第3話|深夜2時、ドラッグストアで



健太の部屋に着いたのは、夜の9時だった。

初台のワンルーム。

壁の半分が本棚で、残りはモニターとデスク。

彼が一人暮らしを始めた頃から、ほとんど変わらない、シンプルな部屋。

窓を開けると、首都高の遠い走行音と、近くの電車の音が、低くまじって、聞こえる。

その日は、健太の仕事が早く終わったらしくて、わたしのために、近くのオオゼキで、半額になっていたお寿司を買って、待っていてくれた。

レジ袋から取り出した発泡スチロールのトレーを、ふたりで広げる。

こういう日は、刺身いいよね」と、わたしは言って、湯のみにビールを注ぐマネをした。

「いや、ちゃんと缶ビール、買ってあるから

健太は、冷蔵庫から、銀色のロング缶を、2本、出した。

冷えた缶の表面で、指先が、きゅっと縮んだ。

ふつうの、平日の夜だった

ビールを飲んで、寿司を食べて、お互いの一日の話をした。

営業先のおじさんが、地味にセクハラっぽいことを言った話。

健太のチームの後輩がふつうに泣き出した話。

健太のお母さんから、「実家に帰ってこないの?」と、いつものLINEが来た話。

ふだんと同じ、平日の夜の会話だった

そして、なんとなく、ふたりで、ベッドに転がった。

照明を、間接照明だけにして、部屋の温度が、ちょっとだけ、暖まっていた。

ふだんと同じ、流れだった。

そう、思っていた



「やばい、破れた」

健太が、そう言ったのは、深夜の1時すぎだった。

外したコンドームを、彼はティッシュにくるむ前に、なぜか、一瞬、明かりに、かざしていた。

たぶん、感覚で、何かを、察したのだと思う。

先端のところに、明らかに、爪の先くらいの穴が、ぽっかりと、あいていた

「……」

「……」

ふたりとも、しばらく、動かなかった。

わたしはベッドのうえで、天井を、ぼうっと、見つめた。

頭の中で、月経周期の計算を、始めた

最終月経の開始日は……たしか、12日前。

ということは、いまが、ちょうど、いちばん、やばい日だ。

排卵期、ど真ん中。

あー、と、思った。

その「あー」は、声に、出なかった。

でも、わたしのからだのなかで、すごく、はっきり、響いた

「健太」

「うん」

わたしは、できるだけ落ち着いた声を出そうと、した。

出なかった。

これ、たぶん、いちばん妊娠する日

健太の顔が、暗がりのなかで、ザーッと、青くなったのが、わかった。

そして、健太は、口に手を当てて、長く、深く、息を、吐いた。

そのあと、ぽつりと、言った。

ごめん

「ううん、健太のせいじゃない」

「いや」

「製造のときの欠陥かもしれないし、保管温度の問題かもしれないし──」

美咲、ごめん

健太は、もう一度、言った。

その「ごめん」は、いつもの、軽い「ごめん」じゃ、なかった。

自分のからだから出たものが、相手のからだのなかに、本人の予期しない結果を残すかもしれない、ということに対する、男性側の、いちばん根のところからの、申し訳なさだった。

わたしは、それを聞きながら、不思議と、すこし、落ち着いた。

健太が、ちゃんと、いま、わたしの身体のことを、自分の問題として感じてくれている

それを、わたしは、ちゃんと、受け取った

──ふと、わたしは、ネットで読んだことのある、知らない誰かの、似た夜を、思い出した。

SNSの匿名垢で、女の子が、彼氏のコンドームが破れたあと、ひとりでアフターピルを買いに行った話

「彼に伝えたら、責められた」と書いてあった

そういう夜が、世の中には、たぶん、毎日、何百件か、起きている

わたしは、運がよかった

運がよかった、と思える夜を、ちゃんと、運がよかったと言える自分でいたい、と、思った。



「とりあえず、葵にきく」

わたしは、ベッドのうえに、座り直して、葵に通話した。

夜中だけど、葵は、3コール目で、出た。

「美咲? どした、こんな時間」

「葵、ごめん、夜中に。ちょっと、急ぎなんだけど」

声が、うわずった。

わたしは、できるだけ淡々と、状況を、説明した。

電話の向こうで、葵が、何かをカチャッと机に置く音が、した。

了解。落ち着いて聞いてね

葵の声が、いつもの夜勤明けの早口じゃなくて、看護師の声に、切り替わったのが、聞こえた。

アフターピルって、72時間以内に飲めば妊娠を防げるんだよね、よく聞くから知ってる」と、わたしは確認するように、言った。

「うん。早ければ早いほど効くから、24時間以内に飲めるなら、妊娠阻止率は95%くらい。72時間で約84%まで落ちる」

「うん」

「で、ここからが朗報なんだけど

葵は、声のトーンを、すこし、上げた。

2026年2月2日から、アフターピルが処方箋なしで買えるようになった」

ノルレボのOTCね」

研修受けた薬剤師がいる薬局なら、対面で買える

年齢制限なし、未成年でも保護者同意なし

「いま、開いてるところある?」

24時間営業の薬局のリストが、厚労省のサイトに出てるから、検索して」

緊急避妊薬 OTC 販売 薬局で検索したら、出てくる」

「あとね」

葵は、すこし、声を、変えた。

美咲、自分のこと、責めないで

「うん?」

アフターピル飲みに行くって決まると、なんかね、みんな『私の責任で』ってモードに入るの

違うのよ

コンドームの破損は、誰のせいでもない、ただ起きたこと

「うん」

美咲がいま、これから取る行動は、すごく、賢明な行動

緊急時に、薬を選んで、薬局まで歩いて、ちゃんと飲む

それは、自分のからだに対する、自分の責任の、ちゃんとした取り方なんだよ

わたしは、電話の向こうの葵の声を、もう一度、ゆっくり、心のなかで、反芻した。

自分のからだに対する、自分の責任の、ちゃんとした取り方

それは、罪悪感とは、ちがう、自分とのつき合い方だった。

わたしたち世代は、何かが起きると、すぐに、自分の罪を計算する癖がある

SNSで叩かれた人を見るたびに、「次は自分かも」って身構えて、ふだんから、自分の言動の小さなミスを、減点していく

だから、コンドームの破損ひとつで、「わたしのせいだ」「わたしが悪い」と、勝手に物語を作りそうになる

でも、葵は、ちゃんと、それを、止めてくれた

「葵、ありがとう」

「いいって。ちゃんと飲んだら、また連絡してね



電話を切って、わたしは、Safariで「緊急避妊薬 OTC 販売 薬局 一覧」と検索した。

厚生労働省のページが、いちばん上に、出てきた。

販売可能な登録薬局のリストが、PDFで、掲載されていた。

「.pdf」っていう拡張子が、いまでも、お役所のサイトの主流であることに、ちょっと、笑った

でも、その古めかしいPDFのなかに、わたしの命綱が、ちゃんと、リストアップされていた

ピンチアウトでPDFを拡大して、現在地周辺を、探す。

「あった」

「あった?」

初台駅から徒歩15分。新宿の方角。24時間の薬局

「行こう」

健太は、もう、はだしのまま、立ち上がっていた。

そういう、健太の、考えるよりからだが先に動く感じを、わたしは、好きだ、と、ふだんは思わない瞬間に、思った。



深夜2時の初台から、新宿方向。

外に出ると、空気が、ひりっと、冷たかった。

1月の夜の都心は、人通りは、ほとんどない。

タクシーが、スピードを出して、びゅんびゅん、通り過ぎる。

コンビニの看板の白い光が、点々と、歩道を、照らしている。

深夜2時の街は、テレビドラマみたいに、空白で、その空白が、なんか、わたしたちの状況を、ちょっとドラマっぽく見せてしまう

でも、これは、ドラマじゃない

わたしの、ふつうの夜だ

ふたりとも、ほとんど、話さなかった。

わたしのほうから、健太のジャケットの袖を、つかんで、歩いた。

彼の体温が、袖越しに、ちょっとだけ、伝わる。

それだけで、いまの自分が、ちゃんと地面に足をつけて立っていられる気がした

ねえ」と、健太が、信号待ちの交差点で、ぽつりと言った。

「うん」

俺、コンドームのこと、ちゃんと、知らなかったんだな

「うん。わたしも知らなかった

でもさ、ちゃんと知らなかったってのが、いまになってちょっと、悔しい

健太は、自分の手の甲を、もう片方の手で、ぎゅっと、握っていた。

俺、20歳のときからコンドーム使ってきて、9年使ってる

「うん」

その9年、もし、うまく装着できてなかったら、もし、保管悪くて、もし、サイズ合わなくて──、知らないあいだに、誰かを妊娠させてた可能性が、あった

俺は、それを、考えたことが、なかった

健太の声は、低かった。

怒っているわけでもなく、自分を責めているわけでもない、ようやく自分の人生のうしろを、ちゃんと振り返っている人の声だった。

男の人が、自分のからだのことを、ちゃんと振り返るのって、たぶん、世間で、あまり、推奨されてこなかった

「男なんだから」「気にしすぎ」「考えるな」って、たぶん、健太も、ふだん、誰かから、何度も言われてきたんだと思う。

でも、いま、深夜2時の初台の交差点で、健太は、ちゃんと、自分のからだの過去を、振り返っている

「健太」

「うん」

いまから知れば、いいよ

「うん」

わたしも、いまから、知る

信号が、青になった。

わたしたちは、また、無言で、歩き出した。

15分の道のりが、すごく、長く、感じた。

歩きながら、わたしは、何度も、「たぶん、間に合う、たぶん、大丈夫」と、自分のなかで、唱えていた。



ドラッグストアは、新宿の裏通りに、あった。

夜中なのに、店内の蛍光灯は、キンキンに点いていて、ガラス越しに、棚に並んだヘアケア用品やドリンク剤が、見えた。

自動ドアを抜けると、入口で「いらっしゃいませー」と、眠そうな男性店員の声が、した。

わたしは、できるだけ早足で、奥のカウンターに、向かった。

そして、そのカウンターで、わたしは、思いがけず、自分の前に並んでいる、もうひとりの女性を、見た。

髪をひとつにまとめた、黒のコートの、20代後半くらいの女性

店内の、白すぎる蛍光灯の下で、彼女のメイクは、とても丁寧に整えられていて、でも、目の下に、すこしだけ、疲れの色が、見えた

まつ毛は、おそらく、エクステ。アイラインは、ぴしっと、引かれている

唇のリップは、剥がれかけていて、たぶん、お酒を、何杯か飲んだあとの、剥がれ方

コートの、肩のあたりに、ほんのり、たばこか、お香みたいな匂いが、ある気がした。

彼女は、薬剤師さんと、半個室のブースで、すでに話を、始めていた。

ガラスのパーテーション越しに、わたしは、なんとなく、待った。

5分くらいして、彼女が、ブースから、出てきた。

わたしと、すこし、目が、合った。

彼女は、ふっと、ちいさく、笑った。

「お先に」とでも言うように、目の端を、ちょっと、下げた。

それは、夜中のドラッグストアの、見知らぬ女性ふたりのあいだで、たまたま交わした、ちいさなアイコンタクト。

でも、そのアイコンタクトには、「お互い、大変だね」と「自分のからだ、ちゃんと守りに来て、えらい」が、混ざっていた

深夜2時、同じドラッグストア、同じカウンター、同じ薬を求めて並ぶ女性ふたり

理由はまったく違うかもしれない

でも、ある瞬間に、ふたりとも、自分のからだを守るために、夜中の歩道を歩いてきた

それは、けっこう、すごい、共通項だ

わたしも、ちょっと、笑った。

彼女は、マスクを、直しながら、レジの方へ、歩いていった。



お次の方、どうぞ

薬剤師さんは、わたしの目を、きちんと見て、ひとつ、頷いた。

ご本人ですね? お時間、少しいただきます。こちらにどうぞ

カウンターの脇に、半個室みたいなブースが、あった。

ガラスのパーテーションで仕切られていて、外から声が、聞こえないようになっている。

小さなテーブルと、椅子が、二つ。

わたしは、そこに案内されて、健太は、店内のドリンク剤の棚のところで、待っていた。

薬剤師さんは、ファイルを開いて、一枚の用紙を、出した。

  • いつ、性行為があったか
  • 月経の最終日、最終開始日
  • 持病はあるか、服薬中の薬はあるか
  • 過去にアレルギーが出たことはあるか
  • 既に妊娠の可能性はないか

ひとつずつ、ゆっくり、丁寧に、聞かれる。

わたしは、できるだけ正直に、答えた。

こんなふうに、自分のからだのプライベートな情報を、はじめて会う人に、立て続けに伝えるのって、ふつうに、すごく、変な体験だ。

でも、薬剤師さんの目つきが、わたしの個人情報を「ふつうの薬の処方の前提」として扱ってくれていたから、わたしは、ちゃんと、答えられた

ご来局、判断が早くて、よかったです」と、薬剤師さんは、言った。

その「ご来局、判断が早くて」という言葉に、わたしの肩が、すこし、ふっ、と、落ちた。

葵が言ってくれた「賢明な行動」と、同じ言葉

わたしの行動は、責められるべきものじゃなくて、評価されるべきものだったんだ、と、ようやく、自分のからだで、感じた。

いまから飲んで、72時間以内なら妊娠阻止率は84%ですが、より早く飲んだ方が、効果は高いです」

ここで、私の前で、服用していただきます

それと、3週間後に妊娠検査薬で、確認してください」

次の月経が大幅に遅れたり、量が極端に少なかったりしたら、産婦人科を受診してくださいね

あと、これは念のためですが、アフターピルは通常の避妊法の代わりにはなりません

今回のような、緊急時のための薬です

普段からの避妊については、また、考えてくださいね

OTCで簡単に買えるようになったから、安易に頼らないように、っていう啓発も、わたしたち薬剤師の仕事です

美咲さんは、たぶん、今日のことで、これから、避妊について、すごく真剣に考えるようになると思います

それでいいんですよ

薬剤師さんは、にっこり、笑った。

ピンク色の小さな錠剤が、薬包紙のうえに、ひとつだけ、載っていた。

ノルレボ。

水と一緒に、その場で、飲んだ。

喉を、つるりと、小さなものが通っていく感覚が、あった。

そのとき、わたしは、ふと、さっきの、髪をひとつにまとめた女性のことを、思い出した。

あのひとも、いま、わたしと同じ薬を、どこかで、飲んだんだろうか

あのひとは、これから、家に帰って、ひとりで朝を迎えるんだろうか、それとも、待っている誰かが、いるんだろうか

深夜2時のドラッグストアで、薬を飲む女性ふたり

理由はおそらく、ぜんぜん違う

でも、ふたりとも、自分のからだを、ちゃんと、自分で、守りにきた



レジで会計を済ませて、ふらっと、外に出た。

コンビニの外で、だいぶ待っていたらしい健太が、わたしの顔を見て、ようやく、ふっと、息を、吐いた。

「ありがとう、付き合ってくれて」と、わたしは言った。

「いや、こういう時こそ、二人で来るべきだと思う

外に出ると、さっきの女性が、ドラッグストアのすぐ向かいの自販機の前で、ホットコーヒーを、飲んでいた。

自販機の青白い光が、彼女の頬に、横から、当たっていた

冬の夜中の自販機の前って、なんか、ふだん見えない、その人の、ふだんの顔が、見える気がする

彼女は、わたしの顔を見て、また、ちょっと、笑った。

おつかれさま

その声は、ハスキーで、すこし、笑い混じりだった。

酔いの抜けかけた、夜働きの人の、独特の声色

おつかれさま、です」と、わたしも、返した。

寒いね、深夜のドラッグストア

……はい

彼女は、コーヒーを、ひとくち飲んでから、わたしの隣に立って、続けた。

わたしね、夜の店で働いてて、お客さんが帰ったあと、ちょっと不安があって、店終わりに、ここに来たの

わたしは、しばらく、彼女の顔を、見た。

夜の店で働いている、と、彼女は、ふつうに、言った。

自分の仕事を、隠す必要のないものとして、口にした

世の中には、自分の仕事を、はじめて会った人に説明するときに、ちょっと言葉を選ぶ仕事がある。

SNSのライターとか、占い師とか、夜のお店とか、配信業とか

世間の偏見を、こちらが、先回りして、薄めようとしてしまう

でも、彼女は、それを、しなかった

「あ、ご職業、聞いてしまって、すみません

「ううん」と、彼女は、笑った。「こっちが、勝手に言っただけ

彼女は、コーヒーを、両手で、包みながら、続けた。

OTCになって、ほんと、ありがたい

「うん」

前は、夜中にこういうの起きたら、翌朝の婦人科の開店まで、待つしかなかったの

翌朝、婦人科の予約取って、お金払って、診察受けて、薬もらって、っていうのが、わたしたちの仕事のシフトだと、めっちゃ難しかった

いまは、ここで、すぐ、薬飲める

それだけで、わたしの人生、めっちゃ楽になった

彼女は、そう言って、ふっと、誇らしげに、笑った。

わたしは、頷いた。

彼女の言葉は、わたしと同じ薬を飲んだ女性として、わたしに、ストンと、入ってきた

OTC化の意味は、わたしひとりにとっての意味じゃない

深夜まで働く女性、性風俗で働く女性、シフトで婦人科に行けない女性、すべての女性にとっての意味

それを、わたしは、彼女から、もらった

そして、すこしだけ、思った。

世の中で、新しい制度が始まるとき、いちばん、それを必要としていた人たちの声を、世間は、いつも、後回しにしてきた

でも、今夜、わたしは、その「後回しにされてきた人」の隣に、立てている

それは、わたしのこれからの27歳のなかで、けっこう、大事な瞬間だった

お名前、聞いていいですか

その問いを、わたしは、自分でもびっくりするくらい、自然に、口にしていた。

美里。さくら みさと」と彼女は言った。「あなたは?

美咲。たにぐち みさき

彼女は、ちょっと、目を、細めた。

さくらと、みさき。なんか、桜のシーズン感

わたしは、笑ってしまった。

よかったら、LINE、交換しません?」と美里さんは、言った。

え、いいんですか?

深夜2時の、戦友になったんだから、いいでしょう

わたしたちは、ドラッグストアの前で、QRコードを、交換した。

彼女のLINEのアイコンは、桜の花びらが舞う一枚の写真だった。

たぶん、彼女が自分で撮った、上野公園の桜だった

そういう、ふつうの、自撮りでもない、季節の写真を、アイコンにしている人を、わたしは、なんとなく、信じられる気が、する。



帰りのタクシーの中、わたしは、健太に、いまのことを、ぜんぶ、話した。

夜の店の女性で、美里さんっていう人

コーヒー飲みながら、わたしと話してくれた

健太は、しばらく、考えてから、言った。

美咲、その人と、ふつうに話したんだ

「うん」

俺、もしひとりで歩いてたら、たぶん、距離取っちゃってたかも

「うん?」

夜の店の人って、なんとなく、別世界の人みたいに思ってた」

わたしは、頷いた。

わたしも、たぶん、5分前まで、そう思っていたかもしれない

でも、深夜2時のドラッグストアで、わたしと美里さんは、同じ理由でそこに立っていた

それは、別世界、じゃなかった

世の中の「別世界」って、ぜんぶ、こういうふうに、なくなっていけばいいのにな、と、わたしは、車窓に頭を預けながら、ぼんやり、思った。

「健太」

「うん」

わたしたち、性のこと、まだ、ぜんぜん、わかってないね

「うん。わかってない」

でもさ、わかってない、って認められたから、いまから、知れる

健太は、ちょっと、笑った。

タクシーは、初台の細い道を、ゆっくり、走っていた。

窓の外で、緑色の信号が、ゆっくり、流れていく。

信号が、緑のまま、ずっと、流れていく道って、なんか、いまの自分たちの夜にちょうどよかった。



翌朝、葵から、電話が来た。

「無事飲めた?」

「うん、薬剤師さん、すごい丁寧だった」

「よかった。3週間後の妊娠検査も、忘れずにね

「うん。あとさ、葵」

「うん」

昨日、ドラッグストアの前で、おもしろい人に会った

わたしは、美里さんのことを、話した。

葵は、ふっと、笑った。

えっ、美里?

「えっ、知ってるの?」

知ってる

保健所の無料検査会場で、ボランティアで看護師してたとき、知り合った

美里、あの場所で、お店の後輩の子の付き添いに来てたの

お店の同僚の女の子が、検査怖がってて、美里がついてきて、いっしょに検査受けてた

そのあと、わたしと話して、それから、ときどき連絡取り合ってる仲

美里は、あの業界のなかで、性教育とか労働者の安全とか、めっちゃ詳しい

わたしと並んで、わたしより詳しい部分も、ある

ちょうど、美咲にも、いつか紹介したいって思ってたんだ

わたしは、その偶然に、しばらく、声が、出なかった。

深夜2時のドラッグストア、というぜんぜん違う場所で、わたしは、葵の友達と、出会っていた

世界は、思っているより、繋がっている

わたしたちが、目を背けているもののなかに、こんなにあったかい人が、ふつうに、生きている

SNSのアルゴリズムが、わたしたちを、似たもの同士の小さなクラスタに閉じ込めようとする時代に、こういう、生身の偶然の繋がりは、ほんとうに、貴重だ

わたしの27歳の世界は、いま、ようやく、外側に向かって、すこし、ひらいた



その日の夜、健太が、わたしの家に、来た。

ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドの上で、ちゃんと、話を、した。

健太は、自分でも調べてきてくれた。

スマホのメモアプリに、箇条書きで、ぱらぱらと、まとめてあった。

男の子が、自分で、性のことを、メモアプリにまとめてくるって、こんなに、嬉しいことなんだ、と、わたしは、ちょっと、感動した。

コンドームは、これからも使う

性感染症のためにも

「うん」

でもそれだけじゃ不安だから、ピルを考えてみない?って言いたかったんだけど」

「うん」

「ピルって、女性の体に負担がかかる部分もあるじゃん?」

「うん」

だから、俺もできることを考えた

「うん」

精管切除(パイプカット)は、まだ俺らの年齢じゃ、早すぎる」

「うん」

男性のためのピルは、まだ研究中で、日本では使えない

「うん、知ってる」

だから、コンドーム+ピルが現実的かなと思って

お金は折半したい」

ピルの費用、半分、出させて

わたしは、ちょっと、泣きそうになった。

「ピル代、半分」って言ってくれる男の人を、わたしは、今までひとりも、知らなかった

──いや、世の中には、たぶん、そういうことを、ふつうに言える男性は、けっこう、増えてきている。

でも、わたしの28年間に、そういう男性が、ひとりも、現れていなかった

それは、健太が偉い、ということもあるし、わたしが、そういう男性に、たどり着くまでに、時間がかかった、ということでもあった。

たぶん、世の中の、いろんな女性が、いま、おなじように、「ピル代、半分」を、ようやく、聞いている

「ありがとう」

避妊って、本当はこういうことだよね」と、わたしは、言った。

健太は、わたしの肩に、自分の額を、くっつけた。

美咲

「うん?」

俺、昨日、美咲のうしろから、薬局まで歩きながら、ずっと考えてた

「うん」

もし、美咲がひとりだったら、どうしてただろうって」

ひとりで、夜中、歩いて、ひとりで、ブースで、ひとりで、薬飲んで、ひとりで、家に帰って

それを、これまで、何人の女性が、ひとりで、やってきたんだろうって」

健太の声は、ふだんの彼の声より、ちょっと、湿っていた。

俺、これから、ぜったい、美咲を、ひとりにしない

わたしは、ぽろっと、涙が、落ちた。

ありがとう

避妊って、本当にね、二人の問題なんだよ

でも、二人になっても、最終的に薬を飲むのは、わたしのからだ

わたしのからだに、優しくしてくれる人と一緒にいられること

それが、たぶん、いちばんの避妊

健太は、わたしの額に、ちいさく、キスを、した。

その夜、わたしと健太は、しばらく、ベッドのなかで、ただ、抱きあって、話を、した。

身体を重ねるよりも、ことばを重ねることのほうが、ずっと、いまのわたしには、大切だった

たぶん、世の中の、関係性のなかで、「ことばを重ねる」って、いちばん、コスパが悪く見えて、実は、いちばん、効くものなんだ、と、思った。



3週間後、わたしは、妊娠検査薬を買って、家のトイレで、ひとりで、結果を待った。

5分後、検査窓に、線は1本だけだった。

陰性。

わたしは、トイレの便座のうえで、すこし、深呼吸をしてから、健太にLINEを、打った。

美咲:「陰性だった」

健太:「よかった」

健太:「ありがとう、ちゃんと教えてくれて」

美咲:「うん」

そのあと、わたしは、もうひとり、報告したい人が、いた。

美咲:「美里さん、お元気ですか

美咲:「この前のドラッグストアで会った、美咲です

美咲:「陰性、確認できました。ご報告まで

3分後、美里さんから、返事が、来た。

美里:「おお、美咲ちゃん、よかった

美里:「わたしも、無事陰性で、いま、お店にシフト入ってきました

美里:「今度、葵といっしょに、お茶しよう。あの子から、美咲ちゃんのこと、聞いてた

美里:「深夜2時の戦友として、これからも、よろしく

わたしは、その「戦友」という言葉を、しばらく、見つめていた。

性のことで、わたしには、戦友が、できた

夜中の薬局で出会った、ぜんぜん違う仕事の、ぜんぜん違う人生の、女性の戦友

わたしの世界は、たぶん、昨日より、すこし、広がった

トイレで、検査薬を握ったまま、わたしは、すこし、笑った。

変な絵面だな、と、自分で、思った。

でも、トイレのなかで、まったく違う仕事の女性に「戦友」って言ってもらえる、こういう27歳は、なかなか、悪くない


目次

美咲のひとり言

健太の「ピル代半分出す」も、嬉しかった。

でも、いま、わたしのなかで、何より、いちばん響いているのは、美里さんの「戦友」だ。

同じ薬を、同じ夜に、同じ街の、別の理由で、別のからだで飲んだ女性

それが、戦友になる

性は、隠すものでも、恥ずかしいものでも、ない

性のために、薬局まで歩いてきた、深夜2時の女性たちは、みんな、自分の人生に、ちゃんと向き合っている

わたしは、これから、その人たちのことを、目を背けないで、ちゃんと、見て、知って、話そうと思う。

そして、OTC化って、わたしひとりの便利さの話じゃない、誰かの命綱の話だった、っていうのを、わたしは、今日、ようやく、わかった気がする。

法律と、制度と、誰かの労働と、誰かの夜が、ぜんぶ、繋がって、わたしの今日の薬の一錠になった

そういう想像を、わたしは、これからも、ちゃんと、する人で、いたい


美咲メモ:今回の学び

緊急避妊薬(アフターピル)について

  • 2026年2月2日から、ノルレボがOTC化:登録薬局で薬剤師の対面販売、処方箋なしで購入可
  • 年齢制限なし、未成年でも保護者同意不要
  • 価格は7,000〜9,000円程度
  • 72時間以内、早いほど効果大:24時間以内なら妊娠阻止率約95%
  • 次の月経が大幅遅れる/量が少ない場合は産婦人科へ
  • 通常の避妊の代用ではない:あくまで緊急時用

避妊について

  • コンドームの実際の失敗率は約13%(典型的使用)
  • 外出しは避妊法ではない
  • デュアル・プロテクション(併用):コンドーム+ピル/IUDが世界の標準
  • 避妊は二人の問題:費用も責任も分担を

OTC化のもうひとつの意味

  • 婦人科の開店時間に合わせて生活できない人にとって、OTCは命綱
  • 夜のシフトで働く人、子育てで時間がない人、地方で婦人科の少ない地域の人
  • OTCは、すべての人のからだの自己決定権を、ちゃんと現実にした制度

相談窓口

  • OTC緊急避妊薬の販売薬局リスト:厚生労働省ウェブサイト(「緊急避妊薬 販売 薬局」で検索)
  • 婦人科のオンライン処方:スマルナ、ピルクル、mederi 等
  • 24時間相談:性犯罪被害でない場合は、保健所・婦人科救急を活用

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第3話|深夜2時、ドラッグストアで



翔の部屋に着いたのは、夜の9時だった。

初台のワンルーム。壁の半分が本棚で、残りはモニターとデスク。一人暮らしを始めた頃からほとんど変わらないシンプルな部屋。窓を開けると首都高の遠い走行音と近くの電車の音が低くまじって聞こえる。

その日は翔の仕事が早く終わったらしくて、近くのオオゼキで半額になっていたお寿司を買って待っていてくれた。発泡スチロールのトレーをふたりで広げる。

「こういう日は刺身いいよね」と、わたしは言って、湯のみにビールを注ぐマネをした。

「いや、ちゃんと缶ビール買ってあるから」

翔は冷蔵庫から銀色のロング缶を2本出した。

ふつうの平日の夜だった。

ビールを飲んで寿司を食べて、お互いの一日の話をした。営業先のおじさんが地味にセクハラっぽいことを言った話。翔のチームの後輩がふつうに泣き出した話。翔のお母さんから「実家に帰ってこないの?」といつものLINEが来た話。

ふだんと同じ平日の夜の会話だった。

そしてなんとなく、ふたりでベッドに転がった。照明を間接照明だけにして、部屋の温度がちょっとだけ暖まっていた。

ふだんと同じ流れだった。そう思っていた。



「やばい、破れた」

翔がそう言ったのは、深夜の1時すぎだった。

外したコンドームを明かりにかざしている。先端のところに爪の先くらいの穴がぽっかり開いていた。

ふたりともしばらく動かなかった。

わたしはベッドのうえで天井をぼうっと見つめた。頭の中で月経周期の計算を始めた。

最終月経の開始日は……たしか12日前。ということは、いまがちょうどいちばんやばい日だ。排卵期、ど真ん中。

「翔」

「うん」

できるだけ落ち着いた声を出そうとした。出なかった。

「これ、たぶん、いちばん妊娠する日」

翔の顔が暗がりのなかでザーッと青くなったのがわかった。

口に手を当てて、長く深く息を吐いた。そのあとぽつりと言った。

「ごめん」

「ううん、翔のせいじゃない」

「いや」

「製造のときの欠陥かもしれないし、保管温度の問題かもしれないし──」

「萌、ごめん」

翔はもう一度言った。その「ごめん」はいつもの軽い「ごめん」じゃなかった。自分のからだから出たものが相手のからだのなかに予期しない結果を残すかもしれない、ということに対する申し訳なさだった。

わたしはそれを聞きながら、不思議とすこし落ち着いた。翔がちゃんといまわたしの身体のことを自分の問題として感じてくれている。

ふと、ネットで読んだことのある似た夜を思い出した。SNSの匿名垢で、彼氏のコンドームが破れたあとひとりでアフターピルを買いに行った女の子の話。「彼に伝えたら責められた」と書いてあった。そういう夜が世の中にはたぶん毎日何百件か起きている。

わたしは運がよかった。



「とりあえず、杏にきく」

ベッドのうえに座り直して、杏に通話した。

夜中だけど、杏は3コール目で出た。

「萌? どした、こんな時間」

「杏、ごめん夜中に。ちょっと急ぎなんだけど」

声がうわずった。できるだけ淡々と状況を説明した。

「了解。落ち着いて聞いてね」

杏の声がいつもの夜勤明けの早口じゃなくて、看護師の声に切り替わった。

「アフターピルって72時間以内に飲めば妊娠を防げるんだよね」と、わたしは確認するように言った。

「うん。早ければ早いほど効くから、24時間以内に飲めるなら妊娠阻止率は95%くらい。72時間で約84%まで落ちる」

「うん」

「で、ここからが朗報なんだけど」

杏は声のトーンをすこし上げた。

「2026年2月2日から、アフターピルが処方箋なしで買えるようになった」

「ノルレボのOTCね」

「研修受けた薬剤師がいる薬局なら対面で買える」

「年齢制限なし、未成年でも保護者同意なし」

「いま開いてるところある?」

「24時間営業の薬局のリストが厚労省のサイトに出てるから検索して」

「あとね」

杏はすこし声を変えた。

「萌、自分のこと責めないで」

「うん?」

「アフターピル飲みに行くって決まるとなんかみんな『私の責任で』ってモードに入るの」

「違うのよ」

「コンドームの破損は誰のせいでもない、ただ起きたこと」

「萌がいまこれから取る行動は、すごく賢明な行動」

「緊急時に薬を選んで薬局まで歩いてちゃんと飲む。それは自分のからだに対する責任のちゃんとした取り方なんだよ」

自分のからだに対する責任のちゃんとした取り方。それは罪悪感とはちがう、自分とのつき合い方だった。

わたしたち世代は何かが起きるとすぐに自分の罪を計算する癖がある。SNSで叩かれた人を見るたびに「次は自分かも」って身構えて、自分の言動の小さなミスを減点していく。だからコンドームの破損ひとつで「わたしのせいだ」と勝手に物語を作りそうになる。でも杏はちゃんとそれを止めてくれた。

「杏、ありがとう」

「いいって。ちゃんと飲んだらまた連絡してね」



電話を切って、Safariで「緊急避妊薬 OTC 販売 薬局 一覧」と検索した。

厚生労働省のページがいちばん上に出てきた。販売可能な登録薬局のリストがPDFで掲載されていた。

ピンチアウトでPDFを拡大して、現在地周辺を探す。

「あった」

「あった?」

「初台駅から徒歩15分。新宿の方角。24時間の薬局」

「行こう」

翔はもうはだしのまま立ち上がっていた。そういう考えるよりからだが先に動くところを、ふだんは思わない瞬間に好きだと思った。



深夜2時の初台から新宿方向。

外に出ると空気がひりっと冷たかった。1月の夜の都心は人通りがほとんどない。タクシーがスピードを出してびゅんびゅん通り過ぎる。コンビニの看板の白い光が点々と歩道を照らしている。

ふたりともほとんど話さなかった。わたしのほうから翔のジャケットの袖をつかんで歩いた。彼の体温が袖越しにちょっとだけ伝わる。それだけでいまの自分がちゃんと地面に足をつけていられる気がした。

「ねえ」と、翔が信号待ちの交差点でぽつりと言った。

「うん」

「俺、コンドームのこと、ちゃんと知らなかったんだな」

「うん。わたしも知らなかった」

「でもさ、ちゃんと知らなかったってのが、いまになってちょっと悔しい」

翔は自分の手の甲をもう片方の手でぎゅっと握っていた。

「俺、20歳のときからコンドーム使ってきて、9年使ってる」

「うん」

「その9年、もしうまく装着できてなかったら、保管悪くて、サイズ合わなくて──知らないあいだに誰かを妊娠させてた可能性があった」

「俺はそれを考えたことがなかった」

翔の声は低かった。怒っているわけでもなく自分を責めているわけでもない、自分の人生のうしろをちゃんと振り返っている人の声だった。

男の人が自分のからだのことをちゃんと振り返るのって、世間であまり推奨されてこなかった。「男なんだから」「気にしすぎ」「考えるな」って、たぶん翔もふだん何度も言われてきたんだと思う。でもいま深夜2時の初台の交差点で、翔はちゃんと自分のからだの過去を振り返っている。

「翔」

「うん」

「いまから知れば、いいよ」

「うん」

「わたしも、いまから知る」

信号が青になった。わたしたちはまた無言で歩き出した。



ドラッグストアは新宿の裏通りにあった。

夜中なのに店内の蛍光灯はキンキンに点いていて、ガラス越しにヘアケア用品やドリンク剤が並んでいる。

自動ドアを抜けると、入口で「いらっしゃいませー」と眠そうな男性店員の声がした。

奥のカウンターに向かうと、わたしの前にもうひとり、女性が並んでいた。

髪をひとつにまとめた黒のコートの、20代後半くらいの女性。白すぎる蛍光灯の下で、メイクはとても丁寧に整えられていて、でも目の下にすこし疲れの色が見えた。唇のリップは剥がれかけていて、たぶんお酒を何杯か飲んだあとの感じ。

彼女は薬剤師さんと半個室のブースで話を始めていた。

5分くらいして、彼女がブースから出てきた。わたしとすこし目が合った。

彼女はふっとちいさく笑った。「お先に」とでも言うように目の端をちょっと下げた。

夜中のドラッグストアの見知らぬ女性ふたりのあいだで交わした、ちいさなアイコンタクト。そこには「お互い大変だね」と「自分のからだ守りに来て偉い」が混ざっていた。

わたしもちょっと笑った。



「お次の方、どうぞ」

薬剤師さんはわたしの目をきちんと見て、ひとつ頷いた。

「ご本人ですね? お時間すこしいただきます。こちらにどうぞ」

半個室のブースに案内された。ガラスのパーテーションで仕切られていて、外から声が聞こえないようになっている。翔は店内のドリンク剤の棚のところで待っていた。

薬剤師さんがファイルを開いて用紙を出した。

  • いつ性行為があったか
  • 月経の最終日、最終開始日
  • 持病はあるか、服薬中の薬はあるか
  • 過去にアレルギーが出たことはあるか
  • 既に妊娠の可能性はないか

ひとつずつゆっくり丁寧に聞かれる。わたしはできるだけ正直に答えた。

自分のからだのプライベートな情報をはじめて会う人に立て続けに伝えるのは、ふつうに変な体験だ。でも薬剤師さんの目つきがわたしの個人情報を「ふつうの薬の処方の前提」として扱ってくれていたから、ちゃんと答えられた。

「ご来局、判断が早くてよかったです」と薬剤師さんは言った。

その言葉に、わたしの肩がふっと落ちた。杏が言ってくれた「賢明な行動」と同じ言葉。わたしの行動は責められるべきものじゃなくて、評価されるべきものだったんだ、とようやく自分のからだで感じた。

「いまから飲んで、72時間以内なら妊娠阻止率は84%ですが、より早く飲んだ方が効果は高いです」

「ここで私の前で服用していただきます」

「3週間後に妊娠検査薬で確認してください」

「次の月経が大幅に遅れたり、量が極端に少なかったりしたら、産婦人科を受診してくださいね」

「あと念のためですが、アフターピルは通常の避妊法の代わりにはなりません。今回のような緊急時のための薬です。普段からの避妊については、また考えてくださいね」

ピンク色の小さな錠剤が薬包紙のうえにひとつだけ載っていた。ノルレボ。

水と一緒にその場で飲んだ。喉をつるりと小さなものが通っていく感覚があった。



レジで会計を済ませて外に出た。

コンビニの外でだいぶ待っていた翔が、わたしの顔を見てようやくふっと息を吐いた。

「ありがとう、付き合ってくれて」とわたしは言った。

「いや、こういう時こそ二人で来るべきだと思う」

外に出ると、さっきの女性がドラッグストアの向かいの自販機の前でホットコーヒーを飲んでいた。

彼女はわたしの顔を見て、またちょっと笑った。

「おつかれさま」

その声はハスキーですこし笑い混じりだった。

「おつかれさまです」とわたしも返した。

「寒いね、深夜のドラッグストア」

「……はい」

彼女はコーヒーをひとくち飲んでから、わたしの隣に立って続けた。

「わたしね、夜の店で働いてて、お客さんが帰ったあとちょっと不安があって、店終わりにここに来たの」

夜の店で働いている、と彼女はふつうに言った。自分の仕事を隠す必要のないものとして口にした。

「OTCになってほんとありがたい」

「うん」

「前は夜中にこういうの起きたら、翌朝の婦人科の開店まで待つしかなかったの」

「翌朝婦人科の予約取って、お金払って、診察受けて、薬もらって、っていうのが、わたしたちの仕事のシフトだとめっちゃ難しかった」

「いまはここですぐ薬飲める」

「それだけでわたしの人生めっちゃ楽になった」

彼女はそう言って、ふっと誇らしげに笑った。

OTC化の意味はわたしひとりにとっての意味じゃない。深夜まで働く女性、性風俗で働く女性、シフトで婦人科に行けない女性、すべての女性にとっての意味。それをわたしは彼女からもらった。

「お名前、聞いていいですか」

自分でもびっくりするくらい自然に口にしていた。

「美里。さくら みさと」と彼女は言った。「あなたは?」

「萌。たにぐち もえ」

彼女はちょっと目を細めた。

「よかったら、LINE交換しません?」と美里さんは言った。

「え、いいんですか?」

「深夜2時の戦友になったんだから、いいでしょう」

わたしたちはドラッグストアの前でQRコードを交換した。

彼女のLINEのアイコンは桜の花びらが舞う一枚の写真だった。季節の写真をアイコンにしている人を、わたしはなんとなく信じられる気がする。



帰りのタクシーの中、わたしは翔にいまのことをぜんぶ話した。

「夜の店の女性で、美里さんっていう人」

「コーヒー飲みながらわたしと話してくれた」

翔はしばらく考えてから言った。

「萌、その人とふつうに話したんだ」

「うん」

「俺、もしひとりで歩いてたら、たぶん距離取っちゃってたかも」

「うん?」

「夜の店の人って、なんとなく別世界の人みたいに思ってた」

わたしは頷いた。わたしも、たぶん5分前まで、そう思っていたかもしれない。でも深夜2時のドラッグストアで、わたしと美里さんは同じ理由でそこに立っていた。それは別世界じゃなかった。

「翔」

「うん」

「わたしたち、性のことまだぜんぜんわかってないね」

「うん。わかってない」

「でもさ、わかってないって認められたから、いまから知れる」

翔はちょっと笑った。

タクシーは初台の細い道をゆっくり走っていた。



翌朝、杏から電話が来た。

「無事飲めた?」

「うん、薬剤師さんすごい丁寧だった」

「よかった。3週間後の妊娠検査も忘れずにね」

「うん。あとさ、杏」

「うん」

「昨日、ドラッグストアの前でおもしろい人に会った」

わたしは美里さんのことを話した。

杏はふっと笑った。

「えっ、美里?」

「えっ、知ってるの?」

「知ってる」

「保健所の無料検査会場でボランティアで看護師してたとき知り合った」

「美里、あの場所でお店の後輩の子の付き添いに来てたの」

「そのあとわたしと話して、それからときどき連絡取り合ってる仲」

「美里はあの業界のなかで性教育とか労働者の安全とかめっちゃ詳しい」

「わたしと並んで、わたしより詳しい部分もある」

「ちょうど萌にもいつか紹介したいって思ってたんだ」

わたしはその偶然にしばらく声が出なかった。

深夜2時のドラッグストアというぜんぜん違う場所で、わたしは杏の友達と出会っていた。世界は思っているより繋がっている。



その日の夜、翔がわたしの家に来た。

ご飯を食べてお風呂に入って、ベッドの上でちゃんと話をした。

翔は自分でも調べてきてくれた。スマホのメモアプリに箇条書きでまとめてあった。男の子が自分で性のことをメモアプリにまとめてくるって、こんなに嬉しいことなんだとちょっと感動した。

「コンドームはこれからも使う」

「性感染症のためにも」

「うん」

「でもそれだけじゃ不安だからピルを考えてみない?って言いたかったんだけど」

「うん」

「ピルって女性の体に負担がかかる部分もあるじゃん?」

「うん」

「だから俺もできることを考えた」

「うん」

「精管切除は、まだ俺らの年齢じゃ早すぎる」

「うん」

「男性のためのピルはまだ研究中で日本では使えない」

「うん、知ってる」

「だからコンドーム+ピルが現実的かなと思って」

「お金は折半したい」

「ピルの費用、半分出させて」

わたしはちょっと泣きそうになった。

「ピル代半分」って言ってくれる男の人を、いままでひとりも知らなかった。世の中にはそういうことをふつうに言える男性はけっこう増えてきているのかもしれない。でもわたしの28年間にはいなかった。

「ありがとう」

「避妊って、本当はこういうことだよね」とわたしは言った。

翔はわたしの肩に自分の額をくっつけた。

「萌」

「うん?」

「俺、昨日、萌のうしろから薬局まで歩きながらずっと考えてた」

「うん」

「もし萌がひとりだったらどうしてただろうって」

「ひとりで夜中歩いて、ひとりでブースで、ひとりで薬飲んで、ひとりで家に帰って」

「それをこれまで何人の女性がひとりでやってきたんだろうって」

翔の声はふだんの彼の声よりちょっと湿っていた。

「俺、これから絶対、萌をひとりにしない」

わたしはぽろっと涙が落ちた。

「ありがとう」

「避妊ってほんとにね、二人の問題なんだよ」

「でも二人になっても、最終的に薬を飲むのはわたしのからだ」

「わたしのからだに優しくしてくれる人と一緒にいられること」

「それがたぶんいちばんの避妊」

その夜、わたしと翔はしばらくベッドのなかでただ抱きあって話をした。身体を重ねるよりもことばを重ねることのほうが、いまのわたしには大切だった。



3週間後、わたしは妊娠検査薬を買って、家のトイレでひとりで結果を待った。

5分後、検査窓に線は1本だけだった。陰性。

すこし深呼吸をしてから翔にLINEを打った。

:「陰性だった」

:「よかった」

:「ありがとう、ちゃんと教えてくれて」

:「うん」

そのあと、もうひとり報告したい人がいた。

:「美里さん、お元気ですか」

:「この前のドラッグストアで会った萌です」

:「陰性、確認できました。ご報告まで」

3分後、美里さんから返事が来た。

美里:「おお、萌ちゃん、よかった」

美里:「わたしも無事陰性で、いまお店にシフト入ってきました」

美里:「今度、杏といっしょにお茶しよう。あの子から萌ちゃんのこと聞いてた」

美里:「深夜2時の戦友として、これからもよろしく」

わたしはその「戦友」という言葉をしばらく見つめていた。

性のことでわたしには戦友ができた。夜中の薬局で出会った、ぜんぜん違う仕事のぜんぜん違う人生の女性の戦友。

トイレで検査薬を握ったまま、わたしはすこし笑った。変な絵面だな、と自分で思った。でもトイレのなかでまったく違う仕事の女性に「戦友」って言ってもらえる、こういう27歳はなかなか悪くない。


萌のひとり言

翔の「ピル代半分出す」も嬉しかった。

でもいまわたしのなかでいちばん響いているのは、美里さんの「戦友」だ。

同じ薬を、同じ夜に、同じ街の、別の理由で、別のからだで飲んだ女性。それが戦友になる。

性は隠すものでも恥ずかしいものでもない。

性のために薬局まで歩いてきた深夜2時の女性たちは、みんな自分の人生にちゃんと向き合っている。

わたしはこれからその人たちのことを目を背けないでちゃんと見て知って話そうと思う。

そしてOTC化ってわたしひとりの便利さの話じゃない、誰かの命綱の話だった、っていうのをわたしは今日ようやくわかった気がする。


萌メモ:今回の学び

緊急避妊薬(アフターピル)について

  • 2026年2月2日から、ノルレボがOTC化:登録薬局で薬剤師の対面販売、処方箋なしで購入可
  • 年齢制限なし、未成年でも保護者同意不要
  • 価格は7,000〜9,000円程度
  • 72時間以内、早いほど効果大:24時間以内なら妊娠阻止率約95%
  • 次の月経が大幅遅れる/量が少ない場合は産婦人科へ
  • 通常の避妊の代用ではない:あくまで緊急時用

避妊について

  • コンドームの実際の失敗率は約13%(典型的使用)
  • 外出しは避妊法ではない
  • デュアル・プロテクション(併用):コンドーム+ピル/IUDが世界の標準
  • 避妊は二人の問題:費用も責任も分担を

OTC化のもうひとつの意味

  • 婦人科の開店時間に合わせて生活できない人にとってOTCは命綱
  • 夜のシフトで働く人、子育てで時間がない人、地方で婦人科の少ない地域の人
  • OTCはすべての人のからだの自己決定権をちゃんと現実にした制度

相談窓口

  • OTC緊急避妊薬の販売薬局リスト:厚生労働省ウェブサイト(「緊急避妊薬 販売 薬局」で検索)
  • 婦人科のオンライン処方:スマルナ、ピルクル、mederi 等
  • 24時間相談:性犯罪被害でない場合は、保健所・婦人科救急を活用

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