健太の部屋に着いたのは、夜の9時だった。
初台のワンルーム。
壁の半分が本棚で、残りはモニターとデスク。
彼が一人暮らしを始めた頃から、ほとんど変わらない、シンプルな部屋。
窓を開けると、首都高の遠い走行音と、近くの電車の音が、低くまじって、聞こえる。
その日は、健太の仕事が早く終わったらしくて、わたしのために、近くのオオゼキで、半額になっていたお寿司を買って、待っていてくれた。
レジ袋から取り出した発泡スチロールのトレーを、ふたりで広げる。
「こういう日は、刺身いいよね」と、わたしは言って、湯のみにビールを注ぐマネをした。
「いや、ちゃんと缶ビール、買ってあるから」
健太は、冷蔵庫から、銀色のロング缶を、2本、出した。
冷えた缶の表面で、指先が、きゅっと縮んだ。
ふつうの、平日の夜だった。
ビールを飲んで、寿司を食べて、お互いの一日の話をした。
営業先のおじさんが、地味にセクハラっぽいことを言った話。
健太のチームの後輩がふつうに泣き出した話。
健太のお母さんから、「実家に帰ってこないの?」と、いつものLINEが来た話。
ふだんと同じ、平日の夜の会話だった。
そして、なんとなく、ふたりで、ベッドに転がった。
照明を、間接照明だけにして、部屋の温度が、ちょっとだけ、暖まっていた。
ふだんと同じ、流れだった。
そう、思っていた。
「やばい、破れた」
健太が、そう言ったのは、深夜の1時すぎだった。
外したコンドームを、彼はティッシュにくるむ前に、なぜか、一瞬、明かりに、かざしていた。
たぶん、感覚で、何かを、察したのだと思う。
先端のところに、明らかに、爪の先くらいの穴が、ぽっかりと、あいていた。
「……」
「……」
ふたりとも、しばらく、動かなかった。
わたしはベッドのうえで、天井を、ぼうっと、見つめた。
頭の中で、月経周期の計算を、始めた。
最終月経の開始日は……たしか、12日前。
ということは、いまが、ちょうど、いちばん、やばい日だ。
排卵期、ど真ん中。
あー、と、思った。
その「あー」は、声に、出なかった。
でも、わたしのからだのなかで、すごく、はっきり、響いた。
「健太」
「うん」
わたしは、できるだけ落ち着いた声を出そうと、した。
出なかった。
「これ、たぶん、いちばん妊娠する日」
健太の顔が、暗がりのなかで、ザーッと、青くなったのが、わかった。
そして、健太は、口に手を当てて、長く、深く、息を、吐いた。
そのあと、ぽつりと、言った。
「ごめん」
「ううん、健太のせいじゃない」
「いや」
「製造のときの欠陥かもしれないし、保管温度の問題かもしれないし──」
「美咲、ごめん」
健太は、もう一度、言った。
その「ごめん」は、いつもの、軽い「ごめん」じゃ、なかった。
自分のからだから出たものが、相手のからだのなかに、本人の予期しない結果を残すかもしれない、ということに対する、男性側の、いちばん根のところからの、申し訳なさだった。
わたしは、それを聞きながら、不思議と、すこし、落ち着いた。
健太が、ちゃんと、いま、わたしの身体のことを、自分の問題として感じてくれている。
それを、わたしは、ちゃんと、受け取った。
──ふと、わたしは、ネットで読んだことのある、知らない誰かの、似た夜を、思い出した。
SNSの匿名垢で、女の子が、彼氏のコンドームが破れたあと、ひとりでアフターピルを買いに行った話。
「彼に伝えたら、責められた」と書いてあった。
そういう夜が、世の中には、たぶん、毎日、何百件か、起きている。
わたしは、運がよかった。
運がよかった、と思える夜を、ちゃんと、運がよかったと言える自分でいたい、と、思った。
「とりあえず、葵にきく」
わたしは、ベッドのうえに、座り直して、葵に通話した。
夜中だけど、葵は、3コール目で、出た。
「美咲? どした、こんな時間」
「葵、ごめん、夜中に。ちょっと、急ぎなんだけど」
声が、うわずった。
わたしは、できるだけ淡々と、状況を、説明した。
電話の向こうで、葵が、何かをカチャッと机に置く音が、した。
「了解。落ち着いて聞いてね」
葵の声が、いつもの夜勤明けの早口じゃなくて、看護師の声に、切り替わったのが、聞こえた。
「アフターピルって、72時間以内に飲めば妊娠を防げるんだよね、よく聞くから知ってる」と、わたしは確認するように、言った。
「うん。早ければ早いほど効くから、24時間以内に飲めるなら、妊娠阻止率は95%くらい。72時間で約84%まで落ちる」
「うん」
「で、ここからが朗報なんだけど」
葵は、声のトーンを、すこし、上げた。
「2026年2月2日から、アフターピルが処方箋なしで買えるようになった」
「ノルレボのOTCね」
「研修受けた薬剤師がいる薬局なら、対面で買える」
「年齢制限なし、未成年でも保護者同意なし」
「いま、開いてるところある?」
「24時間営業の薬局のリストが、厚労省のサイトに出てるから、検索して」
「緊急避妊薬 OTC 販売 薬局で検索したら、出てくる」
「あとね」
葵は、すこし、声を、変えた。
「美咲、自分のこと、責めないで」
「うん?」
「アフターピル飲みに行くって決まると、なんかね、みんな『私の責任で』ってモードに入るの」
「違うのよ」
「コンドームの破損は、誰のせいでもない、ただ起きたこと」
「うん」
「美咲がいま、これから取る行動は、すごく、賢明な行動」
「緊急時に、薬を選んで、薬局まで歩いて、ちゃんと飲む」
「それは、自分のからだに対する、自分の責任の、ちゃんとした取り方なんだよ」
わたしは、電話の向こうの葵の声を、もう一度、ゆっくり、心のなかで、反芻した。
自分のからだに対する、自分の責任の、ちゃんとした取り方。
それは、罪悪感とは、ちがう、自分とのつき合い方だった。
わたしたち世代は、何かが起きると、すぐに、自分の罪を計算する癖がある。
SNSで叩かれた人を見るたびに、「次は自分かも」って身構えて、ふだんから、自分の言動の小さなミスを、減点していく。
だから、コンドームの破損ひとつで、「わたしのせいだ」「わたしが悪い」と、勝手に物語を作りそうになる。
でも、葵は、ちゃんと、それを、止めてくれた。
「葵、ありがとう」
「いいって。ちゃんと飲んだら、また連絡してね」
電話を切って、わたしは、Safariで「緊急避妊薬 OTC 販売 薬局 一覧」と検索した。
厚生労働省のページが、いちばん上に、出てきた。
販売可能な登録薬局のリストが、PDFで、掲載されていた。
「.pdf」っていう拡張子が、いまでも、お役所のサイトの主流であることに、ちょっと、笑った。
でも、その古めかしいPDFのなかに、わたしの命綱が、ちゃんと、リストアップされていた。
ピンチアウトでPDFを拡大して、現在地周辺を、探す。
「あった」
「あった?」
「初台駅から徒歩15分。新宿の方角。24時間の薬局」
「行こう」
健太は、もう、はだしのまま、立ち上がっていた。
そういう、健太の、考えるよりからだが先に動く感じを、わたしは、好きだ、と、ふだんは思わない瞬間に、思った。
深夜2時の初台から、新宿方向。
外に出ると、空気が、ひりっと、冷たかった。
1月の夜の都心は、人通りは、ほとんどない。
タクシーが、スピードを出して、びゅんびゅん、通り過ぎる。
コンビニの看板の白い光が、点々と、歩道を、照らしている。
深夜2時の街は、テレビドラマみたいに、空白で、その空白が、なんか、わたしたちの状況を、ちょっとドラマっぽく見せてしまう。
でも、これは、ドラマじゃない。
わたしの、ふつうの夜だ。
ふたりとも、ほとんど、話さなかった。
わたしのほうから、健太のジャケットの袖を、つかんで、歩いた。
彼の体温が、袖越しに、ちょっとだけ、伝わる。
それだけで、いまの自分が、ちゃんと地面に足をつけて立っていられる気がした。
「ねえ」と、健太が、信号待ちの交差点で、ぽつりと言った。
「うん」
「俺、コンドームのこと、ちゃんと、知らなかったんだな」
「うん。わたしも知らなかった」
「でもさ、ちゃんと知らなかったってのが、いまになってちょっと、悔しい」
健太は、自分の手の甲を、もう片方の手で、ぎゅっと、握っていた。
「俺、20歳のときからコンドーム使ってきて、9年使ってる」
「うん」
「その9年、もし、うまく装着できてなかったら、もし、保管悪くて、もし、サイズ合わなくて──、知らないあいだに、誰かを妊娠させてた可能性が、あった」
「俺は、それを、考えたことが、なかった」
健太の声は、低かった。
怒っているわけでもなく、自分を責めているわけでもない、ようやく自分の人生のうしろを、ちゃんと振り返っている人の声だった。
男の人が、自分のからだのことを、ちゃんと振り返るのって、たぶん、世間で、あまり、推奨されてこなかった。
「男なんだから」「気にしすぎ」「考えるな」って、たぶん、健太も、ふだん、誰かから、何度も言われてきたんだと思う。
でも、いま、深夜2時の初台の交差点で、健太は、ちゃんと、自分のからだの過去を、振り返っている。
「健太」
「うん」
「いまから知れば、いいよ」
「うん」
「わたしも、いまから、知る」
信号が、青になった。
わたしたちは、また、無言で、歩き出した。
15分の道のりが、すごく、長く、感じた。
歩きながら、わたしは、何度も、「たぶん、間に合う、たぶん、大丈夫」と、自分のなかで、唱えていた。
ドラッグストアは、新宿の裏通りに、あった。
夜中なのに、店内の蛍光灯は、キンキンに点いていて、ガラス越しに、棚に並んだヘアケア用品やドリンク剤が、見えた。
自動ドアを抜けると、入口で「いらっしゃいませー」と、眠そうな男性店員の声が、した。
わたしは、できるだけ早足で、奥のカウンターに、向かった。
そして、そのカウンターで、わたしは、思いがけず、自分の前に並んでいる、もうひとりの女性を、見た。
髪をひとつにまとめた、黒のコートの、20代後半くらいの女性。
店内の、白すぎる蛍光灯の下で、彼女のメイクは、とても丁寧に整えられていて、でも、目の下に、すこしだけ、疲れの色が、見えた。
まつ毛は、おそらく、エクステ。アイラインは、ぴしっと、引かれている。
唇のリップは、剥がれかけていて、たぶん、お酒を、何杯か飲んだあとの、剥がれ方。
コートの、肩のあたりに、ほんのり、たばこか、お香みたいな匂いが、ある気がした。
彼女は、薬剤師さんと、半個室のブースで、すでに話を、始めていた。
ガラスのパーテーション越しに、わたしは、なんとなく、待った。
5分くらいして、彼女が、ブースから、出てきた。
わたしと、すこし、目が、合った。
彼女は、ふっと、ちいさく、笑った。
「お先に」とでも言うように、目の端を、ちょっと、下げた。
それは、夜中のドラッグストアの、見知らぬ女性ふたりのあいだで、たまたま交わした、ちいさなアイコンタクト。
でも、そのアイコンタクトには、「お互い、大変だね」と「自分のからだ、ちゃんと守りに来て、えらい」が、混ざっていた。
深夜2時、同じドラッグストア、同じカウンター、同じ薬を求めて並ぶ女性ふたり。
理由はまったく違うかもしれない。
でも、ある瞬間に、ふたりとも、自分のからだを守るために、夜中の歩道を歩いてきた。
それは、けっこう、すごい、共通項だ。
わたしも、ちょっと、笑った。
彼女は、マスクを、直しながら、レジの方へ、歩いていった。
「お次の方、どうぞ」
薬剤師さんは、わたしの目を、きちんと見て、ひとつ、頷いた。
「ご本人ですね? お時間、少しいただきます。こちらにどうぞ」
カウンターの脇に、半個室みたいなブースが、あった。
ガラスのパーテーションで仕切られていて、外から声が、聞こえないようになっている。
小さなテーブルと、椅子が、二つ。
わたしは、そこに案内されて、健太は、店内のドリンク剤の棚のところで、待っていた。
薬剤師さんは、ファイルを開いて、一枚の用紙を、出した。
- いつ、性行為があったか
- 月経の最終日、最終開始日
- 持病はあるか、服薬中の薬はあるか
- 過去にアレルギーが出たことはあるか
- 既に妊娠の可能性はないか
ひとつずつ、ゆっくり、丁寧に、聞かれる。
わたしは、できるだけ正直に、答えた。
こんなふうに、自分のからだのプライベートな情報を、はじめて会う人に、立て続けに伝えるのって、ふつうに、すごく、変な体験だ。
でも、薬剤師さんの目つきが、わたしの個人情報を「ふつうの薬の処方の前提」として扱ってくれていたから、わたしは、ちゃんと、答えられた。
「ご来局、判断が早くて、よかったです」と、薬剤師さんは、言った。
その「ご来局、判断が早くて」という言葉に、わたしの肩が、すこし、ふっ、と、落ちた。
葵が言ってくれた「賢明な行動」と、同じ言葉。
わたしの行動は、責められるべきものじゃなくて、評価されるべきものだったんだ、と、ようやく、自分のからだで、感じた。
「いまから飲んで、72時間以内なら妊娠阻止率は84%ですが、より早く飲んだ方が、効果は高いです」
「ここで、私の前で、服用していただきます」
「それと、3週間後に妊娠検査薬で、確認してください」
「次の月経が大幅に遅れたり、量が極端に少なかったりしたら、産婦人科を受診してくださいね」
「あと、これは念のためですが、アフターピルは通常の避妊法の代わりにはなりません」
「今回のような、緊急時のための薬です」
「普段からの避妊については、また、考えてくださいね」
「OTCで簡単に買えるようになったから、安易に頼らないように、っていう啓発も、わたしたち薬剤師の仕事です」
「美咲さんは、たぶん、今日のことで、これから、避妊について、すごく真剣に考えるようになると思います」
「それでいいんですよ」
薬剤師さんは、にっこり、笑った。
ピンク色の小さな錠剤が、薬包紙のうえに、ひとつだけ、載っていた。
ノルレボ。
水と一緒に、その場で、飲んだ。
喉を、つるりと、小さなものが通っていく感覚が、あった。
そのとき、わたしは、ふと、さっきの、髪をひとつにまとめた女性のことを、思い出した。
あのひとも、いま、わたしと同じ薬を、どこかで、飲んだんだろうか。
あのひとは、これから、家に帰って、ひとりで朝を迎えるんだろうか、それとも、待っている誰かが、いるんだろうか。
深夜2時のドラッグストアで、薬を飲む女性ふたり。
理由はおそらく、ぜんぜん違う。
でも、ふたりとも、自分のからだを、ちゃんと、自分で、守りにきた。
レジで会計を済ませて、ふらっと、外に出た。
コンビニの外で、だいぶ待っていたらしい健太が、わたしの顔を見て、ようやく、ふっと、息を、吐いた。
「ありがとう、付き合ってくれて」と、わたしは言った。
「いや、こういう時こそ、二人で来るべきだと思う」
外に出ると、さっきの女性が、ドラッグストアのすぐ向かいの自販機の前で、ホットコーヒーを、飲んでいた。
自販機の青白い光が、彼女の頬に、横から、当たっていた。
冬の夜中の自販機の前って、なんか、ふだん見えない、その人の、ふだんの顔が、見える気がする。
彼女は、わたしの顔を見て、また、ちょっと、笑った。
「おつかれさま」
その声は、ハスキーで、すこし、笑い混じりだった。
酔いの抜けかけた、夜働きの人の、独特の声色。
「おつかれさま、です」と、わたしも、返した。
「寒いね、深夜のドラッグストア」
「……はい」
彼女は、コーヒーを、ひとくち飲んでから、わたしの隣に立って、続けた。
「わたしね、夜の店で働いてて、お客さんが帰ったあと、ちょっと不安があって、店終わりに、ここに来たの」
わたしは、しばらく、彼女の顔を、見た。
夜の店で働いている、と、彼女は、ふつうに、言った。
自分の仕事を、隠す必要のないものとして、口にした。
世の中には、自分の仕事を、はじめて会った人に説明するときに、ちょっと言葉を選ぶ仕事がある。
SNSのライターとか、占い師とか、夜のお店とか、配信業とか。
世間の偏見を、こちらが、先回りして、薄めようとしてしまう。
でも、彼女は、それを、しなかった。
「あ、ご職業、聞いてしまって、すみません」
「ううん」と、彼女は、笑った。「こっちが、勝手に言っただけ」
彼女は、コーヒーを、両手で、包みながら、続けた。
「OTCになって、ほんと、ありがたい」
「うん」
「前は、夜中にこういうの起きたら、翌朝の婦人科の開店まで、待つしかなかったの」
「翌朝、婦人科の予約取って、お金払って、診察受けて、薬もらって、っていうのが、わたしたちの仕事のシフトだと、めっちゃ難しかった」
「いまは、ここで、すぐ、薬飲める」
「それだけで、わたしの人生、めっちゃ楽になった」
彼女は、そう言って、ふっと、誇らしげに、笑った。
わたしは、頷いた。
彼女の言葉は、わたしと同じ薬を飲んだ女性として、わたしに、ストンと、入ってきた。
OTC化の意味は、わたしひとりにとっての意味じゃない。
深夜まで働く女性、性風俗で働く女性、シフトで婦人科に行けない女性、すべての女性にとっての意味。
それを、わたしは、彼女から、もらった。
そして、すこしだけ、思った。
世の中で、新しい制度が始まるとき、いちばん、それを必要としていた人たちの声を、世間は、いつも、後回しにしてきた。
でも、今夜、わたしは、その「後回しにされてきた人」の隣に、立てている。
それは、わたしのこれからの27歳のなかで、けっこう、大事な瞬間だった。
「お名前、聞いていいですか」
その問いを、わたしは、自分でもびっくりするくらい、自然に、口にしていた。
「美里。さくら みさと」と彼女は言った。「あなたは?」
「美咲。たにぐち みさき」
彼女は、ちょっと、目を、細めた。
「さくらと、みさき。なんか、桜のシーズン感」
わたしは、笑ってしまった。
「よかったら、LINE、交換しません?」と美里さんは、言った。
「え、いいんですか?」
「深夜2時の、戦友になったんだから、いいでしょう」
わたしたちは、ドラッグストアの前で、QRコードを、交換した。
彼女のLINEのアイコンは、桜の花びらが舞う一枚の写真だった。
たぶん、彼女が自分で撮った、上野公園の桜だった。
そういう、ふつうの、自撮りでもない、季節の写真を、アイコンにしている人を、わたしは、なんとなく、信じられる気が、する。
帰りのタクシーの中、わたしは、健太に、いまのことを、ぜんぶ、話した。
「夜の店の女性で、美里さんっていう人」
「コーヒー飲みながら、わたしと話してくれた」
健太は、しばらく、考えてから、言った。
「美咲、その人と、ふつうに話したんだ」
「うん」
「俺、もしひとりで歩いてたら、たぶん、距離取っちゃってたかも」
「うん?」
「夜の店の人って、なんとなく、別世界の人みたいに思ってた」
わたしは、頷いた。
わたしも、たぶん、5分前まで、そう思っていたかもしれない。
でも、深夜2時のドラッグストアで、わたしと美里さんは、同じ理由でそこに立っていた。
それは、別世界、じゃなかった。
世の中の「別世界」って、ぜんぶ、こういうふうに、なくなっていけばいいのにな、と、わたしは、車窓に頭を預けながら、ぼんやり、思った。
「健太」
「うん」
「わたしたち、性のこと、まだ、ぜんぜん、わかってないね」
「うん。わかってない」
「でもさ、わかってない、って認められたから、いまから、知れる」
健太は、ちょっと、笑った。
タクシーは、初台の細い道を、ゆっくり、走っていた。
窓の外で、緑色の信号が、ゆっくり、流れていく。
信号が、緑のまま、ずっと、流れていく道って、なんか、いまの自分たちの夜にちょうどよかった。
翌朝、葵から、電話が来た。
「無事飲めた?」
「うん、薬剤師さん、すごい丁寧だった」
「よかった。3週間後の妊娠検査も、忘れずにね」
「うん。あとさ、葵」
「うん」
「昨日、ドラッグストアの前で、おもしろい人に会った」
わたしは、美里さんのことを、話した。
葵は、ふっと、笑った。
「えっ、美里?」
「えっ、知ってるの?」
「知ってる」
「保健所の無料検査会場で、ボランティアで看護師してたとき、知り合った」
「美里、あの場所で、お店の後輩の子の付き添いに来てたの」
「お店の同僚の女の子が、検査怖がってて、美里がついてきて、いっしょに検査受けてた」
「そのあと、わたしと話して、それから、ときどき連絡取り合ってる仲」
「美里は、あの業界のなかで、性教育とか労働者の安全とか、めっちゃ詳しい」
「わたしと並んで、わたしより詳しい部分も、ある」
「ちょうど、美咲にも、いつか紹介したいって思ってたんだ」
わたしは、その偶然に、しばらく、声が、出なかった。
深夜2時のドラッグストア、というぜんぜん違う場所で、わたしは、葵の友達と、出会っていた。
世界は、思っているより、繋がっている。
わたしたちが、目を背けているもののなかに、こんなにあったかい人が、ふつうに、生きている。
SNSのアルゴリズムが、わたしたちを、似たもの同士の小さなクラスタに閉じ込めようとする時代に、こういう、生身の偶然の繋がりは、ほんとうに、貴重だ。
わたしの27歳の世界は、いま、ようやく、外側に向かって、すこし、ひらいた。
その日の夜、健太が、わたしの家に、来た。
ご飯を食べて、お風呂に入って、ベッドの上で、ちゃんと、話を、した。
健太は、自分でも調べてきてくれた。
スマホのメモアプリに、箇条書きで、ぱらぱらと、まとめてあった。
男の子が、自分で、性のことを、メモアプリにまとめてくるって、こんなに、嬉しいことなんだ、と、わたしは、ちょっと、感動した。
「コンドームは、これからも使う」
「性感染症のためにも」
「うん」
「でもそれだけじゃ不安だから、ピルを考えてみない?って言いたかったんだけど」
「うん」
「ピルって、女性の体に負担がかかる部分もあるじゃん?」
「うん」
「だから、俺もできることを考えた」
「うん」
「精管切除(パイプカット)は、まだ俺らの年齢じゃ、早すぎる」
「うん」
「男性のためのピルは、まだ研究中で、日本では使えない」
「うん、知ってる」
「だから、コンドーム+ピルが現実的かなと思って」
「お金は折半したい」
「ピルの費用、半分、出させて」
わたしは、ちょっと、泣きそうになった。
「ピル代、半分」って言ってくれる男の人を、わたしは、今までひとりも、知らなかった。
──いや、世の中には、たぶん、そういうことを、ふつうに言える男性は、けっこう、増えてきている。
でも、わたしの28年間に、そういう男性が、ひとりも、現れていなかった。
それは、健太が偉い、ということもあるし、わたしが、そういう男性に、たどり着くまでに、時間がかかった、ということでもあった。
たぶん、世の中の、いろんな女性が、いま、おなじように、「ピル代、半分」を、ようやく、聞いている。
「ありがとう」
「避妊って、本当はこういうことだよね」と、わたしは、言った。
健太は、わたしの肩に、自分の額を、くっつけた。
「美咲」
「うん?」
「俺、昨日、美咲のうしろから、薬局まで歩きながら、ずっと考えてた」
「うん」
「もし、美咲がひとりだったら、どうしてただろうって」
「ひとりで、夜中、歩いて、ひとりで、ブースで、ひとりで、薬飲んで、ひとりで、家に帰って」
「それを、これまで、何人の女性が、ひとりで、やってきたんだろうって」
健太の声は、ふだんの彼の声より、ちょっと、湿っていた。
「俺、これから、ぜったい、美咲を、ひとりにしない」
わたしは、ぽろっと、涙が、落ちた。
「ありがとう」
「避妊って、本当にね、二人の問題なんだよ」
「でも、二人になっても、最終的に薬を飲むのは、わたしのからだ」
「わたしのからだに、優しくしてくれる人と一緒にいられること」
「それが、たぶん、いちばんの避妊」
健太は、わたしの額に、ちいさく、キスを、した。
その夜、わたしと健太は、しばらく、ベッドのなかで、ただ、抱きあって、話を、した。
身体を重ねるよりも、ことばを重ねることのほうが、ずっと、いまのわたしには、大切だった。
たぶん、世の中の、関係性のなかで、「ことばを重ねる」って、いちばん、コスパが悪く見えて、実は、いちばん、効くものなんだ、と、思った。
3週間後、わたしは、妊娠検査薬を買って、家のトイレで、ひとりで、結果を待った。
5分後、検査窓に、線は1本だけだった。
陰性。
わたしは、トイレの便座のうえで、すこし、深呼吸をしてから、健太にLINEを、打った。
美咲:「陰性だった」
健太:「よかった」
健太:「ありがとう、ちゃんと教えてくれて」
美咲:「うん」
そのあと、わたしは、もうひとり、報告したい人が、いた。
美咲:「美里さん、お元気ですか」
美咲:「この前のドラッグストアで会った、美咲です」
美咲:「陰性、確認できました。ご報告まで」
3分後、美里さんから、返事が、来た。
美里:「おお、美咲ちゃん、よかった」
美里:「わたしも、無事陰性で、いま、お店にシフト入ってきました」
美里:「今度、葵といっしょに、お茶しよう。あの子から、美咲ちゃんのこと、聞いてた」
美里:「深夜2時の戦友として、これからも、よろしく」
わたしは、その「戦友」という言葉を、しばらく、見つめていた。
性のことで、わたしには、戦友が、できた。
夜中の薬局で出会った、ぜんぜん違う仕事の、ぜんぜん違う人生の、女性の戦友。
わたしの世界は、たぶん、昨日より、すこし、広がった。
トイレで、検査薬を握ったまま、わたしは、すこし、笑った。
変な絵面だな、と、自分で、思った。
でも、トイレのなかで、まったく違う仕事の女性に「戦友」って言ってもらえる、こういう27歳は、なかなか、悪くない。
美咲のひとり言
健太の「ピル代半分出す」も、嬉しかった。
でも、いま、わたしのなかで、何より、いちばん響いているのは、美里さんの「戦友」だ。
同じ薬を、同じ夜に、同じ街の、別の理由で、別のからだで飲んだ女性。
それが、戦友になる。
性は、隠すものでも、恥ずかしいものでも、ない。
性のために、薬局まで歩いてきた、深夜2時の女性たちは、みんな、自分の人生に、ちゃんと向き合っている。
わたしは、これから、その人たちのことを、目を背けないで、ちゃんと、見て、知って、話そうと思う。
そして、OTC化って、わたしひとりの便利さの話じゃない、誰かの命綱の話だった、っていうのを、わたしは、今日、ようやく、わかった気がする。
法律と、制度と、誰かの労働と、誰かの夜が、ぜんぶ、繋がって、わたしの今日の薬の一錠になった。
そういう想像を、わたしは、これからも、ちゃんと、する人で、いたい。
美咲メモ:今回の学び
緊急避妊薬(アフターピル)について
- 2026年2月2日から、ノルレボがOTC化:登録薬局で薬剤師の対面販売、処方箋なしで購入可
- 年齢制限なし、未成年でも保護者同意不要
- 価格は7,000〜9,000円程度
- 72時間以内、早いほど効果大:24時間以内なら妊娠阻止率約95%
- 次の月経が大幅遅れる/量が少ない場合は産婦人科へ
- 通常の避妊の代用ではない:あくまで緊急時用
避妊について
- コンドームの実際の失敗率は約13%(典型的使用)
- 外出しは避妊法ではない
- デュアル・プロテクション(併用):コンドーム+ピル/IUDが世界の標準
- 避妊は二人の問題:費用も責任も分担を
OTC化のもうひとつの意味
- 婦人科の開店時間に合わせて生活できない人にとって、OTCは命綱
- 夜のシフトで働く人、子育てで時間がない人、地方で婦人科の少ない地域の人
- OTCは、すべての人のからだの自己決定権を、ちゃんと現実にした制度
相談窓口
- OTC緊急避妊薬の販売薬局リスト:厚生労働省ウェブサイト(「緊急避妊薬 販売 薬局」で検索)
- 婦人科のオンライン処方:スマルナ、ピルクル、mederi 等
- 24時間相談:性犯罪被害でない場合は、保健所・婦人科救急を活用
← 第2話 | 次のお話:第4話 リサ夫婦の、ブライダルチェック →
