雨の日曜日だった。
朝から、東京には、柔らかい雨が、降り続いていた。
アスファルトの匂いが、いつもより、ちょっと、近く、立ちのぼっている。
そういう日は、誰かと、ふたりで、何もせずに、過ごすのが、いちばんいい。
葵の部屋は、中目黒のマンションの3階にある。
1LDKで、看護師の彼女らしく、整然と、片付いた部屋。
観葉植物のフィカス・ベンガレンシスが、リビングの隅で、やたらと元気に、育っている。
葵の植物への愛情と、患者さんへの愛情は、たぶん、根が、おなじだ。
その日、わたしは、葵の家に泊まり込みのつもりで、来ていた。
スーパーで買ってきた肉と、野菜と、ビールを6本。
冷蔵庫にしまって、ふたりで、床に座って、テーブルのうえで、麻婆豆腐を、作っていた。
葵が、ねぎをひっくり返しながら、ぽつりと、聞いた。
「美咲、最近、なんか、考え込んでない?」
「えっ」
「LINE短いし、スタンプの使い方、ちょっと、雑になってる」
そういうとこを、葵は、ちゃんと、見ている。
LINEのスタンプの選び方の繊細さで、人の調子をはかるって、すごく、現代的な観察眼だな、と思う。
わたしは、しばらく、何から話そうか、迷ってから、言った。
「最近さ、ふたつの妊娠の話を、近い時期に聞いたんだよね」
葵は、フライパンの蓋を開けて、すこしずつ、味見をしながら、こちらを、振り返った。
「ふたつ?」
「うん。リサが、体外受精を始めたって話と、もうひとつは──」
わたしは、ためらってから、続けた。
「会社の後輩のあかりちゃんが、妊娠中絶を決めた話」
葵は、火を、止めた。
鍋のなかで、麻婆豆腐が、ふつふつと、音を、立てていた。
「ふぅん」
「妊娠したい人と、いま妊娠を続けられない人が、同じ時期に近くにいるって、なんか、すごく、不思議だなと、思って」
「わたし、自分のなかで、ふたりを、別の場所に置いてた」
「「子どもがほしい人」と「子どもを産まない選択をした人」」
「ふたりが、同じ社会のなかにいる、と、ちゃんと、繋げて、考えるのが、なんとなく、怖かった」
葵は、フライパンから麻婆豆腐をボウルに移しながら、言った。
「それは別に矛盾してないんだよ、美咲」
「うん?」
「自分の人生をどう生きるかを、自分で決めるっていう、同じ話」
「でも、世間的には、なんか、違う扱いされる気がするんだよね」と、わたしは、言った。
「そう、それが問題」
葵は、麻婆豆腐をテーブルに置いて、ご飯をふたつのお茶碗によそいながら、続けた。
「「子どもがほしい人」は、ガンバレって応援される」
「「子どもを産まない選択をした人」は、こっそり、語られる」
「でも、両方とも、自分のからだの選択をしてるってだけなんだよ」
「それを、世間が、両方を、同じ重さで、認めてあげない」
「だから、リサも、あかりちゃんも、それぞれ、ちょっとずつ、傷つきながら、選んでる」
わたしは、頷いた。
ふたりを別の場所に置いていたわたしも、世間と、同じことをしていたかもしれない。
ふたりの選択は、同じ重さで、同じ尊厳で、語られていい。
そう、葵に言ってもらって、はじめて、わたしは、すこし、ほっとした。
「正解を判定する人」じゃなくて、「両方のかなしみと、両方のよろこびに、ちゃんと敬意を払える人」になりたい、と、思った。
雨の音が、窓ガラスのうえで、ずっと、ざあ、と、響いていた。
リサは、結婚2年目から、妊活を始めて、半年経っても、妊娠しなかった。
タイミング法を3周期、人工授精を2回。
そして、ブライダルチェックで、過去のクラミジアと、卵管癒着の可能性が、見つかった。
5月のある夜、わたしはリサと、表参道の和食居酒屋で、もういちど、彼女の話を、聞いた。
すこし大人な、隠れ家風の、カウンターメインの店。
お通しの大根の煮物が、いつもより、しっとり、味が、染みていた。
「夫婦ふたりで、本格的に、検査してもらったらね」と、リサは、言った。
「わたしは、多嚢胞性卵巣症候群(PCOS)で、排卵が不規則」
「あと、過去のクラミジアの影響かは断定できないけど、片方の卵管が、癒着気味、って、言われた」
「夫さんは?」
「精子の運動率が、ちょっと低めの境界値」
「だけど、自然妊娠が無理ってわけじゃない、って」
「両方、ある原因不明寄りって感じ」
リサは、生ビールを、ひとくち、飲んでから、続けた。
「で、決めたのが、体外受精(IVF)」
「うん」
「2022年から保険適用になったから、自費で何百万って時代より、楽になったんだよね」
「3割負担で、年齢と回数の制限は、あるけど」
「40歳未満は、通算6回まで、40〜43歳は3回までだっけ」と、わたしは、記憶を辿りながら、言った。
「うん、よく覚えてるね、美咲」
「葵が、言ってた」
「あー、なるほど」
リサは、ちょっと、笑ってから、ふっと、声を、落とした。
「治療と仕事の両立、まじで、しんどい」
「だよね……」
「採卵前は、毎日、通院で、注射と、エコー」
「仕事休む口実も、限界が、来る」
「だから会社の不妊治療休暇って制度、本当にありがたい」
「リサのところ、ちゃんと、あるんだ」
「ある。3年前、わたしが入社したとき、社労士の先輩が、制度作ったらしい」
「先輩、めっちゃ尊敬する」
リサは、しばらく、天井を見上げてから、視線を、戻した。
「美咲、わたしね」
「うん」
「1回目の採卵、うまくいかなかった」
リサの目に、ふっと、水が、溜まった。
「4個取れて、3個受精して、1個だけ胚盤胞まで育って、それを移植して、ダメだった」
「リサ……」
「最初に医師に言われたの」
リサは、涙を拭きながら、言った。
「不妊治療は『うまくいかない期間』の方が長い、って」
「期待と落胆を繰り返すから、メンタルが、削れる、って」
「みんな、乗り越えてる、の?」
「乗り越えてるっていうか、乗り越えながら、ちゃんと泣ける場所を、作ってるって感じ」
「わたしは、夫と、葵と、美咲が、それだから」
わたしは、リサの手の上に、自分の手を、そっと、置いた。
「いつでも、泣いていいよ」
「うん。だから、いま、すこし、泣いてる」
リサは、ほんとうに、すこしだけ、泣いた。
それは、決壊するような泣き方ではなくて、ちゃんとしまっておくべき悲しみを、決まった分だけ、きれいに出している、そんな泣き方だった。
「でね、美咲」とリサは、続けた。
「うん」
「わたし、ある日、夫に、「もし、ずっと、子どもができなかったら、わたしのこと、嫌いになる?」って聞いたの」
「夫が、なんて答えたと思う?」
「何て?」
「「俺は、リサと、子どもがほしいんじゃなくて、リサと、結婚したんだよ」って」
「そのあと、「もし子どもがいない人生になっても、それは、別の楽しい人生だよ」って」
リサは、また、涙を、すこしだけ、こぼした。
「わたし、そのときに、ようやく、肩の力が、抜けた」
「夫は、わたしのおなかに、価値を置いてるんじゃなくて、わたし自身に、価値を置いてくれてる」
「そのことが、いまの治療を、続けられる、いちばんの理由」
わたしは、リサの手を、もう一度、握った。
胸が、すこし、苦しかった。
それは、悲しさじゃなくて、リサを、リサとして、ちゃんと、見てくれている人がいる、という事実への、深い感動だった。
世間で、「子ども」が、夫婦の関係を、左右しすぎる場面って、まだまだ、ある。
結婚式のスピーチで「早く子どもを」と当たり前のように言われる、お正月に親戚から「孫はまだ?」と聞かれる、職場で「結婚したんだから、次は子どもだね」と冗談まじりに言われる。
そういう、無数の、外側からのプレッシャーが、夫婦のあいだの「ふたり」を、すこしずつ、削っていく。
リサのご主人の言葉は、その削りに、抗う、ひとつの、岩のような言葉だった。
会社で、わたしの2つ下の後輩、あかり。22歳。
営業部にいた頃から、知っていて、いまは、別チームに移ったけれど、月に1〜2回、ランチを、一緒に、する。
ある火曜日、彼女に「先輩、ちょっと、内緒の話、してもいいですか」と、社内のカフェスペースで、呼び止められた。
カフェスペースは、ガラス張りの会議室の手前にある、ベンチ風のソファが並んだスペース。
コーヒーマシンの稼働音が、ずっと、がーっと、響いている。
あかりは、ホットココアを、両手で、抱えていた。
彼女の手のあたたまり方が、ふだんと、ぜんぜん、違って見えた。
寒いのに、抱きしめている、というより、何かを、ぎゅっと、自分のなかに、封じ込めているような、そんな、抱き方だった。
「先輩、わたし、妊娠してました」
「……」
「8週でした。おとといクリニックに行って」
わたしは、何も、言葉を選ばずに、ただ、聞いた。
こういうとき、相手より先に、こちらの感情の波が来てしまうのは、いちばん、よくない。
わたしは、ぐっと、自分の心臓を、まず、静かにさせた。
「彼氏とは、もう、連絡取ってない」
「産むという選択は、いまのわたしには、できないって、思った」
「うん」
「経口中絶薬ってのを使うことに、した」
「メフィーゴパックって薬。2023年4月に承認されて、妊娠9週までならお薬で中絶できるやつ。お腹の手術じゃなくて」
わたしは、それを、知識としてしか、知らなかった。
「あかり、知ってたんだ」
「ううん、おとといのクリニックで、お医者さんから説明された」
「それで、手術と薬、両方の説明を受けて、自分で選んだ」
ココアの湯気が、彼女の顔の前で、ぼうっと、揺れていた。
「あのね、先輩」
「うん」
「わたし、最初、彼氏に連絡しようかと、思ったの」
「うん」
「でもね、最後の連絡から、2か月、何も、返事が、なくて」
「わたし、彼氏が、わたしのいなくなった人生を、もう、選び始めてるって、わかった」
「そのとき、わたしは、自分のおなかに、ひとりで、向き合うって、決めた」
あかりは、ココアを、ひとくち、飲んでから、続けた。
「それを決めたら、なんか、不思議と、すこし、強くなれた」
「ひとりで決めたから、ひとりで、ぜんぶ、引き受ける」
「それは、寂しいことだけど、ちゃんと、自分の人生だ、って感じ」
わたしは、しばらく、彼女の顔を、見た。
22歳の彼女が、ひとりで、自分のおなかに、向き合う、という選択をした。
それは、すごく、すごく、孤独な選択だった。
でも、彼女は、その孤独を、自分のものとして、ちゃんと、選んでいた。
いまどき、22歳って、まだ、自分の意見を、ぜんぶ自分の言葉で持つには、若い。
SNSのフィードに流れる、誰かの正解、誰かの怒り、誰かの優しさ、ぜんぶが、自分の声を、上書きしてくる。
そのなかで、あかりは、自分の声を、ちゃんと、握っていた。
それは、22歳とか、何歳とか、関係なく、ひとつの、強さ、だった。
メフィーゴパックは、こんな薬だった。
あかりが、診察で受け取った資料を、後日、わたしに、見せてくれた。
メフィーゴパックの仕組み
1. 1日目:クリニックでミフェプリストンを1錠服用(妊娠の継続を止める薬)
2. 36〜48時間後:ミソプロストール4錠を頬と歯茎の間に挟んで、30分かけて溶かす(子宮の収縮を促す薬)
3. 数時間後:腹痛・出血が始まり、内容物が排出される
4. 2週間後:受診して完了確認
成功率は約93%。残り7%は手術での処置が必要になる。
「1年経ってもまだ全中絶の1%しか、使われてないって」と、あかりは、言った。
「導入してる病院がまだ少なくて、入院してる必要があるところとそうじゃないところが、分かれてる」
「価格は手術と同じくらい、10万円前後」
「あかり、ちゃんと、選べたの?」
「うん」と、あかりは、小さく、頷いた。
「手術は確実だけど、麻酔が、怖くて」
「薬は、痛みが続くけど、自然に近い」
「わたしには、自然に近い方が、心の整理が、つく気が、した」
「彼氏には?」
「未婚だから、配偶者の同意は、不要」
「わたしの意思だけで、決まる」
あかりは、カップを両手で握りしめながら、続けた。
「痛みは、生理痛のひどいやつくらいって、事前に、聞いてた」
「実際は、それより、強かった」
「あと、思ったより、出血が、多くて、不安に、なった」
「でも、入院してて、看護師さんがいたから、なんとか、乗り越えた」
わたしは、相槌を、打つしか、なかった。
「あのね」と、あかりは、ゆっくりと、言った。
「うん」
「罪悪感が、ないわけじゃないんです」
「うん」
「なくはないんですけど、でも、産んだとして、ちゃんと育てられない自信のなさの方が、強かった」
「うん」
「選んだことは、後悔してない」
あかりは、カップに残った最後のひとくちを、飲んでから、言った。
「選べた自分を、ちゃんと、許してあげたいんです」
わたしは、ティッシュを、自分のためにも、ひとつ、取った。
「許してあげたい」って、ふだんの会話で、22歳の女の子から、出てくる言葉じゃない。
でも、あかりは、ちゃんと、その言葉を、自分の口で、出してきた。
それは、彼女が、おとといから今日までの、48時間で、人生何年分かを、生きた、という、しるしだった。
その夜、わたしは、葵に、電話して、リサとあかりの話を、両方、もう一度、聞いてもらった。
葵は、しばらく、考えてから、言った。
「美咲、これは、わたしじゃなくて、美里に、聞いてほしい話、かも」
「うん?」
「美里、わたしより、もうちょっと別の角度で、この話、語れる人だと思う」
「美里に、お茶誘ってみたら?」
わたしは、ちょっと迷ったけど、葵が薦めてくれるなら、と、美里に、LINEを、送った。
美咲:「美里、お時間あったら、お茶しませんか」
美咲:「ちょっと、聞いてもらいたい話があって」
美里からは、すぐに、返事が、来た。
美里:「もちろん。今週木曜の昼、空いてる」
木曜の昼、新宿御苑近くの、静かなカフェ。
美里と、ふたりで、昼下がりのお茶を、した。
平日の昼間に、ふつうの女ふたりで、カフェに座る、っていう時間は、いまの東京では、けっこう、贅沢だ。
美里は、お店のシフトが、夜だから、平日の昼に、空いている。
わたしは、ちょうど、有休消化のタイミングだった。
お店は、ガラス張りで、外の街路樹の、新芽の、薄い緑色が、店内に、さらさらと、流れ込んでくる感じだった。
わたしは、美里に、リサの話と、あかりの話を、ぜんぶ、した。
美里は、しばらく、紅茶のカップを、両手で包みながら、聞いていた。
そして、一拍、置いてから、ぽつりと、こう、言った。
「美咲ちゃん」
「うん」
「実は、わたしも、5年前に、中絶してる」
わたしは、しばらく、声が、出なかった。
美里は、淡々と、続けた。
「当時22歳。お店で出会ったお客さんとの子」
「結婚なんて、ぜんぜん、考えられない関係だった」
「そのときのわたしは、ちょうど、いまの仕事を始めて1年くらいで、まだ、自分のからだのことも、避妊のことも、ちゃんと、わかってなくて」
「コンドームつけてくれない常連さんが、いて」
「わたしは、そのときの自分のお金の事情で、お客さんに、強く、言えなくて」
「それで、できた」
美里の目は、テーブルのうえの紅茶のカップを、見ていた。
カップの縁を、ゆっくり、人差し指で、なぞっていた。
思い出を語るときの、無意識の、慣れた仕草だった。
「手術を受けに行った日、わたし、ひとりで、新宿の婦人科のドアを、押した」
「待合室に、誰も、わたしを心配する人は、いなかった」
「お母さんには言えなかった、お店の同僚にも言えなかった、お客さんは、もちろん、知ってもいない」
「わたしは、ぜんぶ、ひとりで、決めて、ひとりで、終わった」
「麻酔から目覚めて、看護師さんが「お疲れさまでした」って言ってくれたとき、わたし、なぜか、すごく泣いた」
「「お疲れさま」って、その日の朝から、誰にも、言ってもらえなかったから」
「たったその一言が、わたしの、ぜんぶ、を、解いてくれた」
わたしは、涙が、ぼろぼろ、止まらなかった。
美里の22歳の朝を、わたしは、想像した。
**新宿のクリニックのドア。
誰にも知られない、22歳のひとりの女性。
彼女のおなかと、彼女の決断。**
いまどき、SNSは、つねに「誰かと繋がっている」感覚を、わたしたちに与える。
でも、ほんとうに大切な瞬間は、ぜんぶ、ひとり。
美里の22歳の朝も、そのひとつだった。
「美里」
「うん?」
「話してくれて、ありがとう」
「ううん」と、美里は、笑った。
「もう、そんな前のことだから、けっこう、話せる」
「でもね、美咲ちゃん」
「うん」
「わたしね、あの経験を、後悔してない」
「あのときのわたしには、あの選択しか、なかった」
「そして、あのときのわたしを、いまのわたしは、ちゃんと、抱きしめてあげたい」
「だから、わたし、いま、お店の後輩に、避妊と検査の話、めっちゃ、する」
「「美里さん、しつこい」って、言われるくらい」
「でも、わたしは、後輩に、わたしと同じ朝を、ひとりで迎えてほしくない」
美里は、紅茶を、ひとくち、飲んだ。
「美咲ちゃんが今日話してくれた、リサさんと、あかりさん」
「ふたりとも、ちゃんと、自分の選択を、自分の足で立ってる」
「わたしの22歳と、似てて、違う」
「でも、共通してるのは、「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」が、みんなにある、ってこと」
「その瞬間に、誰かが、隣にいてあげられたらって、わたしは、いつも、思ってる」
「ね、美咲ちゃん」
「うん」
「美咲ちゃんは、あかりさんの隣に、いた」
「わたしの、22歳のときに、いてほしかった人を、あかりさんは、もうちゃんと、見つけられてた」
「それは、すごく、すごく、嬉しいことなの」
わたしの涙が、また、ぼろぼろ、落ちた。
美里の22歳のひとりの朝が、わたしの、いまの隣にあるあかりちゃんの選択に、繋がっている。
性は、世代と職業と立場を超えて、確実に、繋がっている。
わたしたちは、目を背けず、ちゃんと、それを、お互いに、渡しあえる。
「美里」
「うん」
「わたし、あなたみたいな先輩がいて、すごく、嬉しい」
「ね」
美里は、ふっと、笑った。
「今度、リサさんとも、あかりさんとも、いつか、お茶できたらいいね」
「わたしたち、職業も状況もぜんぜん違うけど、たぶん、同じ言葉で、笑える」
カフェの窓のそとで、街路樹の新芽が、初夏の風に、すこし、揺れた。
雨が、また、ぱらぱらっと、降り始めていた。
雨のなかで、わたしは、見ず知らずだった、5年前の22歳の美里を、心のなかで、ぎゅっと、抱きしめた。
それから3か月後。
リサは、2回目の体外受精で、妊娠した。
すごく嬉しい報告だったけれど、安定期に入るまでは、慎重に、と、本人は、言っていた。
LINEのスタンプも、いつもの陽気な絵柄じゃなくて、ちょっと控えめな、ハートが小さく揺れているくらいのものだった。
喜びを、まだ全部、使ってしまわないで、慎重にしまっている、そんなリサの心の動きが、スタンプの選び方からも、伝わってきた。
リサ:「お祝いは、安定期に入ったら、改めてしてね」
美咲:「もちろん」
美咲:「それまでは、ふつうに、ご飯にいこ」
リサ:「ありがとう」
SNSで、妊娠を、すぐに大々的に発表する人もいる。
わたしは、どちらの選び方も、その人の自由だと思う。
でも、リサのこの、控えめなスタンプの揺れの大きさは、わたしには、すごく、響いた。
あかりは、会社を、辞めて、地元の、岐阜に、帰ることに、した。
「しばらく、自分のペースで、生きたい」と。
最終出社日、定時のあと、わたしは、彼女と、会社近くのいつものカフェで、コーヒーを、飲んだ。
あかりは、すっかり、痩せていて、でも、目の表情は、3か月前より、はるかに、落ち着いていた。
「先輩、ありがとうございました」
「ううん。元気でね」
「今回のこと、ちゃんと自分で決めたから、これから前を向ける気がします」
「うん」
「いつか、もしも、わたしが本当に子どもがほしいって思える時が来たら、そのときは、ちゃんとそれを選びたい」
「うん」
「そのときに、選べる自分でいたい」
わたしは、頷くしかなかった。
カフェの窓のそとを、夕方の人波が、流れていく。
会社員の波、学生の波、観光客の波。
そのなかから、ひとりだけ、岐阜に帰っていく、あかりの背中。
あかりの背中越しに、信号が、青に、変わるのが、見えた。
「あかり、また、東京に来ることがあったら、連絡して」
「はい、絶対」
最後に、わたしたちは、ふつうの、ハグを、して、別れた。
そのあと、わたしは、美里に、LINEを、送った。
美咲:「あかりちゃん、地元に帰る前に、最後のお茶した」
美咲:「「ちゃんと自分で決めたから、これから前を向ける」って言ってた」
美咲:「美里と、似てた」
美里:「うん。同じ言葉で笑える、って、こういうことだね」
美里:「わたしたちは、みんな、自分のからだの選択を、自分でしてきた人たち」
美里:「それが、いま、繋がっている」
その夜、わたしは、自分の家で、ベッドに、転がって、天井を、見上げていた。
3人の女性の選択が、わたしのなかで、並んで、見えた。
産むことを選び、それでも何度も泣いてきたリサ。
産まないことを選び、それでも何度も泣いてきたあかり。
5年前に産まないことを選び、いま、後輩を守ることを選んでいる美里。
ぜんぶ、自分の人生を、自分で選んだ女性たち。
そして、わたし。
わたしは、まだ、そういう大きな選択をする立場には、ない。
でも、いつか、その瞬間が、来たとき──。
わたしは、彼女たちのことを、思い出す。
ひとりで決めなきゃいけない瞬間に、ひとりじゃなかった人たちのことを。
そして、ひとりで決めなきゃいけない瞬間に、ひとりだった、美里の22歳のことを。
わたしは、ひとりじゃない。
だから、いつか、誰かのために、ひとりじゃない人になりたい。
ベッドの脇のスマホが光って、健太からのLINEが、届いた。
健太:「明日のごはん、何食べたい?」
わたしは、ちょっと、笑った。
美咲:「スパゲッティ」
美咲:「ボロネーゼ」
美咲:「いっぱい」
健太:「了解」
ふつうのLINE。
ふつうの夜。
でも、わたしの世界は、確実に、広がっていた。
結婚した女性、未婚の若い女性、夜の街で生きる女性、それぞれの選択が、わたしの胸の中で、ひとつの絵に、なっていた。
スマホを置いて、わたしは、目を、閉じた。
明日も、わたしは、自分の体を、自分の心を、ちゃんと持って、生きていく。
そして、いつか、誰かの隣に、ちゃんと、いてあげられる人になれたらいい。
ベッドのなかで、わたしは、自分のおなかに、片手を、当てた。
いま、ここに、何もいない。
でも、いつか、何かを宿す日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。
どちらの未来も、わたしのものだ。
それを、ちゃんと、自分で、決められる人で、いたい。
美咲のひとり言
リサと、あかりと、美里。
それぞれ、ぜんぶ、ぜんぜん、違う人生。
でも、3人とも、「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」を、ちゃんと、生きてきた人たち。
美里が、22歳の朝、新宿のクリニックの前で、ひとりだったこと。
それを聞いたとき、わたしは、初めて、「性のことを目を背けない」ということの意味が、すこし、わかった気がした。
目を背けると、その人を、その朝の孤独に、置き去りにすることになる。
目を見て、話を聞いて、ちゃんと知ろうとすることが、たぶん、わたしにできる、いちばんのことだ。
性のことは、知識だけじゃ、足りない。
そこに、誰かの孤独が、誰かの選択が、誰かの生き方が、ぜんぶ、ある。
それを、ちゃんと、感じる人で、いたい。
そして、世間が、リサを「がんばれ」、あかりを「こっそり語る」と、別の場所に置こうとしても、わたしのなかでは、ふたりは、同じ重さで、同じ場所に、ちゃんと、置かれている。
世間と違う場所に、自分の心の地図を、ちゃんと、もちたい。
まとめメモ:妊娠・出産・中絶
妊娠の仕組み
- 排卵後24時間以内に卵子と精子が出会えば受精
- 精子は女性の体内で3〜5日生存
- 受精から着床まで7〜10日
- 妊娠週数は最終月経の開始日を0週0日として数える
不妊治療(2022年から保険適用拡大)
- タイミング法→人工授精→体外受精→顕微授精のステップ
- 40歳未満は通算6回、40〜43歳は3回まで保険適用
- 心理的負担も大きい。会社の不妊治療休暇などの活用も
中絶(人工妊娠中絶)
- 母体保護法に基づく合法的な医療行為
- 妊娠22週未満まで可能
- 配偶者同意が原則必要だが未婚・DV被害は不要
- メフィーゴパック(経口中絶薬):2023年4月承認、9週まで対応
- 費用は10〜20万円程度(自費)
- 早いほど身体的負担が少ない
リプロダクティブ・ヘルス/ライツ
- 自分の身体・性・生殖について自分で決める権利
- 産むのも、産まないのも、両方が国際的に認められた人権
大切なこと
- 「ひとりで決めなきゃいけない瞬間」に、ひとりじゃなかったことが、後の人生の支えになる
- どの選択も、責められるべきものじゃない
- 「お疲れさま」の一言が、誰かの世界を救うことがある
相談窓口
- にんしんSOS:望まない妊娠の相談(各都道府県、24時間対応の地域あり)
- 不妊専門相談センター:厚労省事業(全国)
- 女性健康支援センター:各都道府県
- 流産・死産経験者支援:ポコズママの会、天使の保護者ルカの会など
- 特定妊婦・若年妊娠:要保護児童対策地域協議会、子ども家庭センター
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