第4話|リサ夫婦の、ブライダルチェック



5月のある土曜の午後、表参道で、リサと、久しぶりに、お茶をした。

ヒルズ裏の小道にある、店内が暗めの、昔ながらの喫茶店。

リサが指定してきたお店で、わたしは、初めて入った。

木の重たい扉を押し開けると、コーヒーの濃い匂いと、どこか古い革の匂いが、ふわっと、漂ってきた。

いまどき、こういう、年季の入った喫茶店は、ふつうに減ってきている

だから、リサがここを選んだ、というだけで、わたしは、彼女が、今日、ちょっと「逃げ場のある場所」を求めていることを、なんとなく、察した

奥の窓際の席に、リサは、すでに座っていた。

3年前の結婚式で、ウェディングドレスを着て、まばゆく笑っていたリサ。

いまの彼女は、淡いベージュのカーディガンに、白いブラウスで、髪は短く整えていて、すこしだけ、化粧が薄い気がした

化粧の薄さが、なんとなく、彼女が、今日、わたしと会うために、いつものよそ行きの自分を、すこし、下ろしてきたように、見えた。

注文を取りに来た、白いシャツに黒いベストの店員さんに、リサは「ホットのカフェオレ、ちょっと熱めで」と、伝えた。

「熱めで」って、わざわざ、注文する人。

なんとなく、その「熱めで」のなかに、リサが、今日、自分の指先を、温めたい気持ちがあるのが、伝わってきた

わたしはカプチーノと、シナモントーストを、頼んだ。

二人とも、しばらく、当たり障りない、話を、した。

仕事のこと、お互いの友達のこと、最近見たNetflixのドラマのこと、Instagramでフォローしている観葉植物アカウントの話、来年のJ-WAVEのフェスに行きたいねという話。

こういう、入口の会話を、丁寧にやれる時間って、ほんとうに、いまの日本の20代後半の女性には、貴重だ

忙しすぎるから、用件しかLINEしない友達も、多い

でも、リサとは、いつも、ちゃんと、入口から、入る

そのあと、リサが、メニューを、いったん、閉じて、すこし、声を、ひそめた。

「美咲、ちょっと、聞いてほしいんだけど」

そう言ったとき、リサの肩が、ふっと、ちいさく、強ばった。

それを言うために、彼女は、たぶん、何日か、心の中で予行練習をしてきたんだ、と、わたしは、感じた。



「うん」

「先週、夫と一緒に、ブライダルチェックってやつ、受けたの」

「ブライダルチェック」と、わたしは、復唱した。

「結婚してもう3年なんだけど」と、リサは続けた。

いま、妊活始めて半年で、なかなかタイミング合わなくて」

「それで、子どもできる前に、夫婦でいちど、性感染症とか、ホルモンとか、ぜんぶ調べておこうって」

「うん」

わたしはクラミジア、夫は梅毒の抗体反応が、出た

カプチーノを口に運ぼうとしていた、わたしの手は、ぴたっと、止まった。

カップを、ゆっくり、ソーサーに、戻す。

「えっ、それって……」

「うん、ふたりで、頭、真っ白になった」

リサは、カフェオレを、両手で包んで、いったん、深呼吸をしてから、続けた。

最初の数秒、わたし、夫を見れなかった

夫も、たぶん、わたしを見れなかった

お互い、相手の過去を、頭の中で、ぐるぐる、回した

リサは、ふっと、笑った。

でも、その笑い方は、当時の自分を、いまから、許してあげるみたいな笑い方だった

でね、無言の3分くらいのあと、夫が、ぽつりと、言ったの

「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」って」

それで、わたし、ようやく、目を上げて、夫を、見た

リサの目に、ふっと、水が、浮かんだ。

美咲、結婚3年って、けっこう、長くてね

「うん」

いいことも悪いことも、いっぱい、あった

でも、あの3分の沈黙のあとに、夫が、最初に出してくれた言葉が、それだったこと

わたし、そのこと、たぶん、これからも、ずっと、忘れない

わたしは、頷くしか、なかった。

リサと夫さんのあいだに、その瞬間に流れた、3分間の沈黙の質感を、わたしは、リサの目の動きから、すこしだけ、もらった気が、した。

──ふと、わたしは、健太と、もし、似た状況になったら、どうするだろう、と、想像した。

わたしと健太は、ちゃんと、3分の沈黙のあとに、「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」と、言える関係だろうか

それとも、わたしの過去を、彼が、責めるだろうか

それとも、わたしが、彼の過去を、責めるだろうか

わからなかった

でも、わたしは、わたしたちが、責め合わない関係でいたい、と、強く、思った



「クラミジアは、症状がない人が女性で約8割らしくて」と、リサは続けた。

「わたしも、思い当たるのは、20代前半の彼氏くらいで、当時の自覚症状はゼロ」

「うん」

気づかないまま、自然消失してたみたい

でも、そのときに、卵管が炎症起こして、癒着してたら、不妊の原因になるって、医師に言われた」

「……」

だから、いま妊娠しないのが、過去のクラミジアのせいかもしれない

リサは、コーヒーを、両手で、握りしめた。

美咲、これね、すごく、複雑な気持ちなの

「うん」

20代前半のわたしが、自分のからだに対して、ちゃんと検査も避妊もしてこなかったツケを、いま、28歳のわたしが、払ってる

当時のわたしを、責めたい気持ちもある

でも、当時のわたしは、ちゃんと教わってきてないし、知る機会もなかったし、責められない、とも思う

夫を恨みたくも、ない

彼も、過去を変えられない

だから、いま、わたしが、一番、ぐるぐる、考えてるのは、過去のわたしと、いまのわたしの、関係

リサの言葉に、わたしの胸の真ん中が、すこし、つまった。

それは、リサだけの話じゃ、なかった

わたしも、20代前半、ちゃんと検査をしないまま、何人かと付き合ってきた

わたしのからだのなかにも、知らない傷が、あるかもしれない

そう考えるだけで、わたしは、すこし、震えた。

いまどき、SNSで「ブライダルチェック行ってきた!」とポップに投稿する女性も、増えている

でも、その投稿の裏側には、たぶん、リサのような、「過去のからだ」と「いまのからだ」の対話が、ぜんぶ、詰まっている

ハッシュタグだけ見ると、軽そうに見えるものの、ぜんぶに、こういう深さが、ある

「リサ」

「うん」

過去のリサも、いまのリサも、両方、責められないよ

過去のリサは、知らなかったから、いまのリサに、教えに来た

いまのリサが、それを、これからの自分のために、使えばいい

リサは、ぽろっと、涙を、一粒、落とした。

ありがとう、美咲

わたしね、夫に責められるかと思ってたの」

でも、責められなかった

だから、わたしも、自分を、責められないでいる

ひとは、ひとに責められなかったとき、ようやく、自分を責めるのを、やめられる

それは、けっこう、たいせつな順番だ。



「梅毒のほうは?」

夫は、学生時代の自分の行動を、覚えてるって」

「うん」

「当時はまだ梅毒、そこまで増えてなかったから、検査するって発想がなかったって言ってた」

いまは陰性化してるから、いま感染力はないけど、抗体は一生残るから、献血ができなくなるって」

ふたりとも、子どもを作る前に発見できて、よかった

リサは、シナモントーストの皿を、見ながら、ちょっと、笑った。

梅毒は妊娠中だと胎児に感染して先天梅毒になるから、妊活前にわかってよかったって、医師に、言われたの」

「ふたりとも、責めなかった?」

責められなかった、もう、驚きすぎて」と、リサは、笑った。

性感染症って、特殊な人がかかるものだって、わたし、無意識に思ってた」

「……うん」

「でも、気づいてないだけで、20代半ば以降の女性、けっこうな割合で、何かしらの感染ある可能性があるって」

だから、検査するのが大事で、疑うとか責めるとかの話じゃないって、医師に言われて、それで、ふたりで、なんとか冷静になれた」

リサのカフェオレは、もう、半分以下に、なっていた。

わたしのカプチーノには、ハートのラテアートが、もう、崩れて、消えていた。

「リサ」と、わたしは、言った。

話してくれて、ありがとう

「ううん」

誰かに、話しておきたかった

美咲なら、変な目で見ないってわかってたから

リサは、すこしだけ、目を、潤ませた。

「変な目で見ない」って、世の中で、いちばん、簡単そうに見えて、いちばん、難しいスキルだ、と、わたしは、思う。

性感染症だけじゃない

妊活、不倫、離婚、転職、退職、休職、引きこもり、依存、性的指向

「変な目で見ない」を、ちゃんと、まなざしと声で、相手に伝えられる人は、ほんとうに、貴重

わたしは、リサにとって、その「変な目で見ない」誰かに、なれていた

それを、わたしは、自分の、ささやかな、誇りに、した



その夜、わたしは、アパートに帰ってから、葵に、電話した。

「ねえ、葵、いま、梅毒、めっちゃ増えてるって本当?」

葵は、ふぅーっと、長く、息を、吐いた。

「ガチ。2024年は届出開始以来の最多で14,663件。10年で14倍くらいになった」

「14倍……」

「今年(2025年)は少し減ったけど、それでも、高水準」

「なんで、急に?」

「いろんな要因があるって言われてる」

「ひとつはSNS・マッチングアプリの普及で、不特定多数との接触機会が、増えたこと」

「もうひとつは、症状が消えても感染力があるってことが、知られてないこと」

特に、20代女性で増えてる異性間の感染が中心

「葵」

「うん?」

わたし、今日、リサの話を聞いて、自分の過去を、ちょっと、振り返った

「うん」

わたしの中にも、知らない傷が、あるかもしれない

怖い

葵は、しばらく、黙った。

そして、ゆっくり、言った。

美咲、その怖さ、ちゃんと、感じていい

「うん」

でもね、その怖さは、悪い怖さじゃないの

自分のからだを、これから、ちゃんと、見ていこう、っていう、出発点の怖さ

わたしの友達で、自分の仕事のために、毎月、検査をしてる人がいるんだけどね

美里?」

おっ、知ってる名前出してきた

葵は、笑った。

そう、美里

美里に、いつか、その話、ちゃんと、聞いてみたら?

美里は、検査を、罰でも、罪滅ぼしでもなくて、自分のからだに対する、ふつうのケアとして、受け続けてる

わたしと健太も、検査、受けたほうがいいよね

葵は、ちょっと、笑った。

愛があるカップルほど、検査するの

その言葉、SNSに書いてあったら、ちょっとキラキラしすぎて、引いていたかもしれない。

でも、葵が、看護師の声で、ふつうに言うと、ちゃんと、教科書みたいに、心に、入ってくる



それから1週間後、わたしは美里さんから連絡をもらって、新宿三丁目の喫茶店で、お茶を、した。

葵が「美里と美咲、お互い、なんか、合いそう」と、セッティングしてくれた、3人のお茶会。

平日の午後、店内はすいていて、奥のソファ席に、3人で、座った。

美里さんは、その日、私服で、来ていた。

夜のお店のときの、髪をひとつにまとめた感じとは、ちょっと違う、ゆるくウェーブをかけた髪に、白いTシャツとデニム。

化粧は、必要最小限

仕事を、ちゃんと、外して、来てくれたんだ、というのが、わたしには、伝わった。

美咲ちゃん、また会えて、嬉しい」と、美里さんは、笑った。

美里さん、わたしもです

美里でいいよ

ちゃん付けは、お店の方の名前で慣れすぎて、こっちでは、ふつうに呼ばれたい

じゃあ、美里

うん、よろしく

葵が、お茶を、運びながら、ふっと、言った。

美咲、リサのこと、美里に、話してみたら?

わたしは、リサ夫婦のブライダルチェックの話を、美里に、した。

美里は、しばらく、頷きながら、聞いていた。

そして、ひとくち、紅茶を飲んでから、こう、言った。

美咲、うちのお店で働く女の子たち、ほぼ全員、3か月に1回、性感染症の検査を受けてるよ

えっ

自費で、保険も使えないところで、5,000円から20,000円くらいかけて、定期的に受ける

それは、お客さんを守るためでもあるし、わたしたち自身を守るため

でね、検査の現場で、いちばん多い感染症って、なんだと思う?

「……梅毒?」

残念。一番多いのは、クラミジア

特に、咽頭クラミジア

喉の感染ね」

口でうつるから、コンドームしていても、うつることがある

わたしの周りでも、毎月のように、誰かが、咽頭クラミジア、咽頭淋病で、抗生物質飲んでる

美里は、紅茶のカップを、傾けながら、続けた。

でね、リサさんのご主人の梅毒、わたし、責めたくないし、リサさんのクラミジアも、責めたくない

過去って、みんな、傷を持ってる

わたしも、自分の過去で、傷もある、後悔もある

でも、いま、検査して、わかって、治療できるんだったら、それは、勝ちなの

性感染症って、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが、勝ち

その「勝ち」という言葉に、わたしは、ふっと、笑った。

罪悪感のなかにいるリサに、いちばん必要だった言葉は、もしかしたら、その「勝ち」だったのかもしれない、と、わたしは、思った。

世の中で、性のことについて、「勝ち」って、言葉を当てるのは、けっこう、勇気がいる。

でも、美里は、それを、ふつうに、淡々と、言える人だった。

それは、4年、自分のからだを、自分の手で、毎日守ってきた人にしか、もてない、強さだった。



「美里、あのさ」

「うん」

わたしが、夜のお店の人、って思って構えてたら、美里、たぶん、笑うと思うんだけど

美里は、ふっと、笑った。

笑わないよ

「うん?」

たぶん、みんな、最初はそう

わたしの仕事は、世間的に、特殊な仕事として扱われてる

でも、わたしは、毎月、家賃払って、保険料払って、母の医療費送って、ふつうに生きてる

お客さんと話して、お客さんを楽しませて、その対価を頂いて、その分、自分の健康と安全を、自分で管理する

それを、4年間、ずっとやってきた

わたしは、自分の仕事を、誇りに思ってるわけでも、卑下してるわけでもない

ただ、わたしの、いまの、生計の手段。それ以上でも、それ以下でもない

美里は、お茶を、ひとくち、飲んでから、続けた。

でもね、美咲ちゃん

「うん」

わたしの仕事を、世間が「普通じゃない」って言うことには、わたしも、抵抗する

わたしの体を商品にしてる、って言われたら、それも違う

わたしは、わたしの労働を、提供してる

世間の8時間労働の人と、形が違うだけ

それを、世間の人は、なかなか、理解してくれない

わたしは、それと、4年間、闘ってきた

美里の声に、すこし、力が、籠った。

それは、誰かを攻撃する力じゃなくて、自分の人生を、ちゃんと、自分の足で立って、語ろうとしている人の、力だった。

美里」と、わたしは、言った。

「うん」

わたし、ぜんぜん、知らなかった、美里みたいな人の毎日のこと

でも、美里と話して、わかった気がする

「夜のお店の人」って、ひとくくりにすると、見えなくなる、ひとりひとりの人生がある

美里、教えてくれて、ありがとう

美里は、ちょっと、目を、細めた。

美咲ちゃん、こちらこそ。話して、聞いてもらえるって、わたしには、めっちゃ大きいことなの

葵が、横で、にっこり、笑っていた。

ね、美里、いいでしょ、美咲は

うん。葵が言うとおりだったね

そして、ふと、美里は、付け加えた。

美咲ちゃん、もしね、夜のお店の女性に出会うことがあったら、ふつうに、目を見て、お疲れさま、って言える人で、いてね

それで、世界は、ちょっとずつ、変わるから

わたしは、頷いた。

「お疲れさま」を、変な意味じゃなく、ふつうに、職業を超えて、ちゃんと、ひとに、向ける

それは、わたしのこれからの、ささやかな、宿題だった



翌週、わたしは、健太に、提案した。

健太の部屋。日曜の朝、コーヒーを淹れて、トーストを食べているとき。

「ねえ、ふたりで、性感染症の検査、受けてみない?

健太は、トーストを、口に持っていったまま、5秒くらい、固まった。

「えっ、なんで? 俺、なんかしたっけ?」

「ううん、ぜんぜん、違うの」

わたしは、リサと美里の話を、健太に、した。

健太は、聞き終わってから、しばらく、黙って、コーヒーを、すすった。

「美咲」

「うん」

俺、その美里さんって人と、話してみたいかも

「うん?」

俺、たぶん、夜のお店の人のこと、知らないどころか、勝手に偏見、持ってた

でも、その美里さんが、毎月検査受けて、自分のからだ、ちゃんと管理してて、っていうの聞いたら、俺、めっちゃ反省した

俺、自分のからだ、いちども、検査受けたことない

生まれてから一度も

俺のほうが、よっぽど、無責任だった

健太の言葉に、わたしは、頷いた。

男の人が、こうやって、自分の無責任さを、人前で認めるのは、世間で、たぶん、けっこう、難しい

「男たるもの」みたいな、ふだんの社会の圧力のなかで、健太は、それを、ちゃんと、認めた

それは、わたしには、すごく、ありがたい瞬間だった

じゃあ、ふたりで、受けよう

「うん。受けたい」

疑ってるんじゃないんだよ。信頼してるからこそ、ちゃんと知ろうって」

「うん」

健太は、もうすこし、コーヒーを、すすってから、ぽつりと、言った。

俺、美里さんに、ちゃんと、ありがとうって、言いたい

会ったこともない人だけど

その人が、自分の仕事のなかで、ちゃんと、検査して、生きてきたから、俺は、いま、自分も、検査しようって、思えた

それって、その人の、おかげ

わたしは、頷いた。

美里の労働と、美里の知識と、美里の人生が、わたしと健太の関係のなかに、すこしずつ、しみこんでいた。

たぶん、世の中で、ふつうに、男性が、夜のお店で働く女性に対して「ありがとう」と言える日って、まだ、そんなに、ない

でも、健太は、いま、それを、すこし、言える人になっていた

わたしは、その変化を、彼の隣で、ちゃんと、見ていた



検査の日。

5月の風が、ちょっと、汗ばむくらい、暖かかった。

渋谷区の保健所は、駅から少し離れた、古い区役所のとなりに、あった。

受付で「HIV・梅毒の即日検査」と伝えると、番号札を、渡されて、別室に、通された。

採血のあいだ、わたしは、天井を、見ていた。

看護師さんが「ちょっと、ちくっとしますね」と、優しく、針を入れた。

血が、ピンクの試験管に、すぅっと、吸い込まれていった。

健太は、別の部屋で、採血しているらしかった。

待合のベンチで、結果を待つ30分間。

ふと、隣に、若い女の子が、座っているのに、気づいた。

たぶん、わたしより、5つくらい下。

学生かもしれない。

緊張しているのが、横顔からも、わかった。

スマホを握ったまま、何度も、Instagramのアプリを開いて、閉じて、を繰り返している

SNSで、結果を待つ自分を、誤魔化そうとしているのが、わたしには、ちょっと、わかった。

わたしも、たぶん、ふだんなら、おなじこと、している

わたしは、「この場所に来た自分を、ちゃんと褒めてあげて」と、心のなかで、彼女にも、自分にも、言った。

ふと、美里が言ってくれた言葉が、思い出された。

性感染症って、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが、勝ち

この、緊張している女の子も、すでに、勝ちにきている

わたしも、そう

保健所のベンチで、検査を待っているこの30分は、わたしたちの「勝ち」の時間



お二人とも、HIV・梅毒、陰性です

担当の保健師さんが、笑顔で、結果用紙を、渡してくれた。

婦人科・泌尿器科の方の検査も、後日、すべて、陰性だった。

保健所からの帰り道、健太と、渋谷駅まで、歩いた。

公園通りの並木道を、ふたり並んで、ゆっくり、歩いた。

「なんかさ」と、健太が、言った。

「検査受ける前は『もし陽性だったらどうしよう』って、ドキドキしたけど、受けたあとは、めっちゃ、すっきりするね」

「うん」と、わたしも、頷いた。

知らないことが、いちばん、不安だったんだなって、思った」

「これさ、1年に1回くらい、定期的にやった方が、いいかもね」

「うん、わたしも、そう、思った」

健太は、自分のスマホで、グーグルカレンダーを、開いて、来年の同じ時期に「ふたりで検査」と、入れた。

その小さな入力を、わたしは、すごく、愛おしいと、思った。

ふたりの未来の予定表に、「ふたりで検査」が、ふつうに、入っている

それは、ロマンチックでもなく、きらびやかでもない

でも、わたしには、ずっと、続いていきたい関係の、いちばん、しっかりした、骨組みに、見えた



その夜、わたしは、リサに、LINEを、送った。

美咲:「リサ、わたしと健太も、検査受けた。ぜんぶ陰性だった」

美咲:「リサが話してくれたから、わたしも、自分のからだに、ちゃんと向き合えた

美咲:「ありがとう

リサからは、しばらくしてから、返事が、来た。

リサ:「ううん、こちらこそ」

リサ:「わたしの、過去のクラミジアと、夫の、過去の梅毒

リサ:「それが、誰かを、検査に送り出したなら、その過去は、きっと、無駄じゃなかった

リサ:「わたしと夫の傷は、誰かの未来を、すこしだけ、守れたのかもしれない

その文章を読んで、わたしは、ベッドの上で、ぽろっと、涙が、落ちた。

性感染症は、過去の自分の傷だけど、いまの自分は、それを、誰かのために、語ることができる

美里の労働、葵の経験、リサの過去、わたしの未来

ぜんぶ、繋がっている

リサのご主人の、3分の沈黙のあとの「これは、ふたりで一緒に、乗り越えるしかないね」が、いま、リサを通して、わたしと健太の関係にまで、染み渡っていた。

人の優しさは、こうやって、知らない人にまで、染み込んでいく

それは、世間で、もっと、信頼されていい、人間の力だ。



翌週、リサから、LINEが来た。

リサ:「今日のクリニック、夫がHPVワクチンの話してきた」

リサ:「シルガード9、男性も2025年8月から打てるようになったらしい」

リサ:「自分はもう20代後半だし、定期接種の対象じゃないけど、自費で打つって」

リサ:「子どもができる前に、夫婦で対策できることぜんぶやろうって言われた」

リサ:「ちょっと泣きそう」

わたしも、健太も、シルガード9の3回接種を、自費で、進めることにした。

そして、その話を、葵経由で、美里に伝えたら、美里からこんなLINEが、来た。

美里:「美咲ちゃん、すごい。シルガード9、3回9万円、けっこう高いのに

美里:「わたしも、4年前、自分のお金で打った。あのときは仕事の休憩時間に、駆け込みで打ちに行ったよ

美里:「カップルで打つ夫婦、まだまだ少ないって聞く

美里:「美咲ちゃんと健太さんは、これからの未来の、ロールモデルだよ

「ロールモデル」という言葉に、わたしは、すこし、照れた。

でも、たしかに、そうかもしれない

わたしたちが、ふつうにやってる、面倒だけど大事なことを、誰かが見て、「わたしも、できるかもしれない」と思うかもしれない。

性の知識は、目立たないけど、ひとつひとつの選択が、未来の社会を、すこしずつ、やわらかくしていく

わたしは、ベッドのなかで、その文章を、もう一度、読んで、ふっと、笑った。

Instagramのストーリーズに、ハッシュタグ付きで、HPVワクチンの注射の写真を上げる人もいる

わたしは、それは、しない

でも、自分のなかで、ちゃんと、それを、選んだ

それが、わたしのなりの、社会に対する、ちいさな、貢献だ。


目次

美咲のひとり言

リサが涙ぐみながら教えてくれた、過去のクラミジアの話。

美里が誇りをもって語ってくれた、毎月の検査の話。

健太が頭を下げて受け入れた、はじめての検査。

性感染症って、ひとりひとり、抱えている文脈が、ぜんぜん、違う

でも、共通しているのは、「いま気づいて、いま行動した人が、自分のからだを、ちゃんと、取り戻している」ということ。

リサも、美里も、わたしも、健太も、ぜんぶ、自分のからだに、ちゃんと、向き合おうとしている人たち。

わたしは、その仲間に、なれた

それが、性感染症という、一見、暗いテーマのなかで、わたしが見つけた、いちばんの、希望だった。

そして、もうひとつ。

過去のからだを、責めない

過去のからだは、いまのわたしに、教えに来た先輩

先輩の言葉を、ちゃんと、聞いて、これから、活かす

それが、過去を、無駄にしない、いちばんの、方法


STIまとめメモ:知ってよかったこと

主要な性感染症

病気 特徴 治療
梅毒 2024年14,663件で過去最多。20代女性で急増。無痛のしこり→全身発疹 抗菌薬で完治
クラミジア 最多のSTI。女性は約8割が無症状咽頭クラミジアも多い 抗菌薬1回〜1週間
淋病 男性は強い排尿痛。薬剤耐性菌が増加中 抗菌薬注射
性器ヘルペス 完治はせず再発を繰り返す。無症状でも感染力 抗ウイルス薬で症状コントロール
HPV(尖圭コンジローマ・子宮頸がん) 性交経験者の50〜80%が感染 ワクチンで予防可
HIV 治療継続で通常寿命。U=U ART(抗HIV療法)
B型肝炎 慢性化で肝硬変・肝がん ワクチンで予防可

検査について

  • 保健所でHIV・梅毒は無料・匿名で検査可
  • 不安な行為から3週間〜3か月は経ってから検査
  • 自宅でできる郵送検査キットもある
  • ブライダルチェック:結婚・妊活前のカップル検査
  • 夜の業界の女性は、3か月に1回、自費で定期検査が当たり前:そこから学べること多い

HPVワクチン(2026年最新)

  • 女子の定期接種:小6〜高1(無料)
  • キャッチアップ:1997〜2007年度生まれ、2026年3月末まで完了が公費
  • 男性:2025年8月にシルガード9が適応拡大。一部自治体で公費助成あり

心の整理

  • 性感染症は、勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが勝ち
  • 過去のからだを責めない、いまのからだを大切にする
  • ふたりで検査することは、信頼の表現

相談窓口

  • HIV・梅毒の検査:お住まいの保健所(多くは無料・匿名・要予約)
  • API-Net(エイズ予防情報ネット):api-net.jfap.or.jp
  • 梅毒の最新統計:国立健康危機管理研究機構(旧・国立感染症研究所)

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第4話|リサ夫婦の、ブライダルチェック



5月のある土曜の午後、表参道でリサと久しぶりにお茶をした。

ヒルズ裏の小道にある、店内が暗めの昔ながらの喫茶店。リサが指定してきたお店で、わたしは初めて入った。木の重たい扉を押し開けると、コーヒーの濃い匂いと古い革の匂いがふわっと漂ってきた。いまどきこういう年季の入った喫茶店はふつうに減ってきている。だからリサがここを選んだというだけで、今日はちょっと「逃げ場のある場所」を求めてるんだなと察した。

奥の窓際の席にリサはすでに座っていた。

3年前の結婚式でウェディングドレスを着てまばゆく笑っていたリサ。いまの彼女は淡いベージュのカーディガンに白いブラウスで、すこしだけ化粧が薄い気がした。

注文を取りに来た店員さんにリサは「ホットのカフェオレ、ちょっと熱めで」と伝えた。わたしはカプチーノとシナモントーストを頼んだ。

二人ともしばらく当たり障りのない話をした。仕事のこと、お互いの友達のこと、最近見たNetflixのドラマのこと。

そのあとリサがメニューを閉じて、すこし声をひそめた。

「萌、ちょっと聞いてほしいんだけど」

そう言ったとき、リサの肩がふっと小さく強ばった。



「うん」

「先週、夫と一緒にブライダルチェックってやつ受けたの」

「ブライダルチェック」と、わたしは復唱した。

「結婚してもう3年なんだけど」とリサは続けた。

「いま妊活始めて半年で、なかなかタイミング合わなくて」

「それで子どもできる前に夫婦でいちど性感染症とかホルモンとかぜんぶ調べておこうって」

「うん」

「わたしはクラミジア、夫は梅毒の抗体反応が出た」

カプチーノを口に運ぼうとしていたわたしの手がぴたっと止まった。

「えっ、それって……」

「うん、ふたりで頭真っ白になった」

リサはカフェオレを両手で包んで深呼吸してから続けた。

「最初の数秒、わたし夫を見れなかった」

「夫もたぶんわたしを見れなかった」

「お互い相手の過去を頭の中でぐるぐる回した」

リサはふっと笑った。でもその笑い方は、当時の自分をいまから許してあげるみたいな笑い方だった。

「でね、無言の3分くらいのあと、夫がぽつりと言ったの」

「『これはふたりで一緒に乗り越えるしかないね』って」

「それでわたし、ようやく目を上げて夫を見た」

リサの目にふっと水が浮かんだ。

「萌、結婚3年ってけっこう長くてね」

「うん」

「いいことも悪いこともいっぱいあった」

「でも、あの3分の沈黙のあとに夫が最初に出してくれた言葉がそれだったこと」

「わたし、そのことたぶんこれからもずっと忘れない」

わたしは頷くしかなかった。

ふとわたしは翔ともし似た状況になったらどうするだろうと想像した。わたしと翔はちゃんと3分の沈黙のあとに「ふたりで乗り越えよう」と言える関係だろうか。わからなかった。でもわたしはわたしたちが責め合わない関係でいたいと強く思った。



「クラミジアは症状がない人が女性で約8割らしくて」とリサは続けた。

「わたしも思い当たるのは20代前半の彼氏くらいで、当時の自覚症状はゼロ」

「うん」

「気づかないまま自然消失してたみたい」

「でもそのときに卵管が炎症起こして癒着してたら不妊の原因になるって医師に言われた」

「だからいま妊娠しないのが過去のクラミジアのせいかもしれない」

リサはコーヒーを両手で握りしめた。

「萌、これねすごく複雑な気持ちなの」

「うん」

「20代前半のわたしが自分のからだに対してちゃんと検査も避妊もしてこなかったツケを、いま28歳のわたしが払ってる」

「当時のわたしを責めたい気持ちもある」

「でも当時のわたしはちゃんと教わってきてないし、知る機会もなかったし、責められないとも思う」

「夫を恨みたくもない。彼も過去を変えられない」

「だからいまわたしがいちばんぐるぐる考えてるのは、過去のわたしといまのわたしの関係」

リサの言葉にわたしの胸の真ん中がすこしつまった。

それはリサだけの話じゃなかった。わたしも20代前半、ちゃんと検査をしないまま何人かと付き合ってきた。わたしのからだのなかにも知らない傷があるかもしれない。

「リサ」

「うん」

「過去のリサもいまのリサも、両方責められないよ」

「過去のリサは知らなかったから、いまのリサに教えに来た」

「いまのリサがそれをこれからの自分のために使えばいい」

リサはぽろっと涙を一粒落とした。

「ありがとう萌」

「わたしね、夫に責められるかと思ってたの」

「でも責められなかった」

「だからわたしも自分を責められないでいる」

ひとはひとに責められなかったとき、ようやく自分を責めるのをやめられる。それはけっこう大切な順番だ。



「梅毒のほうは?」

「夫は学生時代の自分の行動を覚えてるって」

「うん」

「当時はまだ梅毒そこまで増えてなかったから検査するって発想がなかったって言ってた」

「いまは陰性化してるから感染力はないけど、抗体は一生残るから献血ができなくなるって」

「ふたりとも子どもを作る前に発見できてよかった」

「梅毒は妊娠中だと胎児に感染して先天梅毒になるから、妊活前にわかってよかったって医師に言われたの」

「ふたりとも責めなかった?」

「責められなかった、もう驚きすぎて」とリサは笑った。

「性感染症って特殊な人がかかるものだってわたし無意識に思ってた」

「……うん」

「でも気づいてないだけで20代半ば以降の女性、けっこうな割合で何かしらの感染ある可能性があるって」

「だから検査するのが大事で、疑うとか責めるとかの話じゃないって医師に言われて、それでふたりでなんとか冷静になれた」

「リサ」とわたしは言った。

「話してくれてありがとう」

「ううん」

「誰かに話しておきたかった」

「萌なら変な目で見ないってわかってたから」

「変な目で見ない」って、世の中でいちばん簡単そうに見えていちばん難しいスキルだと思う。性感染症だけじゃない。妊活も不倫も離婚も転職も休職も依存も性的指向も。「変な目で見ない」をちゃんとまなざしと声で相手に伝えられる人はほんとうに貴重だ。



その夜、わたしはアパートに帰ってから杏に電話した。

「ねえ杏、いま梅毒めっちゃ増えてるって本当?」

杏はふぅーっと長く息を吐いた。

「ガチ。2024年は届出開始以来の最多で14,663件。10年で14倍くらいになった」

「14倍……」

「今年(2025年)は少し減ったけど、それでも高水準」

「なんで急に?」

「いろんな要因があるって言われてる。ひとつはSNS・マッチングアプリの普及で不特定多数との接触機会が増えたこと。もうひとつは症状が消えても感染力があるってことが知られてないこと」

「特に20代女性で増えてる。異性間の感染が中心」

「杏」

「うん?」

「わたし今日リサの話を聞いて自分の過去をちょっと振り返った」

「うん」

「わたしの中にも知らない傷があるかもしれない。怖い」

杏はしばらく黙った。

そしてゆっくり言った。

「萌、その怖さちゃんと感じていい」

「うん」

「でもねその怖さは悪い怖さじゃないの。自分のからだをこれからちゃんと見ていこうっていう出発点の怖さ」

「わたしの友達で自分の仕事のために毎月検査をしてる人がいるんだけどね」

「美里?」

「おっ、知ってる名前出してきた」

杏は笑った。

「そう、美里。美里に、いつかその話ちゃんと聞いてみたら?」

「美里は検査を罰でも罪滅ぼしでもなくて、自分のからだに対するふつうのケアとして受け続けてる」

「わたしと翔も検査受けたほうがいいよね」

杏はちょっと笑った。

「愛があるカップルほど検査するの」

その言葉、SNSに書いてあったらちょっとキラキラしすぎて引いていたかもしれない。でも杏が看護師の声でふつうに言うと、ちゃんと心に入ってくる。



それから1週間後、わたしは美里さんから連絡をもらって、新宿三丁目の喫茶店でお茶をした。

杏が「美里と萌、お互いなんか合いそう」とセッティングしてくれた3人のお茶会。

美里さんはその日私服で来ていた。ゆるくウェーブをかけた髪に白いTシャツとデニム。化粧は必要最小限。仕事をちゃんと外して来てくれたんだと伝わった。

「萌ちゃん、また会えて嬉しい」と美里さんは笑った。

「美里さん、わたしもです」

「美里でいいよ。ちゃん付けはお店の方の名前で慣れすぎてるから、こっちではふつうに呼ばれたい」

「じゃあ、美里」

「うん、よろしく」

杏がお茶を運びながらふっと言った。

「萌、リサのこと美里に話してみたら?」

わたしはリサ夫婦のブライダルチェックの話を美里にした。

美里はしばらく頷きながら聞いていた。

そしてひとくち紅茶を飲んでから言った。

「萌ちゃん、うちのお店で働く女の子たち、ほぼ全員3か月に1回、性感染症の検査を受けてるよ」

「えっ」

「自費で保険も使えないところで5,000円から20,000円くらいかけて定期的に受ける」

「それはお客さんを守るためでもあるし、わたしたち自身を守るため」

「でね、検査の現場でいちばん多い感染症ってなんだと思う?」

「……梅毒?」

「残念。一番多いのはクラミジア。特に咽頭クラミジア。喉の感染ね。口でうつるからコンドームしていてもうつることがある」

美里は紅茶のカップを傾けながら続けた。

「でねリサさんのご主人の梅毒、わたし責めたくないし、リサさんのクラミジアも責めたくない」

「過去って、みんな傷を持ってる。わたしも自分の過去で傷もある後悔もある」

「でもいま検査してわかって治療できるんだったら、それは勝ちなの」

「性感染症って勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが勝ち」

その「勝ち」という言葉にわたしはふっと笑った。罪悪感のなかにいるリサにいちばん必要だった言葉は、もしかしたらその「勝ち」だったのかもしれない。



「美里、あのさ」

「うん」

「わたしが夜のお店の人って思って構えてたら、美里たぶん笑うと思うんだけど」

美里はふっと笑った。

「笑わないよ」

「うん?」

「たぶんみんな最初はそう」

「わたしの仕事は世間的に特殊な仕事として扱われてる」

「でもわたしは毎月家賃払って保険料払って母の医療費送ってふつうに生きてる」

「お客さんと話してお客さんを楽しませてその対価を頂いてその分自分の健康と安全を自分で管理する」

「それを4年間ずっとやってきた」

「わたしは自分の仕事を誇りに思ってるわけでも卑下してるわけでもない。ただわたしのいまの生計の手段。それ以上でもそれ以下でもない」

美里はお茶をひとくち飲んでから続けた。

「でもね萌ちゃん」

「うん」

「わたしの仕事を世間が『普通じゃない』って言うことには、わたしも抵抗する」

「わたしの体を商品にしてるって言われたら、それも違う」

「わたしはわたしの労働を提供してる。世間の8時間労働の人と形が違うだけ」

「それを世間の人はなかなか理解してくれない。わたしはそれと4年間闘ってきた」

美里の声にすこし力が籠った。それは誰かを攻撃する力じゃなくて、自分の人生を自分の足で立って語ろうとしている人の力だった。

「美里」とわたしは言った。

「うん」

「わたしぜんぜん知らなかった、美里みたいな人の毎日のこと」

「でも美里と話してわかった気がする。『夜のお店の人』ってひとくくりにすると見えなくなる、ひとりひとりの人生がある」

「美里、教えてくれてありがとう」

美里はちょっと目を細めた。

「萌ちゃん、こちらこそ。話して聞いてもらえるってわたしにはめっちゃ大きいことなの」

杏が横でにっこり笑っていた。

「ね、美里、いいでしょ、萌は」

「うん。杏が言うとおりだったね」



翌週、わたしは翔に提案した。

翔の部屋。日曜の朝、コーヒーを淹れてトーストを食べているとき。

「ねえ、ふたりで性感染症の検査受けてみない?」

翔はトーストを口に持っていったまま5秒くらい固まった。

「えっ、なんで? 俺なんかしたっけ?」

「ううん、ぜんぜん違うの」

わたしはリサと美里の話を翔にした。

翔は聞き終わってからしばらく黙ってコーヒーをすすった。

「萌」

「うん」

「俺その美里さんって人と話してみたいかも」

「うん?」

「俺たぶん夜のお店の人のこと知らないどころか勝手に偏見持ってた」

「でもその美里さんが毎月検査受けて自分のからだちゃんと管理してて、って聞いたら俺めっちゃ反省した」

「俺自分のからだいちども検査受けたことない。生まれてから一度も」

「俺のほうがよっぽど無責任だった」

翔の言葉にわたしは頷いた。男の人がこうやって自分の無責任さを人前で認めるのは世間ではけっこう難しい。翔はそれをちゃんと認めた。

「じゃあふたりで受けよう」

「うん。受けたい」

「疑ってるんじゃないんだよ。信頼してるからこそちゃんと知ろうって」

「うん」

翔はもうすこしコーヒーをすすってからぽつりと言った。

「俺、美里さんにちゃんとありがとうって言いたい」

「会ったこともない人だけど」

「その人が自分の仕事のなかでちゃんと検査して生きてきたから、俺はいま自分も検査しようって思えた」

「それってその人のおかげ」

わたしは頷いた。美里の労働と知識と人生が、わたしと翔の関係のなかにすこしずつしみこんでいた。



検査の日。

5月の風がちょっと汗ばむくらい暖かかった。

渋谷区の保健所は駅から少し離れた古い区役所のとなりにあった。受付で「HIV・梅毒の即日検査」と伝えると番号札を渡されて別室に通された。

採血のあいだ、わたしは天井を見ていた。看護師さんが「ちょっとちくっとしますね」と優しく針を入れた。

翔は別の部屋で採血しているらしかった。

待合のベンチで結果を待つ30分間。ふと隣に若い女の子が座っているのに気づいた。たぶんわたしより5つくらい下。学生かもしれない。スマホを握ったままInstagramのアプリを開いて閉じてを繰り返している。結果を待つ自分を誤魔化そうとしているのがわかった。

わたしは心のなかで「この場所に来た自分をちゃんと褒めてあげて」と彼女にも自分にも言った。

美里が言ってくれた言葉が思い出された。

「性感染症って勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが勝ち」

この緊張している女の子もすでに勝ちにきている。わたしもそう。



「お二人とも、HIV・梅毒、陰性です」

担当の保健師さんが笑顔で結果用紙を渡してくれた。婦人科・泌尿器科の方の検査も後日すべて陰性だった。

保健所からの帰り道、翔と渋谷駅まで歩いた。

「なんかさ」と翔が言った。

「検査受ける前は『もし陽性だったらどうしよう』ってドキドキしたけど、受けたあとはめっちゃすっきりするね」

「うん」

「知らないことがいちばん不安だったんだなって思った」

「これさ、1年に1回くらい定期的にやった方がいいかもね」

「うん、わたしもそう思った」

翔は自分のスマホでグーグルカレンダーを開いて、来年の同じ時期に「ふたりで検査」と入れた。

その小さな入力をわたしはすごく愛おしいと思った。ふたりの未来の予定表に「ふたりで検査」がふつうに入っている。ロマンチックでもきらびやかでもない。でもわたしにはずっと続いていきたい関係のいちばんしっかりした骨組みに見えた。



その夜、わたしはリサにLINEを送った。

:「リサ、わたしと翔も検査受けた。ぜんぶ陰性だった」

:「リサが話してくれたからわたしも自分のからだにちゃんと向き合えた」

:「ありがとう」

リサからはしばらくしてから返事が来た。

リサ:「ううん、こちらこそ」

リサ:「わたしの過去のクラミジアと、夫の過去の梅毒」

リサ:「それが誰かを検査に送り出したなら、その過去はきっと無駄じゃなかった」

リサ:「わたしと夫の傷は誰かの未来をすこしだけ守れたのかもしれない」

その文章を読んで、わたしはベッドの上でぽろっと涙が落ちた。

性感染症は過去の自分の傷だけど、いまの自分はそれを誰かのために語ることができる。

美里の労働、杏の経験、リサの過去、わたしの未来。ぜんぶ繋がっている。



翌週、リサからLINEが来た。

リサ:「今日のクリニック、夫がHPVワクチンの話してきた」

リサ:「シルガード9、男性も2025年8月から打てるようになったらしい」

リサ:「自分はもう20代後半だし定期接種の対象じゃないけど自費で打つって」

リサ:「子どもができる前に夫婦で対策できることぜんぶやろうって言われた」

リサ:「ちょっと泣きそう」

わたしも翔もシルガード9の3回接種を自費で進めることにした。

そしてその話を杏経由で美里に伝えたら美里からこんなLINEが来た。

美里:「萌ちゃんすごい。シルガード9、3回9万円、けっこう高いのに」

美里:「わたしも4年前自分のお金で打った。あのときは仕事の休憩時間に駆け込みで打ちに行ったよ」

美里:「カップルで打つ夫婦まだまだ少ないって聞く」

美里:「萌ちゃんと翔さんはこれからの未来のロールモデルだよ」

「ロールモデル」という言葉にわたしはすこし照れた。

でもたしかにそうかもしれない。わたしたちがふつうにやってる面倒だけど大事なことを誰かが見て「わたしもできるかもしれない」と思うかもしれない。


萌のひとり言

リサが涙ぐみながら教えてくれた過去のクラミジアの話。

美里が誇りをもって語ってくれた毎月の検査の話。

翔が頭を下げて受け入れた、はじめての検査。

性感染症って、ひとりひとり抱えている文脈がぜんぜん違う。

でも共通しているのは「いま気づいていま行動した人が自分のからだをちゃんと取り戻している」ということ。

リサも美里もわたしも翔も、ぜんぶ自分のからだにちゃんと向き合おうとしている人たち。わたしはその仲間になれた。

そしてもうひとつ。過去のからだを責めない。過去のからだはいまのわたしに教えに来た先輩。先輩の言葉をちゃんと聞いてこれから活かす。それが過去を無駄にしないいちばんの方法。


STIまとめメモ:知ってよかったこと

主要な性感染症

病気 特徴 治療
梅毒 2024年14,663件で過去最多。20代女性で急増。無痛のしこり→全身発疹 抗菌薬で完治
クラミジア 最多のSTI。女性は約8割が無症状咽頭クラミジアも多い 抗菌薬1回〜1週間
淋病 男性は強い排尿痛。薬剤耐性菌が増加中 抗菌薬注射
性器ヘルペス 完治はせず再発を繰り返す。無症状でも感染力 抗ウイルス薬で症状コントロール
HPV(尖圭コンジローマ・子宮頸がん) 性交経験者の50〜80%が感染 ワクチンで予防可
HIV 治療継続で通常寿命。U=U ART(抗HIV療法)
B型肝炎 慢性化で肝硬変・肝がん ワクチンで予防可

検査について

  • 保健所でHIV・梅毒は無料・匿名で検査可
  • 不安な行為から3週間〜3か月は経ってから検査
  • 自宅でできる郵送検査キットもある
  • ブライダルチェック:結婚・妊活前のカップル検査
  • 夜の業界の女性は3か月に1回自費で定期検査が当たり前:そこから学べること多い

HPVワクチン(2026年最新)

  • 女子の定期接種:小6〜高1(無料)
  • キャッチアップ:1997〜2007年度生まれ、2026年3月末まで完了が公費
  • 男性:2025年8月にシルガード9が適応拡大。一部自治体で公費助成あり

心の整理

  • 性感染症は勝ち負けで言うなら、いま気づいたほうが勝ち
  • 過去のからだを責めない、いまのからだを大切にする
  • ふたりで検査することは信頼の表現

相談窓口

  • HIV・梅毒の検査:お住まいの保健所(多くは無料・匿名・要予約)
  • API-Net(エイズ予防情報ネット):api-net.jfap.or.jp
  • 梅毒の最新統計:国立健康危機管理研究機構(旧・国立感染症研究所)

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