの心臓のあたりに、確かに湧いた、怒り。
その怒りを、ちゃんと、自分のなかに、保管しておきたい。
怒りは、悪いものじゃない。
怒りは、世界を、すこし、よくするための、エネルギー。
ただ、SNSで燃やすんじゃなくて、葵や美里と、ちゃんと、話して、ことばに変えていく、その時間が、必要なだけ。
まとめメモ:性的同意と2023年改正刑法
2023年7月13日施行の改正刑法
- 不同意性交等罪(旧・強制性交等罪/準強制性交等罪を統合)
- 法定刑:5年以上の有期拘禁刑
- 不同意わいせつ罪
- 法定刑:6か月以上10年以下の拘禁刑
- 性交同意年齢:13歳→16歳に引き上げ
- 16歳未満への面会要求等罪:グルーミング処罰
- 性的姿態撮影等処罰法:撮影罪
- 公訴時効:性交等罪10年→15年、わいせつ罪7年→12年。被害時18歳未満は18歳までを加算
同意がないとされる8類型
1. 暴行・脅迫 2. 心身障害 3. アルコール・薬物 4. 意識不明瞭
5. 不意打ち 6. 恐怖驚愕 7. 虐待の心理反応 8. 立場の影響力
同意のFRIES原則
自由意思/撤回可能/理解の上で/積極的に/個別に
大切な反転
- 「No」を言うのは、わたしの責任ではなく
- 「Yes」を確認するのが、相手の責任
デートDVのサイン
- 行動制限/暴言/嫉妬を「愛情」と言う/パスワード強要
- 性行為強要/避妊拒否/撮影強要
- 別れをちらつかせる/「お前のため」発言
相談窓口
- ワンストップ支援センター:#8891(24時間対応の地域あり)
- 性犯罪被害相談電話:#8103
- DV相談ナビ:#8008
- DV相談プラス:0120-279-889(24時間)
- 若年女性向け:BOND、Colabo、若草プロジェクト
- 男性のDV被害:男性のためのDV相談窓口(自治体/NPO)
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