第5話|「もしも」の二つの選択



雨の日曜日だった。

朝から、東京には、柔らかい雨が、降り続いていた。

アスファルトの匂いが、いつもより、ちょっと、近く、立ちのぼっている。

そういう日は、誰かと、ふたりで、何もせずに、過ごすのが、いちばんいい

葵の部屋は、中目黒のマンションの3階にある。

1LDKで、看護師の彼女らしく、整然と、片付いた部屋。

観葉植物のフィカス・ベンガレンシスが、リビングの隅で、やたらと元気に、育っている。

葵の植物への愛情と、患者さんへの愛情は、たぶん、根が、おなじだ

その日、わたしは、葵の家に泊まり込みのつもりで、来ていた。

スーパーで買ってきた肉と、野菜と、ビールを6本。

冷蔵庫にしまって、ふたりで、床に座って、テーブルのうえで、麻婆豆腐を、作っていた。

葵が、ねぎをひっくり返しながら、ぽつりと、聞いた。

「美咲、最近、なんか、考え込んでない?」

「えっ」

LINE短いし、スタンプの使い方、ちょっと、雑になってる

そういうとこを、葵は、ちゃんと、見ている。

LINEのスタンプの選び方の繊細さで、人の調子をはかるって、すごく、現代的な観察眼だな、と思う。

わたしは、しばらく、何から話そうか、迷ってから、言った。

最近さ、ふたつの妊娠の話を、近い時期に聞いたんだよね」

葵は、フライパンの蓋を開けて、すこしずつ、味見をしながら、こちらを、振り返った。

「ふたつ?」

「うん。リサが、体外受精を始めたって話と、もうひとつは──」

わたしは、ためらってから、続けた。

会社の後輩のあかりちゃんが、妊娠中絶を決めた話」

葵は、火を、止めた。

鍋のなかで、麻婆豆腐が、ふつふつと、音を、立てていた。

「ふぅん」

妊娠したい人と、いま妊娠を続けられない人が、同じ時期に近くにいるって、なんか、すごく、不思議だなと、思って」

わたし、自分のなかで、ふたりを、別の場所に置いてた

「子どもがほしい人」と「子どもを産まない選択をした人」

ふたりが、同じ社会のなかにいる、と、ちゃんと、繋げて、考えるのが、なんとなく、怖かった

葵は、フライパンから麻婆豆腐をボウルに移しながら、言った。

それは別に矛盾してないんだよ、美咲

「うん?」

自分の人生をどう生きるかを、自分で決めるっていう、同じ話

でも、世間的には、なんか、違う扱いされる気がするんだよね」と、わたしは、言った。

そう、それが問題

葵は、麻婆豆腐をテーブルに置いて、ご飯をふたつのお茶碗によそいながら、続けた。

「子どもがほしい人」は、ガンバレって応援される

「子どもを産まない選択をした人」は、こっそり、語られる

でも、両方とも、自分のからだの選択をしてるってだけなんだよ」

それを、世間が、両方を、同じ重さで、認めてあげない

だから、リサも、あかりちゃんも、それぞれ、ちょっとずつ、傷つきながら、選んでる

わたしは、頷いた。

ふたりを別の場所に置いていたわたしも、世間と、同じことをしていたかもしれない。

ふたりの選択は、同じ重さで、同じ尊厳で、語られていい

そう、葵に言ってもらって、はじめて、わたしは、すこし、ほっとした。

「正解を判定する人」じゃなくて、「両方のかなしみと、両方のよろこびに、ちゃんと敬意を払える人」になりたい、と、思った。

雨の音が、窓ガラスのうえで、ずっと、ざあ、と、響いていた。



リサは、結婚2年目から、妊活を始めて、半年経っても、妊娠しなかった。

タイミング法を3周期、人工授精を2回

そして、ブライダルチェックで、過去のクラミジアと、卵管癒着の可能性が、見つかった。

5月のある夜、わたしはリサと、表参道の和食居酒屋で、もういちど、彼女の話を、聞いた。

すこし大人な、隠れ家風の、カウンターメインの店。

お通しの大根の煮物が、いつもより、しっとり、味が、染みていた。

「夫婦ふたりで、本格的に、検査してもらったらね」と、リサは、言った。

わたしは、多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)で、排卵が不規則

「あと、過去のクラミジアの影響かは断定できないけど、片方の卵管が、癒着気味、って、言われた」

「夫さんは?」

精子の運動率が、ちょっと低めの境界値

「だけど、自然妊娠が無理ってわけじゃない、って」

両方、ある原因不明寄りって感じ」

リサは、生ビールを、ひとくち、飲んでから、続けた。

「で、決めたのが、体外受精(IVF)

「うん」

2022年から保険適用になったから、自費で何百万って時代より、楽になったんだよね」

3割負担で、年齢と回数の制限は、あるけど」

40歳未満は、通算6回まで、40〜43歳は3回までだっけ」と、わたしは、記憶を辿りながら、言った。

「うん、よく覚えてるね、美咲」

「葵が、言ってた」

「あー、なるほど」

リサは、ちょっと、笑ってから、ふっと、声を、落とした。

治療と仕事の両立、まじで、しんどい

「だよね……」

採卵前は、毎日、通院で、注射と、エコー」

仕事休む口実も、限界が、来る

「だから会社の不妊治療休暇って制度、本当にありがたい

「リサのところ、ちゃんと、あるんだ」

「ある。3年前、わたしが入社したとき、社労士の先輩が、制度作ったらしい」

先輩、めっちゃ尊敬する

リサは、しばらく、天井を見上げてから、視線を、戻した。

「美咲、わたしね」

「うん」

1回目の採卵、うまくいかなかった

リサの目に、ふっと、水が、溜まった。

4個取れて、3個受精して、1個だけ胚盤胞まで育って、それを移植して、ダメだった

「リサ……」

最初に医師に言われたの

リサは、涙を拭きながら、言った。

不妊治療は『うまくいかない期間』の方が長い、って

期待と落胆を繰り返すから、メンタルが、削れる、って

みんな、乗り越えてる、の?

「乗り越えてるっていうか、乗り越えながら、ちゃんと泣ける場所を、作ってるって感じ」

「わたしは、夫と、葵と、美咲が、それだから」

わたしは、リサの手の上に、自分の手を、そっと、置いた。

「いつでも、泣いていいよ」

「うん。だから、いま、すこし、泣いてる」

リサは、ほんとうに、すこしだけ、泣いた。

それは、決壊するような泣き方ではなくて、ちゃんとしまっておくべき悲しみを、決まった分だけ、きれいに出している、そんな泣き方だった。

でね、美咲」とリサは、続けた。

「うん」

わたし、ある日、夫に、「もし、ずっと、子どもができなかったら、わたしのこと、嫌いになる?」って聞いたの

夫が、なんて答えたと思う?

何て?

「俺は、リサと、子どもがほしいんじゃなくて、リサと、結婚したんだよ」って」

そのあと、「もし子どもがいない人生になっても、それは、別の楽しい人生だよ」って」

リサは、また、涙を、すこしだけ、こぼした。

わたし、そのときに、ようやく、肩の力が、抜けた

夫は、わたしのおなかに、価値を置いてるんじゃなくて、わたし自身に、価値を置いてくれてる

そのことが、いまの治療を、続けられる、いちばんの理由

わたしは、リサの手を、もう一度、握った。

胸が、すこし、苦しかった

それは、悲しさじゃなくて、リサを、リサとして、ちゃんと、見てくれている人がいる、という事実への、深い感動だった

世間で、「子ども」が、夫婦の関係を、左右しすぎる場面って、まだまだ、ある

結婚式のスピーチで「早く子どもを」と当たり前のように言われる、お正月に親戚から「孫はまだ?」と聞かれる、職場で「結婚したんだから、次は子どもだね」と冗談まじりに言われる

そういう、無数の、外側からのプレッシャーが、夫婦のあいだの「ふたり」を、すこしずつ、削っていく

リサのご主人の言葉は、その削りに、抗う、ひとつの、岩のような言葉だった。



会社で、わたしの2つ下の後輩、あかり。22歳。

営業部にいた頃から、知っていて、いまは、別チームに移ったけれど、月に1〜2回、ランチを、一緒に、する。

ある火曜日、彼女に「先輩、ちょっと、内緒の話、してもいいですか」と、社内のカフェスペースで、呼び止められた。

カフェスペースは、ガラス張りの会議室の手前にある、ベンチ風のソファが並んだスペース。

コーヒーマシンの稼働音が、ずっと、がーっと、響いている。

あかりは、ホットココアを、両手で、抱えていた。

彼女の手のあたたまり方が、ふだんと、ぜんぜん、違って見えた

寒いのに、抱きしめている、というより、何かを、ぎゅっと、自分のなかに、封じ込めているような、そんな、抱き方だった。

「先輩、わたし、妊娠してました

「……」

8週でした。おとといクリニックに行って

わたしは、何も、言葉を選ばずに、ただ、聞いた。

こういうとき、相手より先に、こちらの感情の波が来てしまうのは、いちばん、よくない

わたしは、ぐっと、自分の心臓を、まず、静かにさせた

「彼氏とは、もう、連絡取ってない」

産むという選択は、いまのわたしには、できないって、思った」

「うん」

経口中絶薬ってのを使うことに、した」

メフィーゴパックって薬。2023年4月に承認されて、妊娠9週までならお薬で中絶できるやつ。お腹の手術じゃなくて

わたしは、それを、知識としてしか、知らなかった。

「あかり、知ってたんだ」

「ううん、おとといのクリニックで、お医者さんから説明された

それで、手術と薬、両方の説明を受けて、自分で選んだ

ココアの湯気が、彼女の顔の前で、ぼうっと、揺れていた。

「あのね、先輩」

「うん」

わたし、最初、彼氏に連絡しようかと、思ったの

「うん」

でもね、最後の連絡から、2か月、何も、返事が、なくて

わたし、彼氏が、わたしのいなくなった人生を、もう、選び始めてるって、わかった

そのとき、わたしは、自分のおなかに、ひとりで、向き合うって、決めた

あかりは、ココアを、ひとくち、飲んでから、続けた。

それを決めたら、なんか、不思議と、すこし、強くなれた

ひとりで決めたから、ひとりで、ぜんぶ、引き受ける

それは、寂しいことだけど、ちゃんと、自分の人生だ、って感じ

わたしは、しばらく、彼女の顔を、見た。

22歳の彼女が、ひとりで、自分のおなかに、向き合う、という選択をした

それは、すごく、すごく、孤独な選択だった

でも、彼女は、その孤独を、自分のものとして、ちゃんと、選んでいた

いまどき、22歳って、まだ、自分の意見を、ぜんぶ自分の言葉で持つには、若い

SNSのフィードに流れる、誰かの正解、誰かの怒り、誰かの優しさ、ぜんぶが、自分の声を、上書きしてくる

そのなかで、あかりは、自分の声を、ちゃんと、握っていた

それは、22歳とか、何歳とか、関係なく、ひとつの、強さ、だった



メフィーゴパックは、こんな薬だった。

あかりが、診察で受け取った資料を、後日、わたしに、見せてくれた。

メフィーゴパックの仕組み

1. 1日目:クリニックでミフェプリストンを1錠服用(妊娠の継続を止める薬)

2. 36〜48時間後ミソプロストール4錠を頬と歯茎の間に挟んで、30分かけて溶かす(子宮の収縮を促す薬)

3. 数時間後:腹痛・出血が始まり、内容物が排出される

4. 2週間後:受診して完了確認

成功率は約93%。残り7%は手術での処置が必要になる。

1年経ってもまだ全中絶の1%しか、使われてないって」と、あかりは、言った。

導入してる病院がまだ少なくて、入院してる必要があるところとそうじゃないところが、分かれてる

価格は手術と同じくらい、10万円前後

「あかり、ちゃんと、選べたの?」

「うん」と、あかりは、小さく、頷いた。

手術は確実だけど、麻酔が、怖くて

薬は、痛みが続くけど、自然に近い

わたしには、自然に近い方が、心の整理が、つく気が、した

「彼氏には?」

未婚だから、配偶者の同意は、不要

わたしの意思だけで、決まる

あかりは、カップを両手で握りしめながら、続けた。

痛みは、生理痛のひどいやつくらいって、事前に、聞いてた」

実際は、それより、強かった

あと、思ったより、出血が、多くて、不安に、なった

でも、入院してて、看護師さんがいたから、なんとか、乗り越えた

わたしは、相槌を、打つしか、なかった。

「あのね」と、あかりは、ゆっくりと、言った。

「うん」

罪悪感が、ないわけじゃないんです」

「うん」

なくはないんですけど、でも、産んだとして、ちゃんと育てられない自信のなさの方が、強かった

「うん」

選んだことは、後悔してない

あかりは、カップに残った最後のひとくちを、飲んでから、言った。

選べた自分を、ちゃんと、許してあげたいんです」

わたしは、ティッシュを、自分のためにも、ひとつ、取った。

「許してあげたい」って、ふだんの会話で、22歳の女の子から、出てくる言葉じゃない。

でも、あかりは、ちゃんと、その言葉を、自分の口で、出してきた

それは、彼女が、おとといから今日までの、48時間で、人生何年分かを、生きた、という、しるしだった。



その夜、わたしは、葵に、電話して、リサとあかりの話を、両方、もう一度、聞いてもらった。

葵は、しばらく、考えてから、言った。

「美咲、これは、わたしじゃなくて、美里に、聞いてほしい話、かも

「うん?」

美里、わたしより、もうちょっと別の角度で、この話、語れる人だと思う

美里に、お茶誘ってみたら?

わたしは、ちょっと迷ったけど、葵が薦めてくれるなら、と、美里に、LINEを、送った。

美咲:「美里、お時間あったら、お茶しませんか」

美咲:「ちょっと、聞いてもらいたい話があって

美里からは、すぐに、返事が、来た。

美里:「もちろん。今週木曜の昼、空いてる



木曜の昼、新宿御苑近くの、静かなカフェ。

美里と、ふたりで、昼下がりのお茶を、した。

平日の昼間に、ふつうの女ふたりで、カフェに座る、っていう時間は、いまの東京では、けっこう、贅沢だ。

美里は、お店のシフトが、夜だから、平日の昼に、空いている

わたしは、ちょうど、有休消化のタイミングだった

お店は、ガラス張りで、外の街路樹の、新芽の、薄い緑色が、店内に、さらさらと、流れ込んでくる感じだった。

わたしは、美里に、リサの話と、あかりの話を、ぜんぶ、した。

美里は、しばらく、紅茶のカップを、両手で包みながら、聞いていた。

そして、一拍、置いてから、ぽつりと、こう、言った。

美咲ちゃん

「うん」

実は、わたしも、5年前に、中絶してる

わたしは、しばらく、声が、出なかった。

美里は、淡々と、続けた。

当時22歳。お店で出会ったお客さんとの子

結婚なんて、ぜんぜん、考えられない関係だった

そのときのわたしは、ちょうど、いまの仕事を始めて1年くらいで、まだ、自分のからだのことも、避妊のことも、ちゃんと、わかってなくて

コンドームつけてくれない常連さんが、いて

わたしは、そのときの自分のお金の事情で、お客さんに、強く、言えなくて

それで、できた

美里の目は、テーブルのうえの紅茶のカップを、見ていた。

カップの縁を、ゆっくり、人差し指で、なぞっていた

思い出を語るときの、無意識の、慣れた仕草だった。

手術を受けに行った日、わたし、ひとりで、新宿の婦人科のドアを、押した

待合室に、誰も、わたしを心配する人は、いなかった

お母さんには言えなかった、お店の同僚にも言えなかった、お客さんは、もちろん、知ってもいない

わたしは、ぜんぶ、ひとりで、決めて、ひとりで、終わった

麻酔から目覚めて、看護師さんが「お疲れさまでした」って言ってくれたとき、わたし、なぜか、すごく泣いた

「お疲れさま」って、その日の朝から、誰にも、言ってもらえなかったから

たったその一言が、わたしの、ぜんぶ、を、解いてくれた

わたしは、涙が、ぼろぼろ、止まらなかった。

美里の22歳の朝を、わたしは、想像した。

**新宿のクリニックのドア。

誰にも知られない、22歳のひとりの女性。

彼女のおなかと、彼女の決断。**

いまどき、SNSは、つねに「誰かと繋がっている」感覚を、わたしたちに与える

でも、ほんとうに大切な瞬間は、ぜんぶ、ひとり

美里の22歳の朝も、そのひとつだった



「美里」

「うん?」

話してくれて、ありがとう

「ううん」と、美里は、笑った。

もう、そんな前のことだから、けっこう、話せる

でもね、美咲ちゃん

「うん」

わたしね、あの経験を、後悔してない

あのときのわたしには、あの選択しか、なかった

そして、あのときのわたしを、いまのわたしは、ちゃんと、抱きしめてあげたい

だから、わたし、いま、お店の後輩に、避妊と検査の話、めっちゃ、する

「美里さん、しつこい」って、言われるくらい

でも、わたしは、後輩に、わたしと同じ朝を、ひとりで迎えてほしくない

美里は、紅茶を、ひとくち、飲んだ。

美咲ちゃんが今日話してくれた、リサさんと、あかりさん

ふたりとも、ちゃんと、自分の選択を、自分の足で立ってる

わたしの22歳と、似てて、違う

でも、共通してるのは、「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」が、みんなにある、ってこと

その瞬間に、誰かが、隣にいてあげられたらって、わたしは、いつも、思ってる

ね、美咲ちゃん

「うん」

美咲ちゃんは、あかりさんの隣に、いた

わたしの、22歳のときに、いてほしかった人を、あかりさんは、もうちゃんと、見つけられてた

それは、すごく、すごく、嬉しいことなの

わたしの涙が、また、ぼろぼろ、落ちた。

美里の22歳のひとりの朝が、わたしの、いまの隣にあるあかりちゃんの選択に、繋がっている

性は、世代と職業と立場を超えて、確実に、繋がっている

わたしたちは、目を背けず、ちゃんと、それを、お互いに、渡しあえる

美里

「うん」

わたし、あなたみたいな先輩がいて、すごく、嬉しい

美里は、ふっと、笑った。

今度、リサさんとも、あかりさんとも、いつか、お茶できたらいいね

わたしたち、職業も状況もぜんぜん違うけど、たぶん、同じ言葉で、笑える

カフェの窓のそとで、街路樹の新芽が、初夏の風に、すこし、揺れた。

雨が、また、ぱらぱらっと、降り始めていた

雨のなかで、わたしは、見ず知らずだった、5年前の22歳の美里を、心のなかで、ぎゅっと、抱きしめた



それから3か月後。

リサは、2回目の体外受精で、妊娠した

すごく嬉しい報告だったけれど、安定期に入るまでは、慎重に、と、本人は、言っていた。

LINEのスタンプも、いつもの陽気な絵柄じゃなくて、ちょっと控えめな、ハートが小さく揺れているくらいのものだった。

喜びを、まだ全部、使ってしまわないで、慎重にしまっている、そんなリサの心の動きが、スタンプの選び方からも、伝わってきた。

リサ:「お祝いは、安定期に入ったら、改めてしてね

美咲:「もちろん」

美咲:「それまでは、ふつうに、ご飯にいこ

リサ:「ありがとう」

SNSで、妊娠を、すぐに大々的に発表する人もいる

わたしは、どちらの選び方も、その人の自由だと思う

でも、リサのこの、控えめなスタンプの揺れの大きさは、わたしには、すごく、響いた



あかりは、会社を、辞めて、地元の、岐阜に、帰ることに、した。

しばらく、自分のペースで、生きたい」と。

最終出社日、定時のあと、わたしは、彼女と、会社近くのいつものカフェで、コーヒーを、飲んだ。

あかりは、すっかり、痩せていて、でも、目の表情は、3か月前より、はるかに、落ち着いていた。

「先輩、ありがとうございました」

「ううん。元気でね」

今回のこと、ちゃんと自分で決めたから、これから前を向ける気がします

「うん」

いつか、もしも、わたしが本当に子どもがほしいって思える時が来たら、そのときは、ちゃんとそれを選びたい

「うん」

そのときに、選べる自分でいたい

わたしは、頷くしかなかった。

カフェの窓のそとを、夕方の人波が、流れていく。

会社員の波、学生の波、観光客の波

そのなかから、ひとりだけ、岐阜に帰っていく、あかりの背中

あかりの背中越しに、信号が、青に、変わるのが、見えた。

「あかり、また、東京に来ることがあったら、連絡して」

「はい、絶対」

最後に、わたしたちは、ふつうの、ハグを、して、別れた。

そのあと、わたしは、美里に、LINEを、送った。

美咲:「あかりちゃん、地元に帰る前に、最後のお茶した

美咲:「「ちゃんと自分で決めたから、これから前を向ける」って言ってた

美咲:「美里と、似てた

美里:「うん。同じ言葉で笑える、って、こういうことだね

美里:「わたしたちは、みんな、自分のからだの選択を、自分でしてきた人たち

美里:「それが、いま、繋がっている



その夜、わたしは、自分の家で、ベッドに、転がって、天井を、見上げていた。

3人の女性の選択が、わたしのなかで、並んで、見えた。

産むことを選び、それでも何度も泣いてきたリサ

産まないことを選び、それでも何度も泣いてきたあかり

5年前に産まないことを選び、いま、後輩を守ることを選んでいる美里

ぜんぶ、自分の人生を、自分で選んだ女性たち

そして、わたし

わたしは、まだ、そういう大きな選択をする立場には、ない。

でも、いつか、その瞬間が、来たとき──。

わたしは、彼女たちのことを、思い出す

ひとりで決めなきゃいけない瞬間に、ひとりじゃなかった人たちのことを

そして、ひとりで決めなきゃいけない瞬間に、ひとりだった、美里の22歳のことを

わたしは、ひとりじゃない。

だから、いつか、誰かのために、ひとりじゃない人になりたい

ベッドの脇のスマホが光って、健太からのLINEが、届いた。

健太:「明日のごはん、何食べたい?」

わたしは、ちょっと、笑った。

美咲:「スパゲッティ

美咲:「ボロネーゼ

美咲:「いっぱい

健太:「了解」

ふつうのLINE。

ふつうの夜。

でも、わたしの世界は、確実に、広がっていた

結婚した女性、未婚の若い女性、夜の街で生きる女性、それぞれの選択が、わたしの胸の中で、ひとつの絵に、なっていた。

スマホを置いて、わたしは、目を、閉じた。

明日も、わたしは、自分の体を、自分の心を、ちゃんと持って、生きていく

そして、いつか、誰かの隣に、ちゃんと、いてあげられる人になれたらいい

ベッドのなかで、わたしは、自分のおなかに、片手を、当てた

いま、ここに、何もいない

でも、いつか、何かを宿す日が来るかもしれないし、来ないかもしれない

どちらの未来も、わたしのものだ

それを、ちゃんと、自分で、決められる人で、いたい


目次

美咲のひとり言

リサと、あかりと、美里。

それぞれ、ぜんぶ、ぜんぜん、違う人生。

でも、3人とも、「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」を、ちゃんと、生きてきた人たち。

美里が、22歳の朝、新宿のクリニックの前で、ひとりだったこと

それを聞いたとき、わたしは、初めて、「性のことを目を背けない」ということの意味が、すこし、わかった気がした。

目を背けると、その人を、その朝の孤独に、置き去りにすることになる

目を見て、話を聞いて、ちゃんと知ろうとすることが、たぶん、わたしにできる、いちばんのことだ。

性のことは、知識だけじゃ、足りない

そこに、誰かの孤独が、誰かの選択が、誰かの生き方が、ぜんぶ、ある

それを、ちゃんと、感じる人で、いたい。

そして、世間が、リサを「がんばれ」、あかりを「こっそり語る」と、別の場所に置こうとしても、わたしのなかでは、ふたりは、同じ重さで、同じ場所に、ちゃんと、置かれている。

世間と違う場所に、自分の心の地図を、ちゃんと、もちたい


まとめメモ:妊娠・出産・中絶

妊娠の仕組み

  • 排卵後24時間以内に卵子と精子が出会えば受精
  • 精子は女性の体内で3〜5日生存
  • 受精から着床まで7〜10日
  • 妊娠週数は最終月経の開始日を0週0日として数える

不妊治療(2022年から保険適用拡大)

  • タイミング法→人工授精→体外受精→顕微授精のステップ
  • 40歳未満は通算6回40〜43歳は3回まで保険適用
  • 心理的負担も大きい。会社の不妊治療休暇などの活用も

中絶(人工妊娠中絶)

  • 母体保護法に基づく合法的な医療行為
  • 妊娠22週未満まで可能
  • 配偶者同意が原則必要だが未婚・DV被害は不要
  • メフィーゴパック(経口中絶薬):2023年4月承認、9週まで対応
  • 費用は10〜20万円程度(自費)
  • 早いほど身体的負担が少ない

リプロダクティブ・ヘルス/ライツ

  • 自分の身体・性・生殖について自分で決める権利
  • 産むのも、産まないのも、両方が国際的に認められた人権

大切なこと

  • 「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」に、ひとりじゃなかったことが、後の人生の支えになる
  • どの選択も、責められるべきものじゃない
  • 「お疲れさま」の一言が、誰かの世界を救うことがある

相談窓口

  • にんしんSOS:望まない妊娠の相談(各都道府県、24時間対応の地域あり)
  • 不妊専門相談センター:厚労省事業(全国)
  • 女性健康支援センター:各都道府県
  • 流産・死産経験者支援:ポコズママの会、天使の保護者ルカの会など
  • 特定妊婦・若年妊娠:要保護児童対策地域協議会、子ども家庭センター

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第5話|「もしも」の二つの選択



雨の日曜日だった。

朝から東京には柔らかい雨が降り続いていた。

杏の部屋は中目黒のマンションの3階にある。1LDKで看護師の彼女らしく整然と片付いた部屋。観葉植物のフィカス・ベンガレンシスがリビングの隅でやたらと元気に育っている。

その日わたしは杏の家に泊まり込みのつもりで来ていた。スーパーで買ってきた肉と野菜とビールを6本。ふたりで床に座ってテーブルのうえで麻婆豆腐を作っていた。

杏がねぎをひっくり返しながらぽつりと聞いた。

「萌、最近なんか考え込んでない?」

「えっ」

「LINE短いし、スタンプの使い方ちょっと雑になってる」

そういうとこを杏はちゃんと見ている。

わたしはしばらく何から話そうか迷ってから言った。

「最近さ、ふたつの妊娠の話を近い時期に聞いたんだよね」

杏はフライパンの蓋を開けてすこしずつ味見をしながらこちらを振り返った。

「ふたつ?」

「うん。リサが体外受精を始めたって話と、もうひとつは──」

わたしはためらってから続けた。

「会社の後輩のあかりちゃんが妊娠中絶を決めた話」

杏は火を止めた。

「ふぅん」

「妊娠したい人と、いま妊娠を続けられない人が、同じ時期に近くにいるって、なんかすごく不思議だなと思って」

「わたし自分のなかでふたりを別の場所に置いてた」

「『子どもがほしい人』と『子どもを産まない選択をした人』」

「ふたりが同じ社会のなかにいるとちゃんと繋げて考えるのが、なんとなく怖かった」

杏はフライパンから麻婆豆腐をボウルに移しながら言った。

「それは別に矛盾してないんだよ萌」

「うん?」

「自分の人生をどう生きるかを自分で決めるっていう同じ話」

「でも世間的にはなんか違う扱いされる気がするんだよね」とわたしは言った。

「そう、それが問題」

杏は麻婆豆腐をテーブルに置いてご飯をよそいながら続けた。

「『子どもがほしい人』はガンバレって応援される」

「『子どもを産まない選択をした人』はこっそり語られる」

「でも両方とも自分のからだの選択をしてるってだけなんだよ」

「それを世間が両方を同じ重さで認めてあげない」

「だからリサもあかりちゃんもそれぞれちょっとずつ傷つきながら選んでる」

わたしは頷いた。ふたりを別の場所に置いていたわたしも世間と同じことをしていたかもしれない。ふたりの選択は同じ重さで同じ尊厳で語られていい。



リサは結婚2年目から妊活を始めて半年経っても妊娠しなかった。タイミング法を3周期、人工授精を2回。そしてブライダルチェックで過去のクラミジアと卵管癒着の可能性が見つかった。

5月のある夜、わたしはリサと表参道の和食居酒屋でもういちど彼女の話を聞いた。

「夫婦ふたりで本格的に検査してもらったらね」とリサは言った。

「わたしは多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)で排卵が不規則」

「あと過去のクラミジアの影響かは断定できないけど、片方の卵管が癒着気味って言われた」

「夫さんは?」

「精子の運動率がちょっと低めの境界値」

「だけど自然妊娠が無理ってわけじゃないって」

「両方ある原因不明寄りって感じ」

リサは生ビールをひとくち飲んでから続けた。

「で、決めたのが体外受精(IVF)」

「うん」

「2022年から保険適用になったから、自費で何百万って時代より楽になったんだよね」

「3割負担で年齢と回数の制限はあるけど」

「40歳未満は通算6回まで、40〜43歳は3回まで だっけ」

「うん、よく覚えてるね萌」

「杏が言ってた」

リサはちょっと笑ってからふっと声を落とした。

「治療と仕事の両立、まじでしんどい」

「だよね……」

「採卵前は毎日通院で、注射とエコー。仕事休む口実も限界が来る」

「だから会社の不妊治療休暇って制度、本当にありがたい」

リサはしばらく天井を見上げてから視線を戻した。

「萌、わたしね」

「うん」

「1回目の採卵、うまくいかなかった」

リサの目にふっと水が溜まった。

「4個取れて、3個受精して、1個だけ胚盤胞まで育って、それを移植してダメだった」

「リサ……」

「最初に医師に言われたの」

リサは涙を拭きながら言った。

「不妊治療は『うまくいかない期間』の方が長いって」

「期待と落胆を繰り返すからメンタルが削れるって」

「みんな乗り越えてるの?」

「乗り越えてるっていうか、乗り越えながらちゃんと泣ける場所を作ってるって感じ」

「わたしは夫と杏と萌がそれだから」

わたしはリサの手の上に自分の手をそっと置いた。

「いつでも泣いていいよ」

「うん。だからいますこし泣いてる」

「でね萌」とリサは続けた。

「うん」

「わたしある日夫に、『もしずっと子どもができなかったら、わたしのこと嫌いになる?』って聞いたの」

「夫がなんて答えたと思う?」

「何て?」

「『俺はリサと子どもがほしいんじゃなくて、リサと結婚したんだよ』って」

「そのあと、『もし子どもがいない人生になっても、それは別の楽しい人生だよ』って」

リサはまた涙をすこしだけこぼした。

「わたしそのときにようやく肩の力が抜けた」

「夫はわたしのおなかに価値を置いてるんじゃなくて、わたし自身に価値を置いてくれてる」

「そのことがいまの治療を続けられるいちばんの理由」

わたしはリサの手をもう一度握った。



会社でわたしの2つ下の後輩、あかり。22歳。営業部にいた頃から知っていて、いまは別チームに移ったけれど月に1〜2回ランチを一緒にする。

ある火曜日、彼女に「先輩、ちょっと内緒の話してもいいですか」と社内のカフェスペースで呼び止められた。

あかりはホットココアを両手で抱えていた。

「先輩、わたし妊娠してました」

「……」

「8週でした。おとといクリニックに行って」

わたしは何も言葉を選ばずにただ聞いた。こういうとき相手より先にこちらの感情の波が来てしまうのはいちばんよくない。

「彼氏とはもう連絡取ってない」

「産むという選択はいまのわたしにはできないって思った」

「うん」

「経口中絶薬ってのを使うことにした」

「メフィーゴパックって薬。2023年4月に承認されて、妊娠9週までならお薬で中絶できるやつ。お腹の手術じゃなくて」

「あかり、知ってたんだ」

「ううん、おとといのクリニックでお医者さんから説明された」

「それで手術と薬、両方の説明を受けて自分で選んだ」

「あのね先輩」

「うん」

「わたし最初彼氏に連絡しようかと思ったの」

「うん」

「でもね最後の連絡から2か月何も返事がなくて」

「わたし彼氏がわたしのいなくなった人生をもう選び始めてるってわかった」

「そのときわたしは自分のおなかにひとりで向き合うって決めた」

あかりはココアをひとくち飲んでから続けた。

「それを決めたらなんか不思議とすこし強くなれた」

「ひとりで決めたからひとりでぜんぶ引き受ける」

「それは寂しいことだけど、ちゃんと自分の人生だって感じ」

22歳の彼女がひとりで自分のおなかに向き合うという選択をした。すごく孤独な選択だった。でも彼女はその孤独を自分のものとしてちゃんと選んでいた。



メフィーゴパックはこんな薬だった。あかりが診察で受け取った資料を後日わたしに見せてくれた。

メフィーゴパックの仕組み

1. 1日目:クリニックでミフェプリストンを1錠服用(妊娠の継続を止める薬)

2. 36〜48時間後ミソプロストール4錠を頬と歯茎の間に挟んで30分かけて溶かす(子宮の収縮を促す薬)

3. 数時間後:腹痛・出血が始まり内容物が排出される

4. 2週間後:受診して完了確認

成功率は約93%。残り7%は手術での処置が必要になる。

「1年経ってもまだ全中絶の1%しか使われてないって」とあかりは言った。

「導入してる病院がまだ少なくて、入院してる必要があるところとそうじゃないところが分かれてる」

「価格は手術と同じくらい、10万円前後」

「あかり、ちゃんと選べたの?」

「うん」とあかりは小さく頷いた。

「手術は確実だけど麻酔が怖くて」

「薬は痛みが続くけど自然に近い」

「わたしには自然に近い方が心の整理がつく気がした」

「彼氏には?」

「未婚だから配偶者の同意は不要。わたしの意思だけで決まる」

あかりはカップを両手で握りしめながら続けた。

「痛みは生理痛のひどいやつくらいって事前に聞いてた」

「実際はそれより強かった」

「あと思ったより出血が多くて不安になった」

「でも入院してて看護師さんがいたからなんとか乗り越えた」

「あのね」とあかりはゆっくりと言った。

「うん」

「罪悪感がないわけじゃないんです」

「うん」

「なくはないんですけど、でも産んだとしてちゃんと育てられない自信のなさの方が強かった」

「うん」

「選んだことは後悔してない」

あかりはカップに残った最後のひとくちを飲んでから言った。

「選べた自分をちゃんと許してあげたいんです」



その夜わたしは杏に電話してリサとあかりの話を両方もう一度聞いてもらった。

杏はしばらく考えてから言った。

「萌、これはわたしじゃなくて美里に聞いてほしい話かも」

「うん?」

「美里、わたしよりもうちょっと別の角度でこの話語れる人だと思う」

わたしはちょっと迷ったけど杏が薦めてくれるならと美里にLINEを送った。

:「美里、お時間あったらお茶しませんか」

:「ちょっと聞いてもらいたい話があって」

美里からはすぐに返事が来た。

美里:「もちろん。今週木曜の昼、空いてる」



木曜の昼、新宿御苑近くの静かなカフェ。美里とふたりで昼下がりのお茶をした。

わたしはリサの話とあかりの話をぜんぶした。

美里はしばらく紅茶のカップを両手で包みながら聞いていた。

そして一拍置いてからぽつりと言った。

「萌ちゃん」

「うん」

「実はわたしも5年前に中絶してる」

わたしはしばらく声が出なかった。

美里は淡々と続けた。

「当時22歳。お店で出会ったお客さんとの子」

「結婚なんてぜんぜん考えられない関係だった」

「そのときのわたしはちょうどいまの仕事を始めて1年くらいで、まだ自分のからだのことも避妊のこともちゃんとわかってなくて」

「コンドームつけてくれない常連さんがいて」

「わたしはそのときの自分のお金の事情でお客さんに強く言えなくて」

「それでできた」

美里の目はテーブルのうえの紅茶のカップを見ていた。カップの縁をゆっくり人差し指でなぞっていた。

「手術を受けに行った日、わたしひとりで新宿の婦人科のドアを押した」

「待合室に誰もわたしを心配する人はいなかった」

「お母さんには言えなかった、お店の同僚にも言えなかった、お客さんはもちろん知ってもいない」

「わたしはぜんぶひとりで決めてひとりで終わった」

「麻酔から目覚めて看護師さんが『お疲れさまでした』って言ってくれたとき、わたしなぜかすごく泣いた」

「『お疲れさま』って、その日の朝から誰にも言ってもらえなかったから」

「たったその一言がわたしのぜんぶを解いてくれた」

わたしは涙がぼろぼろ止まらなかった。

美里の22歳の朝を想像した。新宿のクリニックのドア。誰にも知られない22歳のひとりの女性。



「美里」

「うん?」

「話してくれてありがとう」

「ううん」と美里は笑った。

「もうそんな前のことだから、けっこう話せる」

「でもね萌ちゃん」

「うん」

「わたしね、あの経験を後悔してない」

「あのときのわたしにはあの選択しかなかった」

「そしてあのときのわたしをいまのわたしはちゃんと抱きしめてあげたい」

「だからわたしいまお店の後輩に避妊と検査の話めっちゃする」

「『美里さんしつこい』って言われるくらい」

「でもわたしは後輩にわたしと同じ朝をひとりで迎えてほしくない」

美里は紅茶をひとくち飲んだ。

「萌ちゃんが今日話してくれたリサさんとあかりさん」

「ふたりともちゃんと自分の選択を自分の足で立ってる」

「わたしの22歳と似てて違う」

「でも共通してるのは、『ひとりで決めなきゃいけない瞬間』がみんなにあるってこと」

「その瞬間に誰かが隣にいてあげられたらってわたしはいつも思ってる」

「ね萌ちゃん」

「うん」

「萌ちゃんはあかりさんの隣にいた」

「わたしの22歳のときにいてほしかった人をあかりさんはもうちゃんと見つけられてた」

「それはすごくすごく嬉しいことなの」

わたしの涙がまたぼろぼろ落ちた。

美里の22歳のひとりの朝がわたしのいまの隣にあるあかりちゃんの選択に繋がっている。性は世代と職業と立場を超えて確実に繋がっている。



それから3か月後。

リサは2回目の体外受精で妊娠した。

すごく嬉しい報告だったけれど安定期に入るまでは慎重にと本人は言っていた。LINEのスタンプもいつもの陽気な絵柄じゃなくてちょっと控えめなハートが小さく揺れているくらいのものだった。喜びをまだ全部使ってしまわないで慎重にしまっている、そんなリサの心の動きがスタンプの選び方からも伝わってきた。

リサ:「お祝いは安定期に入ったら改めてしてね」

:「もちろん」

:「それまではふつうにご飯にいこ」

リサ:「ありがとう」



あかりは会社を辞めて地元の岐阜に帰ることにした。

「しばらく自分のペースで生きたい」と。

最終出社日、定時のあとわたしは彼女と会社近くのいつものカフェでコーヒーを飲んだ。

あかりはすっかり痩せていて、でも目の表情は3か月前よりはるかに落ち着いていた。

「先輩、ありがとうございました」

「ううん。元気でね」

「今回のことちゃんと自分で決めたからこれから前を向ける気がします」

「うん」

「いつかもしもわたしが本当に子どもがほしいって思える時が来たら、そのときはちゃんとそれを選びたい」

「うん」

「そのときに選べる自分でいたい」

カフェの窓のそとを夕方の人波が流れていく。

「あかり、また東京に来ることがあったら連絡して」

「はい、絶対」

最後にわたしたちはふつうのハグをして別れた。

そのあとわたしは美里にLINEを送った。

:「あかりちゃん、地元に帰る前に最後のお茶した」

:「『ちゃんと自分で決めたからこれから前を向ける』って言ってた」

:「美里と似てた」

美里:「うん。同じ言葉で笑えるって、こういうことだね」

美里:「わたしたちはみんな自分のからだの選択を自分でしてきた人たち」

美里:「それがいま繋がっている」



その夜、わたしは自分の家でベッドに転がって天井を見上げていた。

3人の女性の選択がわたしのなかで並んで見えた。

産むことを選びそれでも何度も泣いてきたリサ。

産まないことを選びそれでも何度も泣いてきたあかり。

5年前に産まないことを選びいま後輩を守ることを選んでいる美里。

ぜんぶ自分の人生を自分で選んだ女性たち。

そしてわたし。わたしはまだそういう大きな選択をする立場にはない。

でもいつかその瞬間が来たとき、わたしは彼女たちのことを思い出す。ひとりで決めなきゃいけない瞬間にひとりじゃなかった人たちのことを。そしてひとりで決めなきゃいけない瞬間にひとりだった美里の22歳のことを。

わたしはひとりじゃない。だからいつか誰かのためにひとりじゃない人になりたい。

ベッドの脇のスマホが光って、翔からのLINEが届いた。

:「明日のごはん、何食べたい?」

わたしはちょっと笑った。

:「スパゲッティ」

:「ボロネーゼ」

:「いっぱい」

:「了解」

ふつうのLINE。ふつうの夜。

でもわたしの世界は確実に広がっていた。

スマホを置いてわたしは目を閉じた。

明日もわたしは自分の体を自分の心をちゃんと持って生きていく。

ベッドのなかでわたしは自分のおなかに片手を当てた。いま何もいない。でもいつか何かを宿す日が来るかもしれないし来ないかもしれない。どちらの未来もわたしのものだ。それをちゃんと自分で決められる人でいたい。


萌のひとり言

リサとあかりと美里。

それぞれぜんぶぜんぜん違う人生。

でも3人とも「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」をちゃんと生きてきた人たち。

美里が22歳の朝、新宿のクリニックの前でひとりだったこと。

それを聞いたときわたしは初めて「性のことを目を背けない」ということの意味がすこしわかった気がした。

目を背けるとその人をその朝の孤独に置き去りにすることになる。

目を見て話を聞いてちゃんと知ろうとすることが、たぶんわたしにできるいちばんのことだ。


まとめメモ:妊娠・出産・中絶

妊娠の仕組み

  • 排卵後24時間以内に卵子と精子が出会えば受精
  • 精子は女性の体内で3〜5日生存
  • 受精から着床まで7〜10日
  • 妊娠週数は最終月経の開始日を0週0日として数える

不妊治療(2022年から保険適用拡大)

  • タイミング法→人工授精→体外受精→顕微授精のステップ
  • 40歳未満は通算6回40〜43歳は3回まで保険適用
  • 心理的負担も大きい。会社の不妊治療休暇などの活用も

中絶(人工妊娠中絶)

  • 母体保護法に基づく合法的な医療行為
  • 妊娠22週未満まで可能
  • 配偶者同意が原則必要だが未婚・DV被害は不要
  • メフィーゴパック(経口中絶薬):2023年4月承認、9週まで対応
  • 費用は10〜20万円程度(自費)
  • 早いほど身体的負担が少ない

リプロダクティブ・ヘルス/ライツ

  • 自分の身体・性・生殖について自分で決める権利
  • 産むのも産まないのも両方が国際的に認められた人権

大切なこと

  • 「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」にひとりじゃなかったことが後の人生の支えになる
  • どの選択も責められるべきものじゃない
  • 「お疲れさま」の一言が誰かの世界を救うことがある

相談窓口

  • にんしんSOS:望まない妊娠の相談(各都道府県、24時間対応の地域あり)
  • 不妊専門相談センター:厚労省事業(全国)
  • 女性健康支援センター:各都道府県
  • 流産・死産経験者支援:ポコズママの会、天使の保護者ルカの会など
  • 特定妊婦・若年妊娠:要保護児童対策地域協議会、子ども家庭センター

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