葵編 第2話|歌舞伎町の夜



4月の終わり、ゴールデンウィークの初日の夜。

まりあに、「ちょっと、社会勉強」と言われて、連れていかれた先が、歌舞伎町だった。

ホストクラブ、行ってみない?

「えっ、こわい」

こわいから行くんだよ葵、自分の知らない世界、ぜんぶ「こわい」って言って閉じてるじゃん

そうかもしれない、と思った。

わたしは、まりあに、化粧から服まで、整えてもらった。

ピンクのリップ、ふだん使わないアイシャドウ、ベージュのジャケット、はじめてのちょっと背の高いヒール。

鏡のなかにいたのは、ちょっとだけ、わたしじゃない、葵だった。



歌舞伎町、初心者向けと言われる、初回料金がとても安いお店に、わたしたちは入った。

入る前に、まりあが、わたしに釘を刺した。

葵、まずは、これだけ守って

初心者がホストクラブで自分を守る・5つのルール

1. 「初回」を超えない(1人だけの担当を作らない)

2. シャンパンを入れない(数万〜数百万円の世界)

3. 「掛け(ツケ)」は絶対にしない

4. 連絡先を、現実の本名・会社・住所で渡さない

5. 酔いつぶれる前に帰る

「色恋営業」って、信じられないくらい、上手いから」とまりあは続けた。

「葵、おまえだけだよ」って、20人に同時に言える商売

「うん」

でも、葵が、それで、ちゃんと「楽しい時間を買ってる」って自覚があるなら、エンタメとして楽しめばいい

「自覚がなくなったら?」

沼にはまるATMにされる

📖 もっと詳しく:「やめたいのにやめられない」状態は、ICD-11(2022年発効)で 「強迫的性行動症」 という精神疾患として位置づけられました。性行為・ポルノ視聴・恋愛行動の依存的なパターンへの理解、依存症専門外来や自助グループ(SA)については [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「6. 性依存・強迫的性行動」をご覧ください。



お店のなかは、シャンパンの瓶が、ピラミッドみたいに飾られていた。

ミラーボール、爆音のシャンパンコール、笑い声、香水のかおり。

席につくと、何人かのホストが、入れかわり立ちかわり、わたしたちのテーブルに来た。

みんな、芸名で名乗った。

肌がきれいで、まつげが長くて、声が、信じられないくらい近かった。

「葵さんって、ちょっと、空気がやさしい人ですよね」

「お酒、弱いんですか?じゃあ僕がぜんぶ飲みますね」

「えっ、経理?まじめな人、僕、ほんとに、たまんないんですよ」

わたしは、人生で一度も言われたことがない言葉を、5分で、3つ言われた。

帰り道、まりあに、「あれ、本気で受け取らないでね」と100回くらい釘を刺された。



その夜、いちばん印象に残ったのは、ホストではなかった。

わたしの隣のテーブルにいた、お客さんだった。

ひとりで来ている、35歳くらいの女のひと。

グレーのワンピース、ブランドバッグ、爪も髪も、丁寧に手入れされていた。

そのひとは、お気に入りのホスト1人だけを呼んで、しずかに、ボトルキープのウィスキーを飲んでいた。

途中、お店のキャストみんなで、シャンパンコールが始まった。

そのひとが、笑顔で、シャンパンを下ろしていた。

「30万のシャンパン入りまーす!」 とコールされていた。

わたしは、まりあの横で、目を丸くした。

まりあが、わたしに、ちいさく、ささやいた。

ああいう人、太客(ふときゃく)って言うんだよ

「30万、毎回?」

毎回、じゃないけど、月に何回も来てたら、年に数百万、軽くいく

「うん」

ああいう人が、ホスト業界を動かしてる



23時半、まりあは、お手洗いに立っていた。

わたしは、ひとりで、お水を飲んでいた。

そしたら、隣のテーブルの、グレーのワンピースのお客さんが、ふと、わたしに話しかけてきた。

はじめて?

「あ、はい」

わかる。緊張してる感じ、見たらわかる

「すみません、目立ってますか」

かわいいよ、それで

そのひとは、わたしの隣に来て、自己紹介をしてくれた。

倉持 由美。35歳。看護師。バツ1。子どもひとり

「は、はじめまして、柊木 葵です。27歳、経理です」

葵ちゃんね。よろしく

由美さんは、笑ってしまうくらい、自分のことを、はっきりと、話してくれた。

わたしの推しはね、葵ちゃん、ホストなのよ」と、由美さんは言った。

推し、なんですか

そう、推し。アイドルじゃなくて、ホスト



由美さんは、ウィスキーを揺らしながら、わたしに、自分のことを話してくれた。

5年前、結婚していた相手と離婚した。

DV系ではなく、ただ、「心が遠くなった」結末だった。

2歳の娘を、ひとりで育てながら、看護師として働いてきた。

子どもが寝たあと、わたしの時間って、ぜんぜん、なかったの

「うん」

夜10時、子どもが寝てから、わたしのこころは、空っぽ

そんなとき、職場の後輩に連れられて、はじめて来たホストクラブで、いまの推しに出会った。

最初はね、「推し」って言葉も、知らなかったの

「うん」

「あ、わたし、この人と話してると、こころが温まる」って思ったの

「うん」

それが、はじまり



由美さんは、わたしに、こんなことを言った。

葵ちゃん、女のひとにも、性欲ってあるって、思ってる?

「あ、えっ、はい、たぶん、あると思います」

わたしね、35歳になって、はじめて、自分の性欲があるって、気がついたの

「えっ」

由美さんは、しずかに、続けた。

由美さんが教えてくれた、「女性の性」の話

  • 結婚していたあいだ、夫とのセックスは、「作業のように」終わっていた
  • 自分が、気持ちいいと思った瞬間が、ほぼなかった
  • 女のひとは、男のひとほど性欲がない」と、信じこんでいた
  • 離婚して、ホストクラブに来て、推しに「手を握られたとき」、はじめて、自分のなかに、はっきりとした「ほしい」という気持ちがあることに、気づいた

でも、葵ちゃん、わかってる?

「うん」

わたしの推しは、わたしのことを、ぜんぜん「ほしくない」

「えっ」

わたしのこと、ほしいフリ、して、お金、いただいてるの

そう言って、由美さんは、ちょっとだけ、笑った。

でも、それでもいいの。わたしは、自分の性欲が「ある」って気づけて、ちょっと、生き返った

「由美さん、それは、何歳のときの話ですか?」

33歳。2年前



23時50分、まりあがお手洗いから戻ってきた。

由美さんは、まりあと、自然に挨拶を交わして、わたしのテーブルに、ふつうに座っていた。

まりあと、由美さんは、すぐに意気投合した。

2人とも、口が悪くて、笑いが大きかった。

由美さんが、「そろそろ、お会計」と言って、シャンパンの分も含めて、お会計を頼んだ。

そのとき、ホストの担当のひとが、由美さんに、こう聞いた。

今日のお会計、いつものように……?

由美さんは、首をふって、はっきり言った。

今日は、ぜんぶ、その場で払う

ホストは、ちょっと、目を泳がせた。

そして、「あ、そうですか」と、にこやかに、伝票を持ってきた。

由美さんは、伝票を見て、現金とカードで、その夜のお会計を、ぜんぶ、支払った。

売掛、しないんですか?」と、ホストは、もう一度、聞いた。

由美さんは、笑顔のまま、こう答えた。

ぜんぶ、その場で払うって、決めたの



お店を出て、わたしと、まりあと、由美さんは、コンビニの前で、立ち話をした。

由美さん、すごいかっこよかったです」と、まりあ。

いやいや、5回目のお店替えで、やっと、いまのスタイル」と、由美さんは、笑った。

何があったんですか?

売掛

由美さんは、ぽつりと、こう言った。

3年前、わたしね、月の売掛が、150万いってたの

わたしは、息をのんだ。



由美さんは、わたしたちに、自分が経験した、売掛地獄のはなしを、すこしだけしてくれた。

由美さんが経験した「売掛」の悪循環

  • ホストに「今月、つらい?じゃ、来月でいいよ」とやさしく言われる
  • 翌月、また同じ額を入れる
  • 売掛の利息や追加で、月々の支払いが、給料を超える
  • 払えないなら、紹介先で働けばいい」と、別のスタッフに紹介される
  • 紹介先は、性風俗だったり、スカウトマンだったりした

でも、わたし、看護師の資格があったから、そこには行かなかった

「うん」

夜勤を増やして、自分で、消したの

「うん」

でも、わたしの先輩で、その紹介先に行った人、何人もいる

📖 もっと詳しく:女性が経済的・社会的に追い込まれて性風俗・売春へ「紹介」される構造は、性暴力・性的搾取の問題そのものです。周旋(あっせん)行為は風営法・職業安定法違反であり、こうした被害にあう側のサポート資源(Colabo・BOND・若草プロジェクト・ぱっぷす)と、若年女性向け支援については [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) と [第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md)(AV出演被害防止・救済法)にまとめられています。

由美さんは、しずかに言った。

葵ちゃん、わたしね、3年前のあの状態は、ぜんぜん、健康じゃなかったって、いまならわかる



そして、由美さんは、わたしたちに、2025年に変わった、あることを、教えてくれた。

2025年6月28日施行・改正風営法のポイント

#### 「困惑営業」の禁止(第18条の3)

  • 客の判断力を惑わせるような営業(過度な接近・色恋・脅迫・密室での圧迫)を禁止
  • 違反すると、5年以下の拘禁刑または1,000万円以下の罰金(個人)
  • 法人には最大3億円の罰金

#### 「適合性の原則」

  • 客の支払い能力を超える勧誘・契約は禁止
  • 月収を超えるツケで、シャンパンを入れさせる」は、原則NG

#### 売掛・色恋営業

  • 売掛金(ツケ払い)を前提とする営業は、事実上、不可能に近い
  • 「色恋営業」(恋愛感情を利用した過大な飲食を勧める営業)も処罰対象

#### スカウト・周旋の禁止

  • 売掛の回収のために、お客様を性風俗店やスカウトマンに紹介する行為は完全に違法
  • いわゆる「スカウトバック」は、人身売買的な性質を持つとして厳しく取り締まり

#### 広告規制

  • 色恋を匂わせる広告」「売上高表記」など、誤認を招く広告は禁止

わたしが3年前にいたお店は、いまは、もう、ないの」と、由美さんは言った。

摘発されたんですか?

ちがう、自主廃業。経営できなくなったの



由美さんは、こう続けた。

でもね、葵ちゃん、まりあちゃん、法律が変わっただけじゃ、現場は、ぜんぶは変わらない

「うん」

いまでも、暗黙の売掛はあるし、いまでも、紹介の話は、こっそり来る

「うん」

だから、自分のルールを、自分でつくらないと、結局、ずるずるいく

由美さんは、ハンドバッグからスマホを取り出して、わたしたちに、画面を見せてくれた。

スマホのなかに、彼女が自分のために書いた、メモがあった。

由美さんの、自分ルール

1. 月の予算上限を、その月のはじめに、現金で封筒にいれる

2. その封筒の額を、超えない

3. 売掛は、絶対にしない

4. 「次は何月何日に来るね」と決めて、それ以外は行かない

5. 推しの誕生日・周年は、参加するか・しないか、月初に決める

6. 誰の名義であれ、お金を借りない・貸さない

7. 連絡先は、ホスト用のサブ垢LINEだけ

これを、自分で守ってる人だけが、ホストクラブを「楽しめてる人」」と由美さんは言った。

守れないなら、行っちゃだめ。沼に飲まれる



帰りの新宿駅、終電前のホームで、由美さんは、わたしに、もうひとつ、教えてくれた。

葵ちゃん、女のひとが、自分の性欲があるって気づくのは、いいことだよ

「うん」

でも、その「ほしい」を、お金で、誰かに「フリ」してもらいつづける生活は、お金がなくなったときに、自分の心が、いっしょに枯れる

「うん」

だから、自分の「ほしい」は、自分でも、ちゃんと、知っておく

「自分でも、知る、ってどういうこと?」と、わたしは、ちょっとだけ、勇気を出して聞いた。

由美さんは、「マスターベーション」と、ふつうの声で言った。

女性のマスターベーション・基本のき

  • 女性のマスターベーションは、健康行為として、医学的に推奨されている
  • 自分の身体のどこが気持ちいいかを、自分で知っていることは、パートナーとの性のコミュニケーションでも、重要
  • クリトリスは、女性の性的快感のための器官(解剖学的にも、唯一、快感のためだけの器官といわれる)
  • オーガズムは、健康面でも有用(睡眠の質改善、ストレス低減、月経痛の軽減)
  • 罪悪感を持つ必要は、まったくない

わたしね、35歳まで、自分のからだのこと、自分の手で、ちゃんと知らなかった

「うん」

それが、いちばんの、もったいなさ

📖 もっと詳しく:マスターベーション(自慰行為)は WHOも肯定する自然で健康的な行為 で、罪悪感を持つ必要はありません。クリトリスの解剖学的構造(可視部は氷山の一角で、内部に伸びる勃起組織を持つ)や、なぜ「処女膜」ではなく 「腟口縁ヒダ」 と呼ぶことが推奨されているのかは [第1回 性とからだの基礎知識](../../01_性とからだの基礎知識.md) で。「女性の約70%は腟性交だけではオーガズムに達しない」 という研究知見や、女性の性機能の悩み(性交痛・腟けいれん・オーガズム障害)への医学的アプローチは [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「4. 性機能の悩み」にあります。



横浜に帰る電車のなかで、わたしは、まりあと、しずかに座っていた。

葵、今日、すごい1日だったね

「うん」

学んだ?

たくさん、学んだ

家に帰って、シャワーを浴びて、ベッドに入った。

わたしは、はじめて、しずかに、自分のからだに、自分で、触れてみた。

恥ずかしくも、こわくもなかった。

ただ、「ああ、ここに、わたしの身体は、ちゃんとある」 という感覚だけが、あった。

由美さんが言っていた、「自分の「ほしい」を、自分で知る」って、たぶん、こういうことなんだ、と思った。


目次

今日、葵が学んだこと

  • 2025年の改正風営法で、ホストクラブの「売掛」「色恋営業」「スカウト紹介」は、原則として違法に
  • でも、現場が完全に変わったわけではない。自分のルールをつくることが、結局、いちばんの自衛になる
  • 女性にも、性欲はある。それを認めるのは、健康なこと
  • マスターベーションは、健康行為。自分のからだを知ることは、自分を大切にすることの一部
  • ホストクラブで使うお金は、「楽しい時間を買っている」という自覚があるなら、エンタメ。自覚がなくなったら、依存

相談窓口

  • 歌舞伎町ホスト被害ホットライン:各種NPO・自治体の相談窓口あり(自治体HPで「ホストクラブ 相談」で検索)
  • 女性のためのDV相談プラス:0120-279-889(つなぐはやく)
  • 多重債務相談(日本司法支援センター・法テラス):0570-078-374
  • 依存症相談窓口(厚生労働省):各都道府県の精神保健福祉センター
  • 生活困窮者自立支援制度:お住まいの市区町村に窓口あり
  • 若年女性向け支援:Colabo・BOND・若草プロジェクト

📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動

この話で出てきたこと より深く学ぶには
「やめたいのにやめられない」依存・強迫的性行動 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ ICD-11「強迫的性行動症」、SA(性的依存症者の会)
女性の性欲の存在、マスターベーション、クリトリスの構造 [第1回 性とからだの基礎知識](../../01_性とからだの基礎知識.md) ─ 解剖、自慰についての医学的事実/[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性機能と自己肯定感
男性に合わせる「作業のような」セックス、性交痛 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性交痛・腟けいれん(vaginismus)・オーガズム障害/[第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ パートナーとの性的コミュニケーション
スカウト・売春への紹介・人身売買的な構造 [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) ─ 性的搾取(JKビジネス・AV出演強要・人身取引)/[第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md) ─ AV出演被害防止・救済法(2022年6月施行)
パートナーシップとお金、デートDV的構造 [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 経済的暴力・モラハラの兆候、健全な関係性の指標

次の一歩:もし「自分は依存ぎみかも」と感じたら、無理に判断せず [第10回](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「11. 専門家への相談を考える」を。受診の目安と、保険適用・自治体無料相談・自立支援医療制度(精神科通院で1割負担)まで、お金の心配にも答える情報があります。


次回|第3話 伯母さんの台所、52歳の汗

ゴールデンウィークの帰省。鎌倉の伯母さんの家で聞く、更年期、HRT、夫婦のあいだのこと。

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葵編 第2話|歌舞伎町の夜



4月の終わり、ゴールデンウィークの初日の夜。

まりあに、「ちょっと、社会勉強」と言われて、連れていかれた先が、歌舞伎町だった。

ホストクラブ、行ってみない?

「えっ、こわい」

こわいから行くんだよ葵、自分の知らない世界、ぜんぶ「こわい」って言って閉じてるじゃん

そうかもしれない、と思った。

わたしは、まりあに、化粧から服まで、整えてもらった。

ピンクのリップ、ふだん使わないアイシャドウ、ベージュのジャケット、はじめてのちょっと背の高いヒール。

鏡のなかにいたのは、ちょっとだけ、わたしじゃない、葵だった。



歌舞伎町、初心者向けと言われる、初回料金がとても安いお店に、わたしたちは入った。

入る前に、まりあが、わたしに釘を刺した。

葵、まずは、これだけ守って

初心者がホストクラブで自分を守る・5つのルール

1. 「初回」を超えない(1人だけの担当を作らない)

2. シャンパンを入れない(数万〜数百万円の世界)

3. 「掛け(ツケ)」は絶対にしない

4. 連絡先を、現実の本名・会社・住所で渡さない

5. 酔いつぶれる前に帰る

「色恋営業」って、信じられないくらい、上手いから」とまりあは続けた。

「葵、おまえだけだよ」って、20人に同時に言える商売

「うん」

でも、葵が、それで、ちゃんと「楽しい時間を買ってる」って自覚があるなら、エンタメとして楽しめばいい

「自覚がなくなったら?」

沼にはまるATMにされる

📖 もっと詳しく:「やめたいのにやめられない」状態は、ICD-11(2022年発効)で 「強迫的性行動症」 という精神疾患として位置づけられました。性行為・ポルノ視聴・恋愛行動の依存的なパターンへの理解、依存症専門外来や自助グループ(SA)については [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「6. 性依存・強迫的性行動」をご覧ください。



お店のなかは、シャンパンの瓶が、ピラミッドみたいに飾られていた。

ミラーボール、爆音のシャンパンコール、笑い声、香水のかおり。

席につくと、何人かのホストが、入れかわり立ちかわり、わたしたちのテーブルに来た。

みんな、芸名で名乗った。

肌がきれいで、まつげが長くて、声が、信じられないくらい近かった。

「葵さんって、ちょっと、空気がやさしい人ですよね」

「お酒、弱いんですか?じゃあ僕がぜんぶ飲みますね」

「えっ、経理?まじめな人、僕、ほんとに、たまんないんですよ」

わたしは、人生で一度も言われたことがない言葉を、5分で、3つ言われた。

帰り道、まりあに、「あれ、本気で受け取らないでね」と100回くらい釘を刺された。



その夜、いちばん印象に残ったのは、ホストではなかった。

わたしの隣のテーブルにいた、お客さんだった。

ひとりで来ている、35歳くらいの女のひと。

グレーのワンピース、ブランドバッグ、爪も髪も、丁寧に手入れされていた。

そのひとは、お気に入りのホスト1人だけを呼んで、しずかに、ボトルキープのウィスキーを飲んでいた。

途中、お店のキャストみんなで、シャンパンコールが始まった。

そのひとが、笑顔で、シャンパンを下ろしていた。

「30万のシャンパン入りまーす!」 とコールされていた。

わたしは、まりあの横で、目を丸くした。

まりあが、わたしに、ちいさく、ささやいた。

ああいう人、太客(ふときゃく)って言うんだよ

「30万、毎回?」

毎回、じゃないけど、月に何回も来てたら、年に数百万、軽くいく

「うん」

ああいう人が、ホスト業界を動かしてる



23時半、まりあは、お手洗いに立っていた。

わたしは、ひとりで、お水を飲んでいた。

そしたら、隣のテーブルの、グレーのワンピースのお客さんが、ふと、わたしに話しかけてきた。

はじめて?

「あ、はい」

わかる。緊張してる感じ、見たらわかる

「すみません、目立ってますか」

かわいいよ、それで

そのひとは、わたしの隣に来て、自己紹介をしてくれた。

倉持 由美。35歳。看護師。バツ1。子どもひとり

「は、はじめまして、柊木 葵です。27歳、経理です」

葵ちゃんね。よろしく

由美さんは、笑ってしまうくらい、自分のことを、はっきりと、話してくれた。

わたしの推しはね、葵ちゃん、ホストなのよ」と、由美さんは言った。

推し、なんですか

そう、推し。アイドルじゃなくて、ホスト



由美さんは、ウィスキーを揺らしながら、わたしに、自分のことを話してくれた。

5年前、結婚していた相手と離婚した。

DV系ではなく、ただ、「心が遠くなった」結末だった。

2歳の娘を、ひとりで育てながら、看護師として働いてきた。

子どもが寝たあと、わたしの時間って、ぜんぜん、なかったの

「うん」

夜10時、子どもが寝てから、わたしのこころは、空っぽ

そんなとき、職場の後輩に連れられて、はじめて来たホストクラブで、いまの推しに出会った。

最初はね、「推し」って言葉も、知らなかったの

「うん」

「あ、わたし、この人と話してると、こころが温まる」って思ったの

「うん」

それが、はじまり



由美さんは、わたしに、こんなことを言った。

葵ちゃん、女のひとにも、性欲ってあるって、思ってる?

「あ、えっ、はい、たぶん、あると思います」

わたしね、35歳になって、はじめて、自分の性欲があるって、気がついたの

「えっ」

由美さんは、しずかに、続けた。

由美さんが教えてくれた、「女性の性」の話

  • 結婚していたあいだ、夫とのセックスは、「作業のように」終わっていた
  • 自分が、気持ちいいと思った瞬間が、ほぼなかった
  • 女のひとは、男のひとほど性欲がない」と、信じこんでいた
  • 離婚して、ホストクラブに来て、推しに「手を握られたとき」、はじめて、自分のなかに、はっきりとした「ほしい」という気持ちがあることに、気づいた

でも、葵ちゃん、わかってる?

「うん」

わたしの推しは、わたしのことを、ぜんぜん「ほしくない」

「えっ」

わたしのこと、ほしいフリ、して、お金、いただいてるの

そう言って、由美さんは、ちょっとだけ、笑った。

でも、それでもいいの。わたしは、自分の性欲が「ある」って気づけて、ちょっと、生き返った

「由美さん、それは、何歳のときの話ですか?」

33歳。2年前



23時50分、まりあがお手洗いから戻ってきた。

由美さんは、まりあと、自然に挨拶を交わして、わたしのテーブルに、ふつうに座っていた。

まりあと、由美さんは、すぐに意気投合した。

2人とも、口が悪くて、笑いが大きかった。

由美さんが、「そろそろ、お会計」と言って、シャンパンの分も含めて、お会計を頼んだ。

そのとき、ホストの担当のひとが、由美さんに、こう聞いた。

今日のお会計、いつものように……?

由美さんは、首をふって、はっきり言った。

今日は、ぜんぶ、その場で払う

ホストは、ちょっと、目を泳がせた。

そして、「あ、そうですか」と、にこやかに、伝票を持ってきた。

由美さんは、伝票を見て、現金とカードで、その夜のお会計を、ぜんぶ、支払った。

売掛、しないんですか?」と、ホストは、もう一度、聞いた。

由美さんは、笑顔のまま、こう答えた。

ぜんぶ、その場で払うって、決めたの



お店を出て、わたしと、まりあと、由美さんは、コンビニの前で、立ち話をした。

由美さん、すごいかっこよかったです」と、まりあ。

いやいや、5回目のお店替えで、やっと、いまのスタイル」と、由美さんは、笑った。

何があったんですか?

売掛

由美さんは、ぽつりと、こう言った。

3年前、わたしね、月の売掛が、150万いってたの

わたしは、息をのんだ。



由美さんは、わたしたちに、自分が経験した、売掛地獄のはなしを、すこしだけしてくれた。

由美さんが経験した「売掛」の悪循環

  • ホストに「今月、つらい?じゃ、来月でいいよ」とやさしく言われる
  • 翌月、また同じ額を入れる
  • 売掛の利息や追加で、月々の支払いが、給料を超える
  • 払えないなら、紹介先で働けばいい」と、別のスタッフに紹介される
  • 紹介先は、性風俗だったり、スカウトマンだったりした

でも、わたし、看護師の資格があったから、そこには行かなかった

「うん」

夜勤を増やして、自分で、消したの

「うん」

でも、わたしの先輩で、その紹介先に行った人、何人もいる

📖 もっと詳しく:女性が経済的・社会的に追い込まれて性風俗・売春へ「紹介」される構造は、性暴力・性的搾取の問題そのものです。周旋(あっせん)行為は風営法・職業安定法違反であり、こうした被害にあう側のサポート資源(Colabo・BOND・若草プロジェクト・ぱっぷす)と、若年女性向け支援については [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) と [第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md)(AV出演被害防止・救済法)にまとめられています。

由美さんは、しずかに言った。

葵ちゃん、わたしね、3年前のあの状態は、ぜんぜん、健康じゃなかったって、いまならわかる



そして、由美さんは、わたしたちに、2025年に変わった、あることを、教えてくれた。

2025年6月28日施行・改正風営法のポイント

#### 「困惑営業」の禁止(第18条の3)

  • 客の判断力を惑わせるような営業(過度な接近・色恋・脅迫・密室での圧迫)を禁止
  • 違反すると、5年以下の拘禁刑または1,000万円以下の罰金(個人)
  • 法人には最大3億円の罰金

#### 「適合性の原則」

  • 客の支払い能力を超える勧誘・契約は禁止
  • 月収を超えるツケで、シャンパンを入れさせる」は、原則NG

#### 売掛・色恋営業

  • 売掛金(ツケ払い)を前提とする営業は、事実上、不可能に近い
  • 「色恋営業」(恋愛感情を利用した過大な飲食を勧める営業)も処罰対象

#### スカウト・周旋の禁止

  • 売掛の回収のために、お客様を性風俗店やスカウトマンに紹介する行為は完全に違法
  • いわゆる「スカウトバック」は、人身売買的な性質を持つとして厳しく取り締まり

#### 広告規制

  • 色恋を匂わせる広告」「売上高表記」など、誤認を招く広告は禁止

わたしが3年前にいたお店は、いまは、もう、ないの」と、由美さんは言った。

摘発されたんですか?

ちがう、自主廃業。経営できなくなったの



由美さんは、こう続けた。

でもね、葵ちゃん、まりあちゃん、法律が変わっただけじゃ、現場は、ぜんぶは変わらない

「うん」

いまでも、暗黙の売掛はあるし、いまでも、紹介の話は、こっそり来る

「うん」

だから、自分のルールを、自分でつくらないと、結局、ずるずるいく

由美さんは、ハンドバッグからスマホを取り出して、わたしたちに、画面を見せてくれた。

スマホのなかに、彼女が自分のために書いた、メモがあった。

由美さんの、自分ルール

1. 月の予算上限を、その月のはじめに、現金で封筒にいれる

2. その封筒の額を、超えない

3. 売掛は、絶対にしない

4. 「次は何月何日に来るね」と決めて、それ以外は行かない

5. 推しの誕生日・周年は、参加するか・しないか、月初に決める

6. 誰の名義であれ、お金を借りない・貸さない

7. 連絡先は、ホスト用のサブ垢LINEだけ

これを、自分で守ってる人だけが、ホストクラブを「楽しめてる人」」と由美さんは言った。

守れないなら、行っちゃだめ。沼に飲まれる



帰りの新宿駅、終電前のホームで、由美さんは、わたしに、もうひとつ、教えてくれた。

葵ちゃん、女のひとが、自分の性欲があるって気づくのは、いいことだよ

「うん」

でも、その「ほしい」を、お金で、誰かに「フリ」してもらいつづける生活は、お金がなくなったときに、自分の心が、いっしょに枯れる

「うん」

だから、自分の「ほしい」は、自分でも、ちゃんと、知っておく

「自分でも、知る、ってどういうこと?」と、わたしは、ちょっとだけ、勇気を出して聞いた。

由美さんは、「マスターベーション」と、ふつうの声で言った。

女性のマスターベーション・基本のき

  • 女性のマスターベーションは、健康行為として、医学的に推奨されている
  • 自分の身体のどこが気持ちいいかを、自分で知っていることは、パートナーとの性のコミュニケーションでも、重要
  • クリトリスは、女性の性的快感のための器官(解剖学的にも、唯一、快感のためだけの器官といわれる)
  • オーガズムは、健康面でも有用(睡眠の質改善、ストレス低減、月経痛の軽減)
  • 罪悪感を持つ必要は、まったくない

わたしね、35歳まで、自分のからだのこと、自分の手で、ちゃんと知らなかった

「うん」

それが、いちばんの、もったいなさ

📖 もっと詳しく:マスターベーション(自慰行為)は WHOも肯定する自然で健康的な行為 で、罪悪感を持つ必要はありません。クリトリスの解剖学的構造(可視部は氷山の一角で、内部に伸びる勃起組織を持つ)や、なぜ「処女膜」ではなく 「腟口縁ヒダ」 と呼ぶことが推奨されているのかは [第1回 性とからだの基礎知識](../../01_性とからだの基礎知識.md) で。「女性の約70%は腟性交だけではオーガズムに達しない」 という研究知見や、女性の性機能の悩み(性交痛・腟けいれん・オーガズム障害)への医学的アプローチは [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「4. 性機能の悩み」にあります。



横浜に帰る電車のなかで、わたしは、まりあと、しずかに座っていた。

葵、今日、すごい1日だったね

「うん」

学んだ?

たくさん、学んだ

家に帰って、シャワーを浴びて、ベッドに入った。

わたしは、はじめて、しずかに、自分のからだに、自分で、触れてみた。

恥ずかしくも、こわくもなかった。

ただ、「ああ、ここに、わたしの身体は、ちゃんとある」 という感覚だけが、あった。

由美さんが言っていた、「自分の「ほしい」を、自分で知る」って、たぶん、こういうことなんだ、と思った。


今日、葵が学んだこと

  • 2025年の改正風営法で、ホストクラブの「売掛」「色恋営業」「スカウト紹介」は、原則として違法に
  • でも、現場が完全に変わったわけではない。自分のルールをつくることが、結局、いちばんの自衛になる
  • 女性にも、性欲はある。それを認めるのは、健康なこと
  • マスターベーションは、健康行為。自分のからだを知ることは、自分を大切にすることの一部
  • ホストクラブで使うお金は、「楽しい時間を買っている」という自覚があるなら、エンタメ。自覚がなくなったら、依存

相談窓口

  • 歌舞伎町ホスト被害ホットライン:各種NPO・自治体の相談窓口あり(自治体HPで「ホストクラブ 相談」で検索)
  • 女性のためのDV相談プラス:0120-279-889(つなぐはやく)
  • 多重債務相談(日本司法支援センター・法テラス):0570-078-374
  • 依存症相談窓口(厚生労働省):各都道府県の精神保健福祉センター
  • 生活困窮者自立支援制度:お住まいの市区町村に窓口あり
  • 若年女性向け支援:Colabo・BOND・若草プロジェクト

📚 もっと深く学ぶ|知識ベースとの連動

この話で出てきたこと より深く学ぶには
「やめたいのにやめられない」依存・強迫的性行動 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ ICD-11「強迫的性行動症」、SA(性的依存症者の会)
女性の性欲の存在、マスターベーション、クリトリスの構造 [第1回 性とからだの基礎知識](../../01_性とからだの基礎知識.md) ─ 解剖、自慰についての医学的事実/[第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性機能と自己肯定感
男性に合わせる「作業のような」セックス、性交痛 [第10回 メンタルヘルスと性](../../10_メンタルヘルスと性.md) ─ 性交痛・腟けいれん(vaginismus)・オーガズム障害/[第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ パートナーとの性的コミュニケーション
スカウト・売春への紹介・人身売買的な構造 [第8回 性暴力・性被害の予防と対応](../../08_性暴力・性被害の予防と対応.md) ─ 性的搾取(JKビジネス・AV出演強要・人身取引)/[第9回 デジタル時代の性とリテラシー](../../09_デジタル時代の性とリテラシー.md) ─ AV出演被害防止・救済法(2022年6月施行)
パートナーシップとお金、デートDV的構造 [第6回 性的同意とコミュニケーション](../../06_性的同意とコミュニケーション.md) ─ 経済的暴力・モラハラの兆候、健全な関係性の指標

次の一歩:もし「自分は依存ぎみかも」と感じたら、無理に判断せず [第10回](../../10_メンタルヘルスと性.md) の「11. 専門家への相談を考える」を。受診の目安と、保険適用・自治体無料相談・自立支援医療制度(精神科通院で1割負担)まで、お金の心配にも答える情報があります。


次回|第3話 伯母さんの台所、52歳の汗

ゴールデンウィークの帰省。鎌倉の伯母さんの家で聞く、更年期、HRT、夫婦のあいだのこと。

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