葵編 第3話|伯母さんの台所



ゴールデンウィーク、後半の3日間、わたしは鎌倉の伯母さんのところに、ひとりで遊びに行った。

伯母さん、柊木 沙織、52歳。

わたしの母の姉で、もと中学校の家庭科教師。

4年前に早期退職して、いまは、鎌倉の古い一軒家で、伯父さんとふたりで暮らしている。

子どもはいない。代わりに、わたしと、わたしの妹を、ちっちゃいときから、ずっとかわいがってくれた。

ふだんは、にこにこと、お菓子を焼いて、お茶をいれてくれる伯母さん。

でも、その日、わたしが鎌倉駅で会った伯母さんは、ちょっとだけ、痩せていた

「あら、葵、すこし、雰囲気変わった?」

「あ、ピンクのリップ、はじめてつけてみました」

いいじゃない、似合うよ

伯母さんは、にこっと笑った。

笑い方は、いつもの伯母さんだった。

でも、目のまわりに、小さな疲れが、たまっていた



伯母さんの家は、北鎌倉から坂をのぼったところにある、古い木造の家。

庭には、藤棚と、紫陽花の蕾。

夕食の時間、伯父さんは、近所のお酒の好きな友人と、外で飲んでくる、ということで、家には伯母さんとわたしの2人だけだった。

伯母さんが、台所で、お味噌汁を作りながら、急に手を止めた。

葵、ちょっと、ごめんね、暑い

わたしは、首をかしげた。

5月の鎌倉、夕方、肌寒いくらいだった。

伯母さんは、エプロンの胸元をぱたぱた仰いで、お風呂場に行って、しばらく、戻ってこなかった。

5分くらいして、戻ってきた伯母さんは、ハンドタオルで、こめかみと首の汗を、ふいていた。

ごめんね、急に、汗、噴き出すの

「だいじょうぶ?」

ううん、これ、いつもなの

そう言って、伯母さんは、しずかに、ためいきをついた。



夕食は、お味噌汁と、しらすのまぜご飯と、菜の花のおひたしと、卵焼き。

向かい合って座って、ごはんを食べはじめた。

伯母さんは、3口くらい食べて、おはしを置いた。

葵、伯母さんね、いま、更年期なの

「あ、はい」

葵に、すこし、聞いてもらってもいいかな

わたしは、おはしを、置いた。

もちろんです



伯母さんは、ぽつぽつと、自分のからだのことを、話してくれた。

伯母さんの更年期、いま

  • 48歳のころから、月経がだんだん不規則に
  • 50歳で閉経(半年こなくなって、医師に確認)
  • 51歳のころから、急にこれまで経験したことがない不調
  • ホットフラッシュ(急に上半身が熱くなる、汗が噴き出す):1日5〜10回
  • 不眠:寝ても2時間で目が覚めて、その後、寝つけない
  • 動悸:何もしていなくて、心拍が早くなる
  • イライラ:理由なく、急に泣く
  • うつ気味:朝、布団から出るのに、毎朝、20分かかる
  • 関節痛:とくに膝
  • ドライアイ・ドライマウス

わたし、教師のときから、自分のことを、わりと「大丈夫な人」と思って生きてきたの

「うん」

でも、51歳の冬、台所で、急に、わけもなく、立ったまま、号泣したのね

「うん」

そのとき、はじめて、「あ、わたしのからだ、なにかが、変わってる」って気づいた

📖 もっと詳しく:閉経年齢の正常範囲(45〜55歳)、月経周期の正常範囲(25〜38日)、月経異常の見方は [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。閉経は突然来るわけではなく、数年かけてホルモンが変わること、そしてその時期を「更年期」と呼ぶこと――この基礎知識があるだけで、自分のからだの変化が「異常」ではなく「ふつう」と思えます。



伯母さんは、52歳の春、ようやく、婦人科に行った。

医師から、こう言われたという。

沙織さん、これは、典型的な、更年期症状です。ホットフラッシュ、不眠、抑うつは、エストロゲン(女性ホルモン)の急激な低下による、ふつうの反応です

そして、医師は、こう続けたそうだ。

つらさが日常生活に影響しているなら、HRT(ホルモン補充療法)を検討する選択肢があります

伯母さんは、HRTの説明を受けて、いったん家に持ち帰った、という。

そして、それを、まだ、決めかねている。



わたしは、ナチュラルに、聞いてしまった。

伯母さん、HRTって、なんですか?

伯母さんは、すこし、笑った。

葵が知らないのは、当たり前。わたしも、52歳まで、ぜんぜん知らなかった

伯母さんは、立ち上がって、自分の引き出しから、医師にもらったパンフレットを持ってきた。

そのパンフレットを、わたしと一緒に、読んだ。

ホルモン補充療法(HRT)とは

#### 概要

  • 更年期症状の原因であるエストロゲン低下を、薬で補う治療
  • 内服薬(飲み薬)、貼付薬(パッチ)、塗り薬(ジェル)など、いくつかの方法
  • 更年期症状に対して、約80%の有効率(国際的にも、最も有効な治療と考えられている)

#### 期待できる効果

  • ホットフラッシュ・発汗の改善
  • 不眠・うつ気分の改善
  • 関節痛・腟の乾燥の改善
  • 骨粗しょう症の予防
  • 動脈硬化の予防効果(閉経後10年以内に開始した場合)

#### 注意点・リスク

  • 乳がん:5年以上の長期使用で、わずかにリスクが上昇する報告
  • 子宮内膜増殖:子宮がある人は、エストロゲン単独ではなく、プロゲスチン併用が必要
  • 静脈血栓症:内服薬で、わずかにリスク上昇(パッチ・ジェルではほぼ上昇しない)
  • 40〜45歳未満で開始した場合のみ、リスク・ベネフィットは別評価
  • 閉経から10年以上経過、または60歳以上で初めて開始する場合は、慎重に検討

#### 継続できる期間

  • 「いつまで」という一律の年齢や期間はない、というのが世界的な統一見解
  • 症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ

📖 もっと詳しく:HRTのほか、LEP(低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬)IUS(ミレーナ) といったホルモン製剤の使い分け(避妊目的・治療目的・更年期目的)は [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) と [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。「ピルやHRTは怖い」という日本特有の心理的ハードル(OECD平均と比べてピル使用率が低い背景)も解説しています。



伯母さんが、ぽつりと、言った。

葵、伯母さんね、HRTを、はじめるの、ちょっと、こわいの

「どうしてですか?」

「乳がん」って言葉が、こわい

「うん」

わたしは、しずかに、伯母さんに聞いた。

いま、どれくらい、つらいですか?

伯母さんは、ほんとに長く、しずかにしていた。

そして、こう言った。

朝、布団から、出られない日が、月の半分

「うん」

伯父さんとも、ほとんど、しゃべらなくなった

「うん」

わたし、たぶん、いまの自分が、自分で、いやなの

わたしは、伯母さんの手を、机のうえで、握った。



伯母さんは、ほっとしたように、ちょっと笑った。

そして、こう続けた。

葵、もうひとつ、ぜんぜん、別の話なんだけど

「うん」

伯父さんとね、もう、5年くらい、セックスがないの

「あ、はい」

最初は、なんとなくの、すれ違いだったの

「うん」

でも、いまは、わたしのからだが、痛くて、できない

わたしは、息を止めた。

痛い



伯母さんは、しずかに、教えてくれた。

閉経後の腟の変化(GSM)

  • GSM(Genitourinary Syndrome of Menopause):閉経後泌尿生殖器症候群
  • 閉経後のエストロゲン低下で、腟の壁が、薄く・乾きやすく・もろくなる
  • 性交時に痛み・出血が起きやすくなる
  • 尿もれ・頻尿・尿路感染症 も、起きやすくなる
  • 40代後半の女性の20〜40%が、なんらかのGSM症状を経験
  • 多くの女性が、恥ずかしさから、医師に相談しない

わたしね、これも、医師に相談するまで、「年だから仕方ない」って思ってたの

#### GSMへのアプローチ

  • 保湿ジェル・ローション(市販のものでもよい)
  • 腟用エストロゲン製剤(局所投与・全身への影響は少ない)
  • HRT(全身的に補充する場合は、GSMの改善効果もあり)
  • 痛みのある性交を、無理してつづけない

痛みを、我慢して、夫に合わせるのは、それは、もう、性的な関係として、健康じゃないって、医師に言われた」

伯母さんは、ぽつりと言った。

でも、夫にどう話せばいいか、わからなくて、ずっと、わたし、口を閉じてた

📖 もっと詳しく性交痛は「年のせい」ではなく、医学的に治療できるサイン です。子宮内膜症・骨盤底機能障害・腟けいれんなど、年齢を問わず原因はさまざま。[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「4. 性機能の悩み」と、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「4. 月経のトラブル」(子宮内膜症・腺筋症)を合わせて読むと、若い世代の性交痛から閉経後のGSMまで、ひとつながりの問題として見えてきます。

>

📖 そして「言わなかったから、わかってもらえなかった」を超えるためのヒント:パートナーと性について話す具体的な質問例(「何が気持ちよくて、何が嫌か」「セーフワード」など)は [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) の「11. パートナーとの性的コミュニケーション」に。コンセントは、若い恋人だけのテーマではなく、長年のパートナーシップにこそ必要なものです。



そのとき、玄関のドアが、開いた。

ただいまー

伯父さんが、ほんのりお酒を飲んで、帰ってきた。

伯母さんは、急いで、笑顔をつくって、伯父さんに、お茶をいれた。

伯父さんは、わたしに、「葵、ひさしぶりだなあ」と、いつもの笑顔で、声をかけてくれた。

3人で、お茶を飲みながら、しばらく、雑談をした。

23時、伯父さんは、お風呂に入った。

わたしと伯母さんは、台所のテーブルで、コーヒーを淹れなおした。

そのとき、わたしは、すこし、勇気を出して、伯母さんに、こう言った。

伯母さん、伯父さんに、話してみませんか?



伯母さんは、目をあげた。

話す?

はい。からだのことも、夫婦のあいだのことも

そんなの、恥ずかしい

でも、伯母さんが、いま、苦しんでること、伯父さんは、たぶん、ぜんぜん、わかってない

伯母さんは、しばらく、黙っていた。

葵、わたしね、夫の世代の男のひとは、こういう話を、聞きたくない、って思ってる気がしてた

「うん」

でも、たぶん、それは、「伯父さんに、聞かせたくない」って、わたしが思ってたんだと思う

わたしは、しずかに、うなずいた。

わたしは、看護師でもないし、医者でもないけど

「うん」

最近、ちょっとだけ、「言わなかったから、わかってもらえなかった」っていうこと、自分でもあるなあ、って思ってて

「うん」

伯父さん、たぶん、知りたいと思います



その夜、わたしは、客間で寝た。

夜中、お手洗いに起きたら、台所のあかりが、ついていた。

そっと、廊下から、台所をのぞくと、伯母さんと、伯父さんが、向かい合って座っていた。

伯母さんは、医師にもらったHRTのパンフレットを、伯父さんに見せていた。

伯父さんは、しずかに、それを読んでいた。

途中で、伯父さんは、伯母さんの手を、両手で、つつんだ。

わたしは、見てはいけないものを見た気がして、急いで、客間に戻った。

朝になって、伯父さんは、伯母さんと一緒に、北鎌倉の駅まで、わたしを送ってくれた。

伯母さんは、わたしに、ぎゅっと、ハグをして、こう言った。

葵、ありがとう

わたし、なにもしてないですよ

ううん。葵がいたから、わたし、話せた

伯父さんも、後ろで、にっこり笑って、わたしに、手を振ってくれた。



電車に揺られながら、横浜に戻る道、わたしは、ぼんやり、考えていた。

52歳の伯母さん。

52歳のからだ。

52歳の心。

それは、いまの27歳の、わたしには、ピンとこない、未来。

でも、確実に、わたしも、いつか、そこに行く。

そして、たぶん、伯母さんと、まったく同じことで、悩む。

汗が出る、寝られない、痛い、夫婦の心が、遠くなる。

そのときに、わたしは、いまの伯母さんのことを、思い出せるだろうか?

そのときに、わたしは、ちゃんと、医師に、相談できるだろうか?

そのときに、わたしは、ちゃんと、隣にいる人に、「いま、こういう状態なの」って、話せるだろうか?

そのために、いまから、すこしずつ、自分のからだのことを、知っていこう。

横浜駅についたとき、まりあから、LINEが来ていた。

まりあ:葵、ゴールデンウィーク、どうだった?

まりあ:5月、髪、5センチ切りに、おいで。

わたしは、返信した。

葵:たくさん、話せた。

葵:5月の、はじめての土曜、行きます。

葵:5センチ、お願いします。

葵:そのあと、はじめて、婦人科にも、行ってみる。

「自分のからだを知ること」は、未来の自分への、いちばんの贈り物かもしれない。


目次

今日、葵が学んだこと

  • 日本人女性の閉経の平均年齢は50.5歳更年期は45〜55歳
  • 40〜60歳の女性の60〜80%が、なんらかの更年期症状を経験
  • HRT(ホルモン補充療法)は、更年期症状に約80%の有効率
  • HRTには乳がん・血栓症などのわずかなリスクもあるが、症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ
  • GSM(閉経後泌尿生殖器症候群):腟の乾燥・痛み・尿もれは、年齢ではなく、ホルモン低下による医学的変化。治療できる
  • 「セックスが痛い」を我慢する必要はない。医師に相談していい
  • 「言わなかったから、わかってもらえなかった」は、夫婦のあいだでも、ある
  • 中年期の女性の不調は、「年齢のせい」「気のせい」ではなく、ホルモンの医学的変化

相談窓口

  • 公益社団法人 女性の健康とメノポーズ協会:更年期や女性のからだの相談
  • HP:https://www.meno-sg.net/
  • 日本産科婦人科学会「女性の健康Q&A」
  • 女性の健康推進室 ヘルスケアラボ(厚生労働省研究班)
  • 更年期相談(各都道府県の女性健康支援センター):自治体HPで「更年期相談」で検索
  • DV相談プラス:0120-279-889(夫婦間の性交強要は性的DV)

📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動

この話で出てきたこと より深く学ぶには
閉経、月経の正常範囲、初経・閉経年齢 [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 周期25〜38日/持続3〜7日/経血量20〜140ml/日本人女性の閉経平均約50歳
HRT・GSM・性交痛・腟の乾燥 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性機能の悩み(性交痛・腟けいれん・オーガズム障害)/中年期のライフステージ
LEP・IUS(ミレーナ)など、閉経前にも使えるホルモン治療 [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) ─ ピル使用率の国際比較、IUSの保険適用/[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 月経困難症・過多月経の治療
夫婦のセックスレス、パートナーとどう話すか [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ セックスレス(日本の約50%)、カップルカウンセリング/[第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 「No」と「Yes」の両方が言える関係
「年齢のせい」「気のせい」とされてきた女性の不調 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ ホルモンと気分(PMS/PMDD・更年期障害・産後うつ)
WHOの「性の健康」の定義 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 「性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態」

次の一歩:男性パートナーが更年期について理解を深めたいときは、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「7. 男性も知っておきたい月経の知識」と、[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の 「LOH症候群(男性更年期)」 を合わせて読むと、お互いの中年期のからだを対等に話しやすくなります。


次回|(予定)第4話 課長の薬箱、40歳のプレ更年期

仕事ができる神田課長が、月のうち1週間、まったく動けない理由。プレ更年期、低用量ピル、ホルモン補充療法、そして「働く女性の40代のからだ」のはなし。

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葵編 第3話|伯母さんの台所



ゴールデンウィーク、後半の3日間、わたしは鎌倉の伯母さんのところに、ひとりで遊びに行った。

伯母さん、柊木 沙織、52歳。

わたしの母の姉で、もと中学校の家庭科教師。

4年前に早期退職して、いまは、鎌倉の古い一軒家で、伯父さんとふたりで暮らしている。

子どもはいない。代わりに、わたしと、わたしの妹を、ちっちゃいときから、ずっとかわいがってくれた。

ふだんは、にこにこと、お菓子を焼いて、お茶をいれてくれる伯母さん。

でも、その日、わたしが鎌倉駅で会った伯母さんは、ちょっとだけ、痩せていた

「あら、葵、すこし、雰囲気変わった?」

「あ、ピンクのリップ、はじめてつけてみました」

いいじゃない、似合うよ

伯母さんは、にこっと笑った。

笑い方は、いつもの伯母さんだった。

でも、目のまわりに、小さな疲れが、たまっていた



伯母さんの家は、北鎌倉から坂をのぼったところにある、古い木造の家。

庭には、藤棚と、紫陽花の蕾。

夕食の時間、伯父さんは、近所のお酒の好きな友人と、外で飲んでくる、ということで、家には伯母さんとわたしの2人だけだった。

伯母さんが、台所で、お味噌汁を作りながら、急に手を止めた。

葵、ちょっと、ごめんね、暑い

わたしは、首をかしげた。

5月の鎌倉、夕方、肌寒いくらいだった。

伯母さんは、エプロンの胸元をぱたぱた仰いで、お風呂場に行って、しばらく、戻ってこなかった。

5分くらいして、戻ってきた伯母さんは、ハンドタオルで、こめかみと首の汗を、ふいていた。

ごめんね、急に、汗、噴き出すの

「だいじょうぶ?」

ううん、これ、いつもなの

そう言って、伯母さんは、しずかに、ためいきをついた。



夕食は、お味噌汁と、しらすのまぜご飯と、菜の花のおひたしと、卵焼き。

向かい合って座って、ごはんを食べはじめた。

伯母さんは、3口くらい食べて、おはしを置いた。

葵、伯母さんね、いま、更年期なの

「あ、はい」

葵に、すこし、聞いてもらってもいいかな

わたしは、おはしを、置いた。

もちろんです



伯母さんは、ぽつぽつと、自分のからだのことを、話してくれた。

伯母さんの更年期、いま

  • 48歳のころから、月経がだんだん不規則に
  • 50歳で閉経(半年こなくなって、医師に確認)
  • 51歳のころから、急にこれまで経験したことがない不調
  • ホットフラッシュ(急に上半身が熱くなる、汗が噴き出す):1日5〜10回
  • 不眠:寝ても2時間で目が覚めて、その後、寝つけない
  • 動悸:何もしていなくて、心拍が早くなる
  • イライラ:理由なく、急に泣く
  • うつ気味:朝、布団から出るのに、毎朝、20分かかる
  • 関節痛:とくに膝
  • ドライアイ・ドライマウス

わたし、教師のときから、自分のことを、わりと「大丈夫な人」と思って生きてきたの

「うん」

でも、51歳の冬、台所で、急に、わけもなく、立ったまま、号泣したのね

「うん」

そのとき、はじめて、「あ、わたしのからだ、なにかが、変わってる」って気づいた

📖 もっと詳しく:閉経年齢の正常範囲(45〜55歳)、月経周期の正常範囲(25〜38日)、月経異常の見方は [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。閉経は突然来るわけではなく、数年かけてホルモンが変わること、そしてその時期を「更年期」と呼ぶこと――この基礎知識があるだけで、自分のからだの変化が「異常」ではなく「ふつう」と思えます。



伯母さんは、52歳の春、ようやく、婦人科に行った。

医師から、こう言われたという。

沙織さん、これは、典型的な、更年期症状です。ホットフラッシュ、不眠、抑うつは、エストロゲン(女性ホルモン)の急激な低下による、ふつうの反応です

そして、医師は、こう続けたそうだ。

つらさが日常生活に影響しているなら、HRT(ホルモン補充療法)を検討する選択肢があります

伯母さんは、HRTの説明を受けて、いったん家に持ち帰った、という。

そして、それを、まだ、決めかねている。



わたしは、ナチュラルに、聞いてしまった。

伯母さん、HRTって、なんですか?

伯母さんは、すこし、笑った。

葵が知らないのは、当たり前。わたしも、52歳まで、ぜんぜん知らなかった

伯母さんは、立ち上がって、自分の引き出しから、医師にもらったパンフレットを持ってきた。

そのパンフレットを、わたしと一緒に、読んだ。

ホルモン補充療法(HRT)とは

#### 概要

  • 更年期症状の原因であるエストロゲン低下を、薬で補う治療
  • 内服薬(飲み薬)、貼付薬(パッチ)、塗り薬(ジェル)など、いくつかの方法
  • 更年期症状に対して、約80%の有効率(国際的にも、最も有効な治療と考えられている)

#### 期待できる効果

  • ホットフラッシュ・発汗の改善
  • 不眠・うつ気分の改善
  • 関節痛・腟の乾燥の改善
  • 骨粗しょう症の予防
  • 動脈硬化の予防効果(閉経後10年以内に開始した場合)

#### 注意点・リスク

  • 乳がん:5年以上の長期使用で、わずかにリスクが上昇する報告
  • 子宮内膜増殖:子宮がある人は、エストロゲン単独ではなく、プロゲスチン併用が必要
  • 静脈血栓症:内服薬で、わずかにリスク上昇(パッチ・ジェルではほぼ上昇しない)
  • 40〜45歳未満で開始した場合のみ、リスク・ベネフィットは別評価
  • 閉経から10年以上経過、または60歳以上で初めて開始する場合は、慎重に検討

#### 継続できる期間

  • 「いつまで」という一律の年齢や期間はない、というのが世界的な統一見解
  • 症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ

📖 もっと詳しく:HRTのほか、LEP(低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬)IUS(ミレーナ) といったホルモン製剤の使い分け(避妊目的・治療目的・更年期目的)は [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) と [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) に。「ピルやHRTは怖い」という日本特有の心理的ハードル(OECD平均と比べてピル使用率が低い背景)も解説しています。



伯母さんが、ぽつりと、言った。

葵、伯母さんね、HRTを、はじめるの、ちょっと、こわいの

「どうしてですか?」

「乳がん」って言葉が、こわい

「うん」

わたしは、しずかに、伯母さんに聞いた。

いま、どれくらい、つらいですか?

伯母さんは、ほんとに長く、しずかにしていた。

そして、こう言った。

朝、布団から、出られない日が、月の半分

「うん」

伯父さんとも、ほとんど、しゃべらなくなった

「うん」

わたし、たぶん、いまの自分が、自分で、いやなの

わたしは、伯母さんの手を、机のうえで、握った。



伯母さんは、ほっとしたように、ちょっと笑った。

そして、こう続けた。

葵、もうひとつ、ぜんぜん、別の話なんだけど

「うん」

伯父さんとね、もう、5年くらい、セックスがないの

「あ、はい」

最初は、なんとなくの、すれ違いだったの

「うん」

でも、いまは、わたしのからだが、痛くて、できない

わたしは、息を止めた。

痛い



伯母さんは、しずかに、教えてくれた。

閉経後の腟の変化(GSM)

  • GSM(Genitourinary Syndrome of Menopause):閉経後泌尿生殖器症候群
  • 閉経後のエストロゲン低下で、腟の壁が、薄く・乾きやすく・もろくなる
  • 性交時に痛み・出血が起きやすくなる
  • 尿もれ・頻尿・尿路感染症 も、起きやすくなる
  • 40代後半の女性の20〜40%が、なんらかのGSM症状を経験
  • 多くの女性が、恥ずかしさから、医師に相談しない

わたしね、これも、医師に相談するまで、「年だから仕方ない」って思ってたの

#### GSMへのアプローチ

  • 保湿ジェル・ローション(市販のものでもよい)
  • 腟用エストロゲン製剤(局所投与・全身への影響は少ない)
  • HRT(全身的に補充する場合は、GSMの改善効果もあり)
  • 痛みのある性交を、無理してつづけない

痛みを、我慢して、夫に合わせるのは、それは、もう、性的な関係として、健康じゃないって、医師に言われた」

伯母さんは、ぽつりと言った。

でも、夫にどう話せばいいか、わからなくて、ずっと、わたし、口を閉じてた

📖 もっと詳しく性交痛は「年のせい」ではなく、医学的に治療できるサイン です。子宮内膜症・骨盤底機能障害・腟けいれんなど、年齢を問わず原因はさまざま。[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「4. 性機能の悩み」と、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「4. 月経のトラブル」(子宮内膜症・腺筋症)を合わせて読むと、若い世代の性交痛から閉経後のGSMまで、ひとつながりの問題として見えてきます。

>

📖 そして「言わなかったから、わかってもらえなかった」を超えるためのヒント:パートナーと性について話す具体的な質問例(「何が気持ちよくて、何が嫌か」「セーフワード」など)は [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) の「11. パートナーとの性的コミュニケーション」に。コンセントは、若い恋人だけのテーマではなく、長年のパートナーシップにこそ必要なものです。



そのとき、玄関のドアが、開いた。

ただいまー

伯父さんが、ほんのりお酒を飲んで、帰ってきた。

伯母さんは、急いで、笑顔をつくって、伯父さんに、お茶をいれた。

伯父さんは、わたしに、「葵、ひさしぶりだなあ」と、いつもの笑顔で、声をかけてくれた。

3人で、お茶を飲みながら、しばらく、雑談をした。

23時、伯父さんは、お風呂に入った。

わたしと伯母さんは、台所のテーブルで、コーヒーを淹れなおした。

そのとき、わたしは、すこし、勇気を出して、伯母さんに、こう言った。

伯母さん、伯父さんに、話してみませんか?



伯母さんは、目をあげた。

話す?

はい。からだのことも、夫婦のあいだのことも

そんなの、恥ずかしい

でも、伯母さんが、いま、苦しんでること、伯父さんは、たぶん、ぜんぜん、わかってない

伯母さんは、しばらく、黙っていた。

葵、わたしね、夫の世代の男のひとは、こういう話を、聞きたくない、って思ってる気がしてた

「うん」

でも、たぶん、それは、「伯父さんに、聞かせたくない」って、わたしが思ってたんだと思う

わたしは、しずかに、うなずいた。

わたしは、看護師でもないし、医者でもないけど

「うん」

最近、ちょっとだけ、「言わなかったから、わかってもらえなかった」っていうこと、自分でもあるなあ、って思ってて

「うん」

伯父さん、たぶん、知りたいと思います



その夜、わたしは、客間で寝た。

夜中、お手洗いに起きたら、台所のあかりが、ついていた。

そっと、廊下から、台所をのぞくと、伯母さんと、伯父さんが、向かい合って座っていた。

伯母さんは、医師にもらったHRTのパンフレットを、伯父さんに見せていた。

伯父さんは、しずかに、それを読んでいた。

途中で、伯父さんは、伯母さんの手を、両手で、つつんだ。

わたしは、見てはいけないものを見た気がして、急いで、客間に戻った。

朝になって、伯父さんは、伯母さんと一緒に、北鎌倉の駅まで、わたしを送ってくれた。

伯母さんは、わたしに、ぎゅっと、ハグをして、こう言った。

葵、ありがとう

わたし、なにもしてないですよ

ううん。葵がいたから、わたし、話せた

伯父さんも、後ろで、にっこり笑って、わたしに、手を振ってくれた。



電車に揺られながら、横浜に戻る道、わたしは、ぼんやり、考えていた。

52歳の伯母さん。

52歳のからだ。

52歳の心。

それは、いまの27歳の、わたしには、ピンとこない、未来。

でも、確実に、わたしも、いつか、そこに行く。

そして、たぶん、伯母さんと、まったく同じことで、悩む。

汗が出る、寝られない、痛い、夫婦の心が、遠くなる。

そのときに、わたしは、いまの伯母さんのことを、思い出せるだろうか?

そのときに、わたしは、ちゃんと、医師に、相談できるだろうか?

そのときに、わたしは、ちゃんと、隣にいる人に、「いま、こういう状態なの」って、話せるだろうか?

そのために、いまから、すこしずつ、自分のからだのことを、知っていこう。

横浜駅についたとき、まりあから、LINEが来ていた。

まりあ:葵、ゴールデンウィーク、どうだった?

まりあ:5月、髪、5センチ切りに、おいで。

わたしは、返信した。

葵:たくさん、話せた。

葵:5月の、はじめての土曜、行きます。

葵:5センチ、お願いします。

葵:そのあと、はじめて、婦人科にも、行ってみる。

「自分のからだを知ること」は、未来の自分への、いちばんの贈り物かもしれない。


今日、葵が学んだこと

  • 日本人女性の閉経の平均年齢は50.5歳更年期は45〜55歳
  • 40〜60歳の女性の60〜80%が、なんらかの更年期症状を経験
  • HRT(ホルモン補充療法)は、更年期症状に約80%の有効率
  • HRTには乳がん・血栓症などのわずかなリスクもあるが、症状とリスクとQOLを天秤にかけて、本人が選ぶ
  • GSM(閉経後泌尿生殖器症候群):腟の乾燥・痛み・尿もれは、年齢ではなく、ホルモン低下による医学的変化。治療できる
  • 「セックスが痛い」を我慢する必要はない。医師に相談していい
  • 「言わなかったから、わかってもらえなかった」は、夫婦のあいだでも、ある
  • 中年期の女性の不調は、「年齢のせい」「気のせい」ではなく、ホルモンの医学的変化

相談窓口

  • 公益社団法人 女性の健康とメノポーズ協会:更年期や女性のからだの相談
  • HP:https://www.meno-sg.net/
  • 日本産科婦人科学会「女性の健康Q&A」
  • 女性の健康推進室 ヘルスケアラボ(厚生労働省研究班)
  • 更年期相談(各都道府県の女性健康支援センター):自治体HPで「更年期相談」で検索
  • DV相談プラス:0120-279-889(夫婦間の性交強要は性的DV)

📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動

この話で出てきたこと より深く学ぶには
閉経、月経の正常範囲、初経・閉経年齢 [第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 周期25〜38日/持続3〜7日/経血量20〜140ml/日本人女性の閉経平均約50歳
HRT・GSM・性交痛・腟の乾燥 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性機能の悩み(性交痛・腟けいれん・オーガズム障害)/中年期のライフステージ
LEP・IUS(ミレーナ)など、閉経前にも使えるホルモン治療 [第3回 避妊と家族計画](../../03_避妊と家族計画.md) ─ ピル使用率の国際比較、IUSの保険適用/[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) ─ 月経困難症・過多月経の治療
夫婦のセックスレス、パートナーとどう話すか [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ セックスレス(日本の約50%)、カップルカウンセリング/[第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 「No」と「Yes」の両方が言える関係
「年齢のせい」「気のせい」とされてきた女性の不調 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ ホルモンと気分(PMS/PMDD・更年期障害・産後うつ)
WHOの「性の健康」の定義 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 「性の健康とは、性に関する身体的・感情的・精神的・社会的に良好な状態」

次の一歩:男性パートナーが更年期について理解を深めたいときは、[第2回 月経と性周期](../../02_月経と性周期.md) の「7. 男性も知っておきたい月経の知識」と、[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の 「LOH症候群(男性更年期)」 を合わせて読むと、お互いの中年期のからだを対等に話しやすくなります。


次回|(予定)第4話 課長の薬箱、40歳のプレ更年期

仕事ができる神田課長が、月のうち1週間、まったく動けない理由。プレ更年期、低用量ピル、ホルモン補充療法、そして「働く女性の40代のからだ」のはなし。

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