5月のある土曜の午後、表参道で、リサと、久しぶりに、お茶をした。
ヒルズ裏の小道にある、店内が暗めの、昔ながらの喫茶店。
リサが指定してきたお店で、わたしは、初めて入った。
木の重たい扉を押し開けると、コーヒーの濃い匂いと、どこか古い革の匂いが、ふわっと、漂ってきた。
いまどき、こういう、年季の入った喫茶店は、ふつうに減ってきている。
だから、リサがここを選んだ、というだけで、わたしは、彼女が、今日、ちょっと「逃げ場のある場所」を求めていることを、なんとなく、察した。
奥の窓際の席に、リサは、すでに座っていた。
3年前の結婚式で、ウェディングドレスを着て、まばゆく笑っていたリサ。
いまの彼女は、淡いベージュのカーディガンに、白いブラウスで、髪は短く整えていて、すこしだけ、化粧が薄い気がした。
化粧の薄さが、なんとなく、彼女が、今日、わたしと会うために、いつものよそ行きの自分を、すこし、下ろしてきたように、見えた。
注文を取りに来た、白いシャツに黒いベストの店員さんに、リサは「ホットのカフェオレ、ちょっと熱めで」と、伝えた。
「熱めで」って、わざわざ、注文する人。
なんとなく、その「熱めで」のなかに、リサが、今日、自分の指先を、温めたい気持ちがあるのが、伝わってきた。
わたしはカプチーノと、シナモントーストを、頼んだ。
二人とも、しばらく、当たり障りない、話を、した。
仕事のこと、お互いの友達のこと、最近見たNetflixのドラマのこと、Instagramでフォローしている観葉植物アカウントの話、来年のJ-WAVEのフェスに行きたいねという話。
こういう、入口の会話を、丁寧にやれる時間って、ほんとうに、いまの日本の20代後半の女性には、貴重だ。
忙しすぎるから、用件しかLINEしない友達も、多い。
でも、リサとは、いつも、ちゃんと、入口から、入る。
そのあと、リサが、メニューを、いったん、閉じて、すこし、声を、ひそめた。
「美咲、ちょっと、聞いてほしいんだけど」
そう言ったとき、リサの肩が、ふっと、ちいさく、強ばった。
それを言うために、彼女は、たぶん、何日か、心の中で予行練習をしてきたんだ、と、わたしは、感じた。
「うん」
「先週、夫と一緒に、ブライダルチェックってやつ、受けたの」
「ブライダルチェック」と、わたしは、復唱した。
「結婚してもう3年なんだけど」と、リサは続けた。
「いま、妊活始めて半年で、なかなかタイミング合わなくて」
「それで、子どもできる前に、夫婦でいちど、性感染症とか、ホルモンとか、ぜんぶ調べておこうって」
「うん」
「わたしはクラミジア、夫は梅毒の抗体反応が、出た」
カプチーノを口に運ぼうとしていた、わたしの手は、ぴたっと、止まった。
カップを、ゆっくり、ソーサーに、戻す。
「えっ、それって……」
「うん、ふたりで、頭、真っ白になった」
リサは、カフェオレを、両手で包んで、いったん、深呼吸をしてから、続けた。
「最初の数秒、わたし、夫を見れなかった」
「夫も、たぶん、わたしを見れなかった」
「お互い、相手の過去を、頭の中で、ぐるぐる、回した」
リサは、ふっと、笑った。
でも、その笑い方は、当時の自分を、いまから、許してあげるみたいな笑い方だった。
「でね、無言の3分くらいのあと、夫が、ぽつりと、言ったの」
「「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」って」
「それで、わたし、ようやく、目を上げて、夫を、見た」
リサの目に、ふっと、水が、浮かんだ。
「美咲、結婚3年って、けっこう、長くてね」
「うん」
「いいことも悪いことも、いっぱい、あった」
「でも、あの3分の沈黙のあとに、夫が、最初に出してくれた言葉が、それだったこと」
「わたし、そのこと、たぶん、これからも、ずっと、忘れない」
わたしは、頷くしか、なかった。
リサと夫さんのあいだに、その瞬間に流れた、3分間の沈黙の質感を、わたしは、リサの目の動きから、すこしだけ、もらった気が、した。
──ふと、わたしは、健太と、もし、似た状況になったら、どうするだろう、と、想像した。
わたしと健太は、ちゃんと、3分の沈黙のあとに、「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」と、言える関係だろうか。
それとも、わたしの過去を、彼が、責めるだろうか。
それとも、わたしが、彼の過去を、責めるだろうか。
わからなかった。
でも、わたしは、わたしたちが、責め合わない関係でいたい、と、強く、思った。
「クラミジアは、症状がない人が女性で約8割らしくて」と、リサは続けた。
「わたしも、思い当たるのは、20代前半の彼氏くらいで、当時の自覚症状はゼロ」
「うん」
「気づかないまま、自然消失してたみたい」
「でも、そのときに、卵管が炎症起こして、癒着してたら、不妊の原因になるって、医師に言われた」
「……」
「だから、いま妊娠しないのが、過去のクラミジアのせいかもしれない」
リサは、コーヒーを、両手で、握りしめた。
「美咲、これね、すごく、複雑な気持ちなの」
「うん」
「20代前半のわたしが、自分のからだに対して、ちゃんと検査も避妊もしてこなかったツケを、いま、28歳のわたしが、払ってる」
「当時のわたしを、責めたい気持ちもある」
「でも、当時のわたしは、ちゃんと教わってきてないし、知る機会もなかったし、責められない、とも思う」
「夫を恨みたくも、ない」
「彼も、過去を変えられない」
「だから、いま、わたしが、一番、ぐるぐる、考えてるのは、過去のわたしと、いまのわたしの、関係」
リサの言葉に、わたしの胸の真ん中が、すこし、つまった。
それは、リサだけの話じゃ、なかった。
わたしも、20代前半、ちゃんと検査をしないまま、何人かと付き合ってきた。
わたしのからだのなかにも、知らない傷が、あるかもしれない。
そう考えるだけで、わたしは、すこし、震えた。
いまどき、SNSで「ブライダルチェック行ってきた!」とポップに投稿する女性も、増えている。
でも、その投稿の裏側には、たぶん、リサのような、「過去のからだ」と「いまのからだ」の対話が、ぜんぶ、詰まっている。
ハッシュタグだけ見ると、軽そうに見えるものの、ぜんぶに、こういう深さが、ある。
「リサ」
「うん」
「過去のリサも、いまのリサも、両方、責められないよ」
「過去のリサは、知らなかったから、いまのリサに、教えに来た」
「いまのリサが、それを、これからの自分のために、使えばいい」
リサは、ぽろっと、涙を、一粒、落とした。
「ありがとう、美咲」
「わたしね、夫に責められるかと思ってたの」
「でも、責められなかった」
「だから、わたしも、自分を、責められないでいる」
ひとは、ひとに責められなかったとき、ようやく、自分を責めるのを、やめられる。
それは、けっこう、たいせつな順番だ。
「梅毒のほうは?」
「夫は、学生時代の自分の行動を、覚えてるって」
「うん」
「当時はまだ梅毒、そこまで増えてなかったから、検査するって発想がなかったって言ってた」
「いまは陰性化してるから、いま感染力はないけど、抗体は一生残るから、献血ができなくなるって」
「ふたりとも、子どもを作る前に発見できて、よかった」
リサは、シナモントーストの皿を、見ながら、ちょっと、笑った。
「梅毒は妊娠中だと胎児に感染して先天梅毒になるから、妊活前にわかってよかったって、医師に、言われたの」
「ふたりとも、責めなかった?」
「責められなかった、もう、驚きすぎて」と、リサは、笑った。
「性感染症って、特殊な人がかかるものだって、わたし、無意識に思ってた」
「……うん」
「でも、気づいてないだけで、20代半ば以降の女性、けっこうな割合で、何かしらの感染ある可能性があるって」
「だから、検査するのが大事で、疑うとか責めるとかの話じゃないって、医師に言われて、それで、ふたりで、なんとか冷静になれた」
リサのカフェオレは、もう、半分以下に、なっていた。
わたしのカプチーノには、ハートのラテアートが、もう、崩れて、消えていた。
「リサ」と、わたしは、言った。
「話してくれて、ありがとう」
「ううん」
「誰かに、話しておきたかった」
「美咲なら、変な目で見ないってわかってたから」
リサは、すこしだけ、目を、潤ませた。
「変な目で見ない」って、世の中で、いちばん、簡単そうに見えて、いちばん、難しいスキルだ、と、わたしは、思う。
性感染症だけじゃない。
妊活、不倫、離婚、転職、退職、休職、引きこもり、依存、性的指向。
「変な目で見ない」を、ちゃんと、まなざしと声で、相手に伝えられる人は、ほんとうに、貴重。
わたしは、リサにとって、その「変な目で見ない」誰かに、なれていた。
それを、わたしは、自分の、ささやかな、誇りに、した。
その夜、わたしは、アパートに帰ってから、葵に、電話した。
「ねえ、葵、いま、梅毒、めっちゃ増えてるって本当?」
葵は、ふぅーっと、長く、息を、吐いた。
「ガチ。2024年は届出開始以来の最多で14,663件。10年で14倍くらいになった」
「14倍……」
「今年(2025年)は少し減ったけど、それでも、高水準」
「なんで、急に?」
「いろんな要因があるって言われてる」
「ひとつはSNS・マッチングアプリの普及で、不特定多数との接触機会が、増えたこと」
「もうひとつは、症状が消えても感染力があるってことが、知られてないこと」
「特に、20代女性で増えてる。異性間の感染が中心」
「葵」
「うん?」
「わたし、今日、リサの話を聞いて、自分の過去を、ちょっと、振り返った」
「うん」
「わたしの中にも、知らない傷が、あるかもしれない」
「怖い」
葵は、しばらく、黙った。
そして、ゆっくり、言った。
「美咲、その怖さ、ちゃんと、感じていい」
「うん」
「でもね、その怖さは、悪い怖さじゃないの」
「自分のからだを、これから、ちゃんと、見ていこう、っていう、出発点の怖さ」
「わたしの友達で、自分の仕事のために、毎月、検査をしてる人がいるんだけどね」
「美里?」
「おっ、知ってる名前出してきた」
葵は、笑った。
「そう、美里」
「美里に、いつか、その話、ちゃんと、聞いてみたら?」
「美里は、検査を、罰でも、罪滅ぼしでもなくて、自分のからだに対する、ふつうのケアとして、受け続けてる」
「わたしと健太も、検査、受けたほうがいいよね」
葵は、ちょっと、笑った。
「愛があるカップルほど、検査するの」
その言葉、SNSに書いてあったら、ちょっとキラキラしすぎて、引いていたかもしれない。
でも、葵が、看護師の声で、ふつうに言うと、ちゃんと、教科書みたいに、心に、入ってくる。
それから1週間後、わたしは美里さんから連絡をもらって、新宿三丁目の喫茶店で、お茶を、した。
葵が「美里と美咲、お互い、なんか、合いそう」と、セッティングしてくれた、3人のお茶会。
平日の午後、店内はすいていて、奥のソファ席に、3人で、座った。
美里さんは、その日、私服で、来ていた。
夜のお店のときの、髪をひとつにまとめた感じとは、ちょっと違う、ゆるくウェーブをかけた髪に、白いTシャツとデニム。
化粧は、必要最小限。
仕事を、ちゃんと、外して、来てくれたんだ、というのが、わたしには、伝わった。
「美咲ちゃん、また会えて、嬉しい」と、美里さんは、笑った。
「美里さん、わたしもです」
「美里でいいよ」
「ちゃん付けは、お店の方の名前で慣れすぎて、こっちでは、ふつうに呼ばれたい」
「じゃあ、美里」
「うん、よろしく」
葵が、お茶を、運びながら、ふっと、言った。
「美咲、リサのこと、美里に、話してみたら?」
わたしは、リサ夫婦のブライダルチェックの話を、美里に、した。
美里は、しばらく、頷きながら、聞いていた。
そして、ひとくち、紅茶を飲んでから、こう、言った。
「美咲、うちのお店で働く女の子たち、ほぼ全員、3か月に1回、性感染症の検査を受けてるよ」
「えっ」
「自費で、保険も使えないところで、5,000円から20,000円くらいかけて、定期的に受ける」
「それは、お客さんを守るためでもあるし、わたしたち自身を守るため」
「でね、検査の現場で、いちばん多い感染症って、なんだと思う?」
「……梅毒?」
「残念。一番多いのは、クラミジア」
「特に、咽頭クラミジア」
「喉の感染ね」
「口でうつるから、コンドームしていても、うつることがある」
「わたしの周りでも、毎月のように、誰かが、咽頭クラミジア、咽頭淋病で、抗生物質飲んでる」
美里は、紅茶のカップを、傾けながら、続けた。
「でね、リサさんのご主人の梅毒、わたし、責めたくないし、リサさんのクラミジアも、責めたくない」
「過去って、みんな、傷を持ってる」
「わたしも、自分の過去で、傷もある、後悔もある」
「でも、いま、検査して、わかって、治療できるんだったら、それは、勝ちなの」
「性感染症って、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが、勝ち」
その「勝ち」という言葉に、わたしは、ふっと、笑った。
罪悪感のなかにいるリサに、いちばん必要だった言葉は、もしかしたら、その「勝ち」だったのかもしれない、と、わたしは、思った。
世の中で、性のことについて、「勝ち」って、言葉を当てるのは、けっこう、勇気がいる。
でも、美里は、それを、ふつうに、淡々と、言える人だった。
それは、4年、自分のからだを、自分の手で、毎日守ってきた人にしか、もてない、強さだった。
「美里、あのさ」
「うん」
「わたしが、夜のお店の人、って思って構えてたら、美里、たぶん、笑うと思うんだけど」
美里は、ふっと、笑った。
「笑わないよ」
「うん?」
「たぶん、みんな、最初はそう」
「わたしの仕事は、世間的に、特殊な仕事として扱われてる」
「でも、わたしは、毎月、家賃払って、保険料払って、母の医療費送って、ふつうに生きてる」
「お客さんと話して、お客さんを楽しませて、その対価を頂いて、その分、自分の健康と安全を、自分で管理する」
「それを、4年間、ずっとやってきた」
「わたしは、自分の仕事を、誇りに思ってるわけでも、卑下してるわけでもない」
「ただ、わたしの、いまの、生計の手段。それ以上でも、それ以下でもない」
美里は、お茶を、ひとくち、飲んでから、続けた。
「でもね、美咲ちゃん」
「うん」
「わたしの仕事を、世間が「普通じゃない」って言うことには、わたしも、抵抗する」
「わたしの体を商品にしてる、って言われたら、それも違う」
「わたしは、わたしの労働を、提供してる」
「世間の8時間労働の人と、形が違うだけ」
「それを、世間の人は、なかなか、理解してくれない」
「わたしは、それと、4年間、闘ってきた」
美里の声に、すこし、力が、籠った。
それは、誰かを攻撃する力じゃなくて、自分の人生を、ちゃんと、自分の足で立って、語ろうとしている人の、力だった。
「美里」と、わたしは、言った。
「うん」
「わたし、ぜんぜん、知らなかった、美里みたいな人の毎日のこと」
「でも、美里と話して、わかった気がする」
「「夜のお店の人」って、ひとくくりにすると、見えなくなる、ひとりひとりの人生がある」
「美里、教えてくれて、ありがとう」
美里は、ちょっと、目を、細めた。
「美咲ちゃん、こちらこそ。話して、聞いてもらえるって、わたしには、めっちゃ大きいことなの」
葵が、横で、にっこり、笑っていた。
「ね、美里、いいでしょ、美咲は」
「うん。葵が言うとおりだったね」
そして、ふと、美里は、付け加えた。
「美咲ちゃん、もしね、夜のお店の女性に出会うことがあったら、ふつうに、目を見て、お疲れさま、って言える人で、いてね」
「それで、世界は、ちょっとずつ、変わるから」
わたしは、頷いた。
「お疲れさま」を、変な意味じゃなく、ふつうに、職業を超えて、ちゃんと、ひとに、向ける。
それは、わたしのこれからの、ささやかな、宿題だった。
翌週、わたしは、健太に、提案した。
健太の部屋。日曜の朝、コーヒーを淹れて、トーストを食べているとき。
「ねえ、ふたりで、性感染症の検査、受けてみない?」
健太は、トーストを、口に持っていったまま、5秒くらい、固まった。
「えっ、なんで? 俺、なんかしたっけ?」
「ううん、ぜんぜん、違うの」
わたしは、リサと美里の話を、健太に、した。
健太は、聞き終わってから、しばらく、黙って、コーヒーを、すすった。
「美咲」
「うん」
「俺、その美里さんって人と、話してみたいかも」
「うん?」
「俺、たぶん、夜のお店の人のこと、知らないどころか、勝手に偏見、持ってた」
「でも、その美里さんが、毎月検査受けて、自分のからだ、ちゃんと管理してて、っていうの聞いたら、俺、めっちゃ反省した」
「俺、自分のからだ、いちども、検査受けたことない」
「生まれてから一度も」
「俺のほうが、よっぽど、無責任だった」
健太の言葉に、わたしは、頷いた。
男の人が、こうやって、自分の無責任さを、人前で認めるのは、世間で、たぶん、けっこう、難しい。
「男たるもの」みたいな、ふだんの社会の圧力のなかで、健太は、それを、ちゃんと、認めた。
それは、わたしには、すごく、ありがたい瞬間だった。
「じゃあ、ふたりで、受けよう」
「うん。受けたい」
「疑ってるんじゃないんだよ。信頼してるからこそ、ちゃんと知ろうって」
「うん」
健太は、もうすこし、コーヒーを、すすってから、ぽつりと、言った。
「俺、美里さんに、ちゃんと、ありがとうって、言いたい」
「会ったこともない人だけど」
「その人が、自分の仕事のなかで、ちゃんと、検査して、生きてきたから、俺は、いま、自分も、検査しようって、思えた」
「それって、その人の、おかげ」
わたしは、頷いた。
美里の労働と、美里の知識と、美里の人生が、わたしと健太の関係のなかに、すこしずつ、しみこんでいた。
たぶん、世の中で、ふつうに、男性が、夜のお店で働く女性に対して「ありがとう」と言える日って、まだ、そんなに、ない。
でも、健太は、いま、それを、すこし、言える人になっていた。
わたしは、その変化を、彼の隣で、ちゃんと、見ていた。
検査の日。
5月の風が、ちょっと、汗ばむくらい、暖かかった。
渋谷区の保健所は、駅から少し離れた、古い区役所のとなりに、あった。
受付で「HIV・梅毒の即日検査」と伝えると、番号札を、渡されて、別室に、通された。
採血のあいだ、わたしは、天井を、見ていた。
看護師さんが「ちょっと、ちくっとしますね」と、優しく、針を入れた。
血が、ピンクの試験管に、すぅっと、吸い込まれていった。
健太は、別の部屋で、採血しているらしかった。
待合のベンチで、結果を待つ30分間。
ふと、隣に、若い女の子が、座っているのに、気づいた。
たぶん、わたしより、5つくらい下。
学生かもしれない。
緊張しているのが、横顔からも、わかった。
スマホを握ったまま、何度も、Instagramのアプリを開いて、閉じて、を繰り返している。
SNSで、結果を待つ自分を、誤魔化そうとしているのが、わたしには、ちょっと、わかった。
わたしも、たぶん、ふだんなら、おなじこと、している。
わたしは、「この場所に来た自分を、ちゃんと褒めてあげて」と、心のなかで、彼女にも、自分にも、言った。
ふと、美里が言ってくれた言葉が、思い出された。
「性感染症って、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが、勝ち」
この、緊張している女の子も、すでに、勝ちにきている。
わたしも、そう。
保健所のベンチで、検査を待っているこの30分は、わたしたちの「勝ち」の時間。
「お二人とも、HIV・梅毒、陰性です」
担当の保健師さんが、笑顔で、結果用紙を、渡してくれた。
婦人科・泌尿器科の方の検査も、後日、すべて、陰性だった。
保健所からの帰り道、健太と、渋谷駅まで、歩いた。
公園通りの並木道を、ふたり並んで、ゆっくり、歩いた。
「なんかさ」と、健太が、言った。
「検査受ける前は『もし陽性だったらどうしよう』って、ドキドキしたけど、受けたあとは、めっちゃ、すっきりするね」
「うん」と、わたしも、頷いた。
「知らないことが、いちばん、不安だったんだなって、思った」
「これさ、1年に1回くらい、定期的にやった方が、いいかもね」
「うん、わたしも、そう、思った」
健太は、自分のスマホで、グーグルカレンダーを、開いて、来年の同じ時期に「ふたりで検査」と、入れた。
その小さな入力を、わたしは、すごく、愛おしいと、思った。
ふたりの未来の予定表に、「ふたりで検査」が、ふつうに、入っている。
それは、ロマンチックでもなく、きらびやかでもない。
でも、わたしには、ずっと、続いていきたい関係の、いちばん、しっかりした、骨組みに、見えた。
その夜、わたしは、リサに、LINEを、送った。
美咲:「リサ、わたしと健太も、検査受けた。ぜんぶ陰性だった」
美咲:「リサが話してくれたから、わたしも、自分のからだに、ちゃんと向き合えた」
美咲:「ありがとう」
リサからは、しばらくしてから、返事が、来た。
リサ:「ううん、こちらこそ」
リサ:「わたしの、過去のクラミジアと、夫の、過去の梅毒」
リサ:「それが、誰かを、検査に送り出したなら、その過去は、きっと、無駄じゃなかった」
リサ:「わたしと夫の傷は、誰かの未来を、すこしだけ、守れたのかもしれない」
その文章を読んで、わたしは、ベッドの上で、ぽろっと、涙が、落ちた。
性感染症は、過去の自分の傷だけど、いまの自分は、それを、誰かのために、語ることができる。
美里の労働、葵の経験、リサの過去、わたしの未来。
ぜんぶ、繋がっている。
リサのご主人の、3分の沈黙のあとの「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」が、いま、リサを通して、わたしと健太の関係にまで、染み渡っていた。
人の優しさは、こうやって、知らない人にまで、染み込んでいく。
それは、世間で、もっと、信頼されていい、人間の力だ。
翌週、リサから、LINEが来た。
リサ:「今日のクリニック、夫がHPVワクチンの話してきた」
リサ:「シルガード9、男性も2025年8月から打てるようになったらしい」
リサ:「自分はもう20代後半だし、定期接種の対象じゃないけど、自費で打つって」
リサ:「子どもができる前に、夫婦で対策できることぜんぶやろうって言われた」
リサ:「ちょっと泣きそう」
わたしも、健太も、シルガード9の3回接種を、自費で、進めることにした。
そして、その話を、葵経由で、美里に伝えたら、美里からこんなLINEが、来た。
美里:「美咲ちゃん、すごい。シルガード9、3回9万円、けっこう高いのに」
美里:「わたしも、4年前、自分のお金で打った。あのときは仕事の休憩時間に、駆け込みで打ちに行ったよ」
美里:「カップルで打つ夫婦、まだまだ少ないって聞く」
美里:「美咲ちゃんと健太さんは、これからの未来の、ロールモデルだよ」
「ロールモデル」という言葉に、わたしは、すこし、照れた。
でも、たしかに、そうかもしれない。
わたしたちが、ふつうにやってる、面倒だけど大事なことを、誰かが見て、「わたしも、できるかもしれない」と思うかもしれない。
性の知識は、目立たないけど、ひとつひとつの選択が、未来の社会を、すこしずつ、やわらかくしていく。
わたしは、ベッドのなかで、その文章を、もう一度、読んで、ふっと、笑った。
Instagramのストーリーズに、ハッシュタグ付きで、HPVワクチンの注射の写真を上げる人もいる。
わたしは、それは、しない。
でも、自分のなかで、ちゃんと、それを、選んだ。
それが、わたしのなりの、社会に対する、ちいさな、貢献だ。
美咲のひとり言
リサが涙ぐみながら教えてくれた、過去のクラミジアの話。
美里が誇りをもって語ってくれた、毎月の検査の話。
健太が頭を下げて受け入れた、はじめての検査。
性感染症って、ひとりひとり、抱えている文脈が、ぜんぜん、違う。
でも、共通しているのは、「いま気づいて、いま行動した人が、自分のからだを、ちゃんと、取り戻している」ということ。
リサも、美里も、わたしも、健太も、ぜんぶ、自分のからだに、ちゃんと、向き合おうとしている人たち。
わたしは、その仲間に、なれた。
それが、性感染症という、一見、暗いテーマのなかで、わたしが見つけた、いちばんの、希望だった。
そして、もうひとつ。
過去のからだを、責めない。
過去のからだは、いまのわたしに、教えに来た先輩。
先輩の言葉を、ちゃんと、聞いて、これから、活かす。
それが、過去を、無駄にしない、いちばんの、方法。
STIまとめメモ:知ってよかったこと
主要な性感染症
| 病気 | 特徴 | 治療 |
|---|---|---|
| 梅毒 | 2024年14,663件で過去最多。20代女性で急増。無痛のしこり→全身発疹 | 抗菌薬で完治 |
| クラミジア | 最多のSTI。女性は約8割が無症状。咽頭クラミジアも多い | 抗菌薬1回〜1週間 |
| 淋病 | 男性は強い排尿痛。薬剤耐性菌が増加中 | 抗菌薬注射 |
| 性器ヘルペス | 完治はせず再発を繰り返す。無症状でも感染力 | 抗ウイルス薬で症状コントロール |
| HPV(尖圭コンジローマ・子宮頸がん) | 性交経験者の50〜80%が感染 | ワクチンで予防可 |
| HIV | 治療継続で通常寿命。U=U | ART(抗HIV療法) |
| B型肝炎 | 慢性化で肝硬変・肝がん | ワクチンで予防可 |
検査について
- 保健所でHIV・梅毒は無料・匿名で検査可
- 不安な行為から3週間〜3か月は経ってから検査
- 自宅でできる郵送検査キットもある
- ブライダルチェック:結婚・妊活前のカップル検査
- 夜の業界の女性は、3か月に1回、自費で定期検査が当たり前:そこから学べること多い
HPVワクチン(2026年最新)
- 女子の定期接種:小6〜高1(無料)
- キャッチアップ:1997〜2007年度生まれ、2026年3月末まで完了が公費
- 男性:2025年8月にシルガード9が適応拡大。一部自治体で公費助成あり
心の整理
- 性感染症は、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが勝ち
- 過去のからだを責めない、いまのからだを大切にする
- ふたりで検査することは、信頼の表現
相談窓口
- HIV・梅毒の検査:お住まいの保健所(多くは無料・匿名・要予約)
- API-Net(エイズ予防情報ネット):api-net.jfap.or.jp
- 梅毒の最新統計:国立健康危機管理研究機構(旧・国立感染症研究所)
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