第2話|オフィスのトイレで、ゆいが泣いた日



火曜の昼すぎ。

会社のデスクで、企画書のレイアウトを直していると、スマホの画面が、ちかちか、光った。

ゆい:「美咲、いまどこ?」

ゆい:「会社のトイレで動けない」

短い文章だった。

短いから、その文章のうしろにある「もう打つ気力もない」という重さが、スマホを握ったわたしの手に、ストレートに、落ちてきた

ゆいは、ふだん、LINEがやたら長い。

打ち間違いも、いっぱいする。

スタンプも、ハートだの、犬だの、よく分からないキャラだのを、3連投することが、ある。

そのゆいが、こんな短文を、打ち損じもなく、送ってくる

それが、すべてを、語っていた

美咲:「いまから行く」

打って、わたしは、Macを閉じた。

慌てたら、ダメだ、と、心のなかで言い聞かせた。

慌てた人が、慌てた人のところに行っても、何の役にも立たない

急いで隣の島の課長に「お腹をくだしてしまったので、午後半休もらってもいいですか」と頭を下げて、社を出た。

「お腹をくだした」が、女性社員の万能の早退理由として、未だに機能している会社の文化を、わたしは、いつも、ふしぎに思う。

でも、今日は、それを、ありがたいと、思った

タクシーアプリで車を呼んで、目黒に向かった。

タクシーの後部座席で、わたしは、ゆいの最近の様子を、思い返していた。

12月の納会の帰り、ゆいは、ずっと顔色が悪かった

「ちょっと、生理来そうで」と笑って、コートの上から、両腕で、お腹を、抱えていた。

あの時、わたしは、それを「いつものゆい」として、流してしまった

ふつうの生理痛」って、世の中で、軽く扱われすぎている。

誰かが「生理痛がひどくて」と言うと、もう片側のひとは、「ああ、あれね」と、なんとなく、うなずく。

その「あれね」のなかで、けっこう深刻な病気が、ぜんぶ、ぼんやり、ひと括りにされている

今日のLINEを受け取って、はじめて、そのときの彼女の腕の組み方の意味が、わかった気がした。

気づけなかった、というより、気づいていたのに、深く考えるのを避けてきた

それが、わたしのなかで、じわっと、罪悪感に、変わっていった。

ゆいの「ちょっと、生理来そうで」のうしろに、4年分のなにかが、ぎゅっと詰まっていた可能性を、わたしは、考えなかった

タクシーの窓ガラスに、12月の薄い太陽が、ちかちか、滲んでいた。



コワーキングスペースの自動ドアを抜けると、受付のお姉さんが、いつものスマイルで「ご見学ですか?」と聞いてきた。

友人が、中のトイレで、具合が悪くて」と言ったら、一瞬で表情が変わって、「奥の女性用トイレ、どうぞ」と通してくれた。

そういうとき、人の表情の切り替えって、ちょっと、すごい。

ふだん、接客のためにつけているお面のうしろに、ちゃんと、生身の人がいて、その人が、心配してくれている。

わたしは、その短い瞬間に、すこし、世の中を、信じた

トイレの個室の前に立って、軽く、ノックする。

「ゆい? わたし」

「美咲」

声は、消えそうな細さだった。

ロックの解除される音がして、ドアが、ゆっくりと、開いた。

ゆいは、便座のうえで、半分、壁にもたれかかるようにして、座っていた。

顔色が、白を通り越して、青みを、帯びていた。

膝のうえに、丸めたティッシュペーパーが、山のように積み上がっている

床には、血がにじんだナプキンが、蓋を開けたサニタリーボックスの脇に、置いてあった。

他人のトイレの個室で、こんなに、生々しい光景を見るのは、はじめてだった

でも、不思議と、引かなかった

むしろ、わたしのなかの、いままで使ってこなかった部分が、ふっと、立ち上がった気がした

「またナプキンが1時間もたなくて」

「うん」

レバーみたいな塊が、ぼろぼろ、出てくる

「うん」

「もう4年くらい、毎月、こう」

ゆいは、痛みのぶり返しなのか、ぐっと前に折れて、両腕で、お腹を、抱え込んだ。

4年、という言葉が、わたしの心臓のあたりに、ぐっと、つっかえた。

わたしたちは、もう4年も、友達なのに、わたしは、ゆいの「毎月」のなかに、入れていなかった

ゆいの「毎月」は、わたしの「毎月」じゃなかった。

わたしの毎月は、ふつうにエクササイズして、ふつうに友達とご飯を食べて、ふつうにメイクをして、ふつうに月経が来たら鎮痛剤を1錠飲んで、ふつうに寝る、ぜんぶ、ふつうのなかで終わる

でも、ゆいの毎月は、こうやって、便座のうえで、世界を諦めかけながら、過ごす日が、混ざっていた

わたしは、個室に、半分、入り込んで、彼女の背中を、さすった。

彼女のジャンパースカートの肩のあたりが、汗で、湿っているのが、わかった。

汗が、生きることを、痛みとともに何度も乗り越えてきた、4年分の汗に、思えた。

「鎮痛剤は?」

「飲んだ。ロキソニン2錠飲んだけど、効かない」

「……それ、絶対、おかしいよ」

声が、うわずった。

そうじゃない、と何度も自分に言い聞かせてきたゆいに、「おかしい」って言うのは、たぶん、彼女のなかの、長い年月の自己説得を、ぐらりと、崩すことだった

それでも、わたしは、言わなければ、ならなかった

ゆいは、わたしの顔を、しばらく、じっと、見て、それから、ふっと、目を伏せた。

そうかなあ、って、ずっと、思ってた」

声が、ぽつり、と、落ちた。

でも、母にも姉にも、ふつうって言われてきたから

自分が、痛みに弱いだけなのかも、って

その「痛みに弱いだけなのかも」という言葉に、わたしは、咄嗟に、葵にLINEを打った。

美咲:「ゆいの月経痛、限界きてる」

美咲:「鎮痛剤2錠で効かない、レバー状の塊あり、ナプキン1時間持たない」

美咲:「たぶん、ふつうじゃないって、本人にもう一度、ちゃんと、言ってあげてほしい」

美咲:「婦人科紹介して」

打ちながら、わたしは、自分の指が、ちょっと、震えていることに、気づいた。

「ふつうじゃない」って、誰かに対して、ちゃんと、言うのは、勇気がいる

世の中は、「ふつう」を信仰しすぎている

「ふつう」じゃない、と認めることは、ときどき、相手の人生の前提を、ぐらり、と、揺らす行為だから。

でも、ゆいの「ふつうじゃない」を、わたしが、ちゃんと、引き受ける

そう、決めた。



葵から、30秒で、電話が来た。

わたしは、トイレの個室の半分外で、こそっと、出た。

「美咲、聞こえる?」

「うん、ゆいのトイレの個室の前から、電話してる」

鎮痛剤が効かない月経痛は、それは『困難症』っていって、治療する病気

葵の声は、看護師のテンポに、なっていた。

我慢する必要、ない

今日のうちに、うちの病院の婦人科外来、空いてるか聞いてくる

あと、本人と、すぐ、電話、替わって

わたしは、スマホを耳に当てたまま、個室のドアを、すこし開けて、ゆいに、渡した。

「葵が、話したいって」

ゆいは、震える手で、スマホを、取った。

もしもし、葵?

ゆい、いま、どのくらい痛い? 1から10で

「……8、くらい」

8で4年やってきたんだ。よくここまで頑張った

葵の言葉が、スピーカーから、漏れて、わたしの耳にも、届いた。

ゆいの目から、ぽろっと、涙が、落ちた。

「よく頑張った」──。

たった4文字。

でも、その4文字を、ゆいは、たぶん、4年間、ずっと、欲しがっていた。

世の中で、「よく頑張った」って、誰がふだん、誰に、言ってくれるんだろう。

仕事を頑張ったあと、上司から「お疲れ」とは言われる。

試験に受かったあと、親から「よくやった」とは言われる。

でも、「ふつう」のはずの、月経の痛みを、ふつうに耐えてきたことに対して、「よく頑張った」って、言ってくれる人は、ふつう、いない

だって、それは、世間的に、「頑張ること」だと、思われていない、から

ゆいの嗚咽は、最初は、声を出さない涙だったのに、やがて、声を出して泣く泣き方に、変わった。

わたしは、トイレの個室の壁に、自分の頬を当てて、彼女の泣き声を、ただ、聞いていた

その声は、4年分の、誰にも回収されなかった「痛い」が、ようやく、外に、出てきた声だった。

わたしも、ちょっと、泣いた

わたしの罪悪感のためじゃなくて、ゆいが、ようやく、誰かに「頑張った」って言ってもらえたことの嬉しさで。



ゆいが「歩けそう」と言うまで、20分くらい、トイレで一緒にいた。

途中、わたしは、コンビニまで、ひとっ走りして、夜用ナプキンと、ペットボトルの温かいお茶と、塩味のキャラメルと、ぬるめのスポーツドリンクと、それから、自分用に、エナジーバーをひとつ買った。

塩味のキャラメルは、貧血で頭がふらふらするとき、葵がよく勧めてくれる、彼女の処方箋。

ぬるめのスポーツドリンクは、痛み止めをもう一錠、追加するときに、胃が荒れないように。

エナジーバーは、わたしが、これからのタクシーで、自分の血糖値を、ちゃんと保つため。

こういう買い物のセンスを、わたしは、ぜんぶ、葵から、もらった

ふだん、看護師の友達がいるって、ふつうに、すごく、便利なんだ、と、改めて思った。

タクシーの中で、ゆいは、すこしだけ、話してくれた。

初経が中1で来てね

「うん」

そのとき、母に、『これから毎月くるよ。痛い子は痛いから、慣れるしかない』って言われたのが、最初の記憶

「うん」

鎮痛剤も、最初は1錠で効いてた

それが2錠になって、3錠になって、4年前くらいから、効かない日があるって感じになった

ゆいは、目をつぶった。

長い睫毛が、頬の上で、揺れていた。

でも、これがふつうだと思ってた

アプリの履歴見たら、年に40日くらい、寝込んでるんだよ。年に40日。それを、当然みたいに、許してた」

40日。

会社員のお盆休みと、年末年始を足したくらいの日数を、毎年、ゆいは、痛みに、支配されていた。

それを、わたしは、いままで、想像したこともなかった

仕事の納期、それで何回逃したかわからない

ゆいは、車窓の外を、見つめながら、続けた。

クライアントに謝るたびに、自分は、仕事の取れないデザイナーだって、思ってた

生理だから、なんてダサくて言えないし、嘘の理由を作って謝る

それを、4年、やってきた

だから、わたし、自分のことを、ずっと、ふつうの人じゃないって思ってた

わたしは、何も、言えなかった。

なぐさめの言葉も、励ましの言葉も、ぜんぶ、彼女の4年間の重さに、軽すぎた

世の中の女性たちが、自分の月経のために、何百回、何千回、嘘の早退理由を作ってきたか、わたしは、はじめて、ちゃんと、考えた

「お腹がいたい」じゃなくて「お腹をくだした」。

「生理が重い」じゃなくて「ちょっと体調を崩して」。

「PMSで集中できない」じゃなくて「すみません、忘れていまして」。

ぜんぶ、自分のからだに対する、嘘

わたしも、たぶん、何十回も、これをやってきた

ただ、ゆいの手を、握った。

冷たかった。

冷たさが、わたしの掌のなかで、ゆっくり、温まっていった



葵の働く大学病院は、目黒から、30分くらい、かかった。

受付を済ませて、婦人科外来の番号札を、もらって、ロビーで、待つ。

平日の午後の大学病院は、年配の方が多くて、ゆいとわたしの、ふたりは、ちょっと、浮いていた。

でも、その「浮いている感じ」のなかに、わたしは、世代としての、なんか、責任みたいなものを、感じた

ここにいる、ご年配の女性たちは、若いころ、誰にも「ふつうじゃないかも」って言ってもらえなかった人が、多いかもしれない

ゆいは、いま、それを、ようやく、聞きに来た

ご年配の女性たちより、何十年か、早く、聞きに来た

それは、いいことだ、と思った。

ゆいの番号が、呼ばれて、診察室に、通された。

担当してくれたのは、葵が「あの先生、めっちゃ話聞いてくれるから」と推していた、40代の女性の先生だった。

肩までの黒髪を、後ろでひとつにまとめていて、白衣の袖は、きっちり折り返されている。

机には、子どもの写真が、一枚、立てかけてあった。

問診票を見ながら、先生は、ゆっくりと、言った。

月経の状況、もうちょっと詳しく聞かせてくださいね

ゆいは、病院だからか、しっかり姿勢を、ただして、こんな風に、答えた。

  • 月経周期:30日くらい(少し長くなったり、短くなったり)
  • 持続日数:7〜8日
  • 経血量:夜用ナプキンが、1時間ごとに替える日が、3日続く、レバー状の塊あり
  • 月経痛:鎮痛剤3錠でも効かないことが多い、寝込む
  • PMS:月経の1週間前から、気分が落ち込み、肌荒れ、過食

「あと、最近、ちょっと階段で息切れすること、多くなって」

先生は、ふんふんと頷いて、メモを取った。

「血液検査と、エコーをしましょう」

採血のあいだ、わたしは、隣の椅子で、待っていた。

ゆいは、注射の針を見ないように、天井を、見ていた。

窓の外に、銀杏の木が、一本、半分、黄色くなっていた。

ねえ、美咲」と、ゆいは、小さい声で、言った。

「うん」

わたし、ふつうじゃないって言われたら、どうしよう

「うん?」

ふつうじゃないって、ちゃんと、診断で出ちゃったら、わたしの4年間、なんだったんだろうって」

その問いに、わたしは、ちょっと、息を止めた。

「ふつうじゃない」と診断されることが、こわい、というのは、たぶん、わたしたち世代が、SNSで「みんな、こうなんでしょ?」を確認しすぎる、副作用、なのかもしれない。

ふつうから外れることに、無意識のうちに、すごく、強い罰を、自分に課している

でも、ゆいの場合、「ふつうじゃない」のほうが、ぜんぜん、救いだった

わたしは、しばらく、考えてから、答えた。

4年間、ゆいは、ちゃんと、生きてきたんだよ

「うん」

ふつうじゃないって、診断されることは、ゆいの4年を否定することじゃない

むしろ、ゆいが、ずっと頑張ってきた、っていう、4年間の証明

ゆいは、しばらく、わたしを見て、それから、頷いた。

採血が、終わって、看護師さんが、針を、抜いた。

針の痕に、絆創膏を、貼ってくれた。

絆創膏のうえに、ゆいは、自分の手のひらを、ぎゅっと、押し当てた。

たぶん、その絆創膏は、ゆいにとって、ただの絆創膏では、なかった

4年ぶんの自分の痛みに、はじめて、医療が、貼ってくれた、肯定の印みたいだった。



検査が、終わって、再び診察室に、呼ばれたのは、それから、40分後だった。

先生は、PCの画面と、エコーの画像と、血液検査の結果用紙を、机のうえに、広げた。

子宮腺筋症の所見ですね」と、先生は、まず、言った。

子宮の壁が、平均より厚くなっていますそれが、強い痛みと、過多月経の原因です

それから、もう一枚の紙を、見せた。

ヘモグロビン値、9.8。基準値の下限は12なので、軽度の鉄欠乏性貧血です。階段で息切れしたのは、これですね」

ゆいは、しばらく黙ってから、小さい声で、聞いた。

「先生、わたし、これ、ふつうじゃなかったんですか」

その問いの仕方が、まるで、4年ぶんの自分を、許可してもらうためみたいに、聞こえた。

先生は、首を、振った。

首の振り方が、優しかった

急かすでもなく、慰めるでもなく、ただ、目の前の人を、ちゃんと、見る、っていう、首の動かし方

ふつうじゃないです

経血量が多すぎて貧血になっている状態過多月経といいます」

鎮痛剤が効かない強い痛みは、月経困難症

腺筋症のような病気がある場合は、器質性月経困難症といって、治療が必要です

ゆいは、ふっと、息を、吐いた。

身体から、4年分の力みが、すこし、抜けたのが、わたしにも、見えた。

「ずっと、母にも『生理は我慢するもの』って言われて育って」

ゆいは、ぽつりと、言った。

先生は、ふっと、表情を、緩めた。

お母さんの世代はそうだったかもしれませんね

でもね、ゆいさん

「はい」

いまの医療は、ゆいさんが、痛くないで生きていける選択肢を、ちゃんと持ってるんですよ

ゆいの目が、また、ふっと、潤んだ。

「痛くないで生きていける選択肢」──。

ゆいの4年間に、誰も、その言葉を、くれなかった。

お母さんも、お姉さんも、職場の人も、たぶん、ゆい自身も

「痛くないで生きていける」って、ほんの、5文字なのに、世の中で、女性に対して、ちゃんと届けられている言葉、たぶん、ぜんぜん、足りてない。



先生が、ホワイトボードに、ゆいの選択肢を、書いてくれた。

1. LEP(低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬)

  • 月経困難症の治療として保険適用で処方できる
  • 排卵を抑制し、月経の量・痛み・PMSをぜんぶ軽くする
  • 1日1錠、毎日飲む
  • 副作用:飲み始めの1〜2か月、不正出血や吐き気が出ることがあるが、多くは慣れる
  • 血栓症のリスクがあるため、喫煙者・35歳以上・前兆を伴う片頭痛の人は要相談

2. IUS(ミレーナ)

  • 子宮の中に装着する小さな器具
  • ホルモンを少しずつ出して月経量を約90%減らす
  • 5年間有効
  • 過多月経・月経困難症で保険適用
  • 装着時に痛みあり

3. ジエノゲスト(ディナゲスト)

  • 子宮内膜症・腺筋症の治療薬
  • 排卵を抑え、病気の進行を抑える
  • 中等量の不正出血が続くことがある

「ゆいさんの場合、まずはLEPから始めてみるのがいいと思います」

「それで効果がイマイチなら、IUSやディナゲストを検討。あと鉄剤で貧血の治療も、並行しましょう」

ゆいは、何か考え込んでから、聞いた。

「先生、それって……ピルってやつですよね? 避妊する薬

先生は、ちょっと、笑った。

「成分は似てます。避妊目的のものをOC、治療目的のものをLEPといって、保険適用かどうかが違うだけ」

ピルって聞くと、身構える方が日本では多いんですけど、実は日本での服用率って約2〜3%で、フランスの33%、カナダの28%と比べて、かなり、低いんです」

怖い薬では、ないですよ

「飲んでるあいだ、ずっと、飲み続けるんですか?」

月経困難症の治療として、症状が出ているあいだは、続けるのが、ふつうです。やめたら、またもとに戻ることもあります」

「でも、腺筋症は子宮に薬で休んでもらうことで進行を抑えられるので、治療として意味があります」

ゆいは、頷いて、しばらく、紙を、見つめていた。

そして、ふっと、顔を上げて、わたしに、言った。

美咲、わたし、これ、始めてみる

「うん」

4年やめないつもりだった我慢を、いま、やめてみる

その「やめてみる」という言葉に、ゆいの、たぶん、一番大きな勇気が、籠っていた。

我慢を、やめる

その2文字、書いてあるだけだと、なんてことない。

でも、4年、毎月、年に40日、寝込んできた人が、それを「やめる」と決めるのは、自分の人生のひとつの章を、自分の手で、ぱた、と、閉じることだ。



その夜、ゆいの部屋で、3人で集まって、お茶を、した。

ゆいの部屋は、目黒の小さな1Kで、北欧風の家具が、好きで、グレーと白と、くすんだブルーで、統一されていた。

テーブルのうえには、彼女が淹れてくれた、カモミールティー。

カップは、ARABIAの、お気に入りの、たぶんセール品の、ちょっと欠けたやつ。

そういうカップを、ふだんから使っているゆいを、わたしは、好きだ。

窓の外で、誰かのバイクが、通り過ぎる音が、した。

葵は、自分も学生のとき、月経痛がひどくて、看護学生時代から、ピルを飲んでいる、と話した。

わたしね、ピルを飲み始めて、最初の3か月くらいは、不正出血があったの

「うん」

でもさ、毎月の生活が、自分のホルモンに振り回されないって、こんなに、楽だと思わなかった」

生理痛で何もできない日が、消えるって、ほんと、革命

ゆいは、しばらく黙って、それからカモミールティーをひとくち飲んでから、言った。

わたし、自分のせいだと思ってた

痛みに弱いだけ、メンタル弱いだけって」

葵が、首を、振った。

ううん、それは、違う

プロスタグランジンっていう物質が出すぎて、子宮が、必要以上に、収縮してるから、痛い」

あなたの腺筋症は、画像で見ても、客観的に、存在する病気

体質と病気の問題で、メンタルじゃない」

葵は、続けた。

しかも、放っておくと進行するし、不妊の原因にもなる

治療をするって、いまの自分のためでもあるし、未来の自分のためでもある

ゆいの目が、ちょっと、濡れた。

わたしね

「うん?」

ずっと、母に、痛みのこと、言えなかった

「うん」

母も、痛みを我慢してきた人だったから

わたしが、痛いって言ったら、母の40年を、否定する気がしてた

葵は、ゆいの肩に、自分の額を、ことん、と、当てた。

ゆい

「うん」

お母さんを否定するんじゃないの

お母さんが我慢して生きてきたことは、お母さんの真実

でも、ゆいが、いまから、別の選択をすることも、ゆいの真実

両方が、両方を、否定しなくて、いい

ゆいは、ぽろぽろ、泣いた。

お母さんを否定するのが怖くて、自分の痛みを認められなかった4年間を、はじめて、ゆいは、外に、出した。

わたしと葵は、彼女の背中を、ふたりで、ずっと、撫でていた。

カモミールティーの湯気が、ゆっくり、ゆっくり、立ちのぼっていた。

ふと、わたしは、思った。

世の中の、たくさんの女性が、お母さんとお姉さんとお祖母さんの、我慢の歴史を、自分の身体のなかに、引き受けて、生きている

その引き受けは、愛情と、罪悪感と、自己犠牲が、ぜんぶ混ざって、ぐちゃぐちゃになっている

それを、ひとりで解くのは、難しい

だから、誰かが、一緒に、解いてくれる手が、必要

葵は、その手を、ゆいに、貸してくれていた。

わたしも、ちゃんと、その手の片方を、握った。



それから3か月後。

ゆいは、明らかに、表情が、変わった。

肌のきめが整って、目の下のクマが薄くなって、何より「今日、調子悪いから……」というメッセージが、月の半分から、月に1〜2日に、減った。

ある日、ゆいから、こんなLINEが、来た。

ゆい:「昨日、母に電話した

ゆい:「わたし、いまピル飲んでる、って報告した

ゆい:「最初、母、ちょっと固まってた

ゆい:「でも、しばらく黙ってから、『あんたの体、楽になるなら、いいんじゃない』って言ってくれた

ゆい:「それで、わたし、すこし泣いた

わたしは、その文章を読んで、デスクのパソコンの前で、自分も、ちょっと、泣いた。

ゆいの「すこし」は、たぶん、思いっきりだったろうな、と、思った。

そして、ゆいのお母さんが、「あんたの体、楽になるなら、いいんじゃない」と言うまでに、たぶん、お母さんのなかで、何かが、ぐっと、押されていた、ということも、想像した。

お母さんは、自分の40年を、「我慢してきてよかった」と思いたかったかもしれない

でも、娘の世代に、別の選択肢があることを、認める、ということは、たぶん、お母さんの40年を、すこしだけ、違う角度から、見ることだ

それは、お母さんにとっても、苦くて、でも、すこし、やさしい瞬間だったんだろう。

世代から世代へ、痛みは、引き継がれてきた

でも、その痛みを、ようやく、誰かが、止めた

ゆいが、止めた

そして、お母さんが、それを、許した

それは、すごく、すごく、大きな、ふたりの仕事だった。



12月のはじめ、ゆいに誘われて、恵比寿のカフェで、お茶をした。

ガーデンプレイスのちかくの、奥まったところにある、家具屋さん併設のおしゃれなところ。

窓の外で、雪まじりの雨が、降り始めていた。

ゆいは、ラテのカップを、両手で包みながら、言った。

「美咲、なんで私、もっと早く、婦人科行かなかったんだろう」

「行くタイミング、だれも決められないからね」

月経痛=我慢って思い込みって、ほんと、罪、だよね」

ゆいは、外の雪を、見ながら、続けた。

わたし、20代の半分くらい、毎月寝込んでた

それぜんぶ、別に我慢する必要なかったんだよ

でもね、それと同時に、思ったの

「うん?」

わたしが我慢してきた4年は、ぜんぶ、無駄じゃなかった

あの4年があったから、わたしは、いまの治療を、心の底から『よかった』って思える

痛みは、必要じゃないけど、痛みを通って学んだことは、必要だった

ゆいは、ラテを飲んで、雪を、見ていた。

わたしは、頷いた。

そして、思った。

世間の風潮は、ぜんぶの「痛み」を、悪者にしようとする

でも、ゆいの言葉は、もうすこし、しなやかだった

痛みそのものは、悪い

でも、痛みを通った人が、その先で、自分のからだに、ちゃんと、向き合えるようになる、その経路ぜんぶを、悪いとは、できない

ゆい

「うん」

ありがとう、わたしに、それを、話してくれて

「ううん。美咲が、あの日、来てくれたから

わたし、はじめて、自分の痛みを、人に話せた

外の雪が、すこしずつ、積もっていた。



その夜、わたしは、自分の月経の記録アプリを開いて、最後の数か月の周期を、見直してみた。

わたし自身も、PMSの気分の波には、けっこう、振り回されている方だった。

先月は、月経前の3日間、健太に、何度も、無意味に、怒っていた

そのときは、健太が悪い、と思っていた

でも、いま、アプリを見返すと、ぴったり、PMSの時期だった

わたしのなかで、ホルモンと、感情と、関係性が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた

「ねぇ葵」と、わたしはあとでLINEを打った。「わたしもLEP、考えてみていいと思う?

葵は、すぐに返信してくれた。

:「自分のために選ぶってこと、それがいちばん大事」

:「ゆいは、お母さんの世代の苦しみを、自分の身体で引き継いできた

:「それを、ゆいが、終わらせた

:「美咲は、美咲の世代の何かを、自分のために、選び直していい

スマホを置いて、わたしは、窓の外を、見た。

ゆいが、メニューを眺めながら「ねえ、ケーキ食べる? いま、ケーキ食べたい気分なの」と笑った。

それは、ここ何年か、聞かなかったゆいの、笑い方だった。

「いま、〜したい気分」って言える、こと。

それが、こんなに、軽やかなことだったんだ。

ゆいは、4年ぶんの自分のからだを、取り戻していた。

そして、ゆいの隣にいる、わたしは、すこしだけ、自分のからだの記録を、見直し始めていた。

ふたりで、抹茶のロールケーキを、ひとつだけ、頼んで、半分こにした。

抹茶の苦みと、生クリームのまろやかさが、口の中で、混ざりあって、ふっと、消えた

こういう、ふつうの幸せのかたちを、わたしたちは、ようやく、ふたりとも、ちゃんと、味わえるようになっていた


目次

ゆいのひとり言

母に「ピル飲んでる」って言うのは、わたしのなかで、すごく、勇気のいることだった。

あんたの体、楽になるなら、いいんじゃない

母が、その一言を返してくれるまでに、母自身も、たぶん、自分のなかで何かを、ぐっと、押した。

母は、わたしを通して、母の40年を、自分のなかで、認め直したのかもしれない

我慢して生きてきた40年は、無駄ではなかった。

でも、わたしは、母とは、違う選択をする。

それを、母が、ゆるしてくれた。

ううん、母は、わたしを通して、自分自身を、ゆるしたのかもしれない。

性の知識は、わたしひとりだけのものじゃない

痛みも、知識も、世代から世代へ、ゆっくり、繋がっている

そして、わたしの妹が、いつか、月経のことで困ったら、わたしは、すぐ、「ふつうじゃないかも」って、言える人で、いたい。

わたしが、葵に、美咲に、もらった「よく頑張った」を、ちゃんと、次の世代に、渡したい


ゆいメモ:知ってよかったこと

  • 月経の正常範囲:周期25〜38日、持続3〜7日、経血量20〜140ml
  • 鎮痛剤が効かない月経痛は治療対象=月経困難症
  • 過多月経で貧血になることも多い。健康診断のヘモグロビン値もチェック
  • LEP(治療用ピル)は保険適用。月経痛・量・PMSの三大症状を軽くできる
  • IUS(ミレーナ):5年間装着。月経量を約90%減らす
  • PMSは「気のせい」じゃない:ホルモンの波で起こる実体のある症状
  • 「我慢するもの」じゃない。情報を持って、選択する権利がある
  • わたしの選択は、誰かを否定するためじゃないわたし自身を、ゆるすため

相談窓口

  • 婦人科のかかりつけ医:自分が話しやすい先生を見つけるのが大事
  • オンライン処方:スマルナ、mederi、ルナルナおくすり便など。初回は対面が望ましい
  • 生理の貧困:自治体で月経用品の無償配布をしているところも

← 第1話 | 次のお話:第3話 深夜2時、ドラッグストアで →

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

第2話|オフィスのトイレで、ゆいが泣いた日



火曜の昼すぎ。

会社のデスクで企画書のレイアウトを直していると、スマホがちかちか光った。

ゆい:「萌、いまどこ?」

ゆい:「会社のトイレで動けない」

短い文章だった。

ゆいは、ふだん、LINEがやたら長い。打ち間違いも多いし、スタンプも犬だの謎キャラだの3連投してくる。そのゆいが、こんな短文を、打ち損じもなく送ってくる。それだけで、ただ事じゃないのがわかった。

:「いまから行く」

打って、わたしはMacを閉じた。

慌てたらダメだ、と心のなかで言い聞かせた。慌てた人が慌てた人のところに行っても、何の役にも立たない。

隣の島の課長に「お腹をくだしてしまったので、午後半休もらってもいいですか」と頭を下げて、社を出た。「お腹をくだした」が女性社員の万能の早退理由として機能している会社の文化を、いつもふしぎに思う。でも今日は、それをありがたいと思った。

タクシーアプリで車を呼んで、目黒に向かった。

後部座席で、ゆいの最近の様子を思い返していた。12月の納会の帰り、ゆいはずっと顔色が悪かった。「ちょっと、生理来そうで」と笑って、コートの上から両腕でお腹を抱えていた。あの時わたしは、それを「いつものゆい」として流してしまった。

「ふつうの生理痛」って、世の中で軽く扱われすぎている。誰かが「生理痛がひどくて」と言うと、もう片側の人は「ああ、あれね」となんとなくうなずく。その「あれね」のなかで、けっこう深刻な病気が、ぜんぶひと括りにされている。

気づけなかった、というより、気づいていたのに深く考えるのを避けてきた。それが、じわっと罪悪感に変わっていった。



コワーキングスペースの自動ドアを抜けると、受付のお姉さんが「ご見学ですか?」と聞いてきた。

「友人が中のトイレで具合が悪くて」と言ったら、一瞬で表情が変わって、「奥の女性用トイレ、どうぞ」と通してくれた。接客のためにつけている顔のうしろに、ちゃんと生身の人がいて、心配してくれている。その短い瞬間に、すこし世の中を信じた。

トイレの個室の前に立って、軽くノックする。

「ゆい? わたし」

「萌」

声は消えそうな細さだった。

ロックが外れて、ドアがゆっくり開いた。

ゆいは便座のうえで、半分壁にもたれかかるようにして座っていた。顔色が白を通り越して青みを帯びている。膝のうえに丸めたティッシュが山のように積み上がっていた。

「またナプキンが1時間もたなくて」

「うん」

「レバーみたいな塊が、ぼろぼろ出てくる」

「うん」

「もう4年くらい、毎月、こう」

ゆいは痛みのぶり返しなのか、ぐっと前に折れて、両腕でお腹を抱え込んだ。

4年。わたしたちはもう4年も友達なのに、わたしはゆいの「毎月」のなかに入れていなかった。わたしの毎月は、ふつうにエクササイズして、ふつうに友達とご飯食べて、鎮痛剤1錠飲んで寝る。ぜんぶふつうのなかで終わる。でもゆいの毎月は、こうやって便座のうえで世界を諦めかけながら過ごす日が混ざっていた。

個室に半分入り込んで、背中をさすった。

「鎮痛剤は?」

「飲んだ。ロキソニン2錠飲んだけど、効かない」

「……それ、絶対おかしいよ」

声がうわずった。ずっと「そうじゃない」と自分に言い聞かせてきたゆいに「おかしい」って言うのは、彼女のなかの長い自己説得を崩すことだった。それでもわたしは言わなきゃいけなかった。

ゆいは、わたしの顔をしばらくじっと見て、それからふっと目を伏せた。

「そうかなあ、って、ずっと思ってた」

「でも、母にも姉にも、ふつうって言われてきたから」

「自分が痛みに弱いだけなのかも、って」

その言葉に、わたしは咄嗟に杏にLINEを打った。

:「ゆいの月経痛、限界きてる」

:「鎮痛剤2錠で効かない、レバー状の塊あり、ナプキン1時間持たない」

:「婦人科紹介して」

打ちながら、自分の指がちょっと震えていることに気づいた。

「ふつうじゃない」って誰かに対してちゃんと言うのは、勇気がいる。世の中は「ふつう」を信仰しすぎている。「ふつう」じゃないと認めることは、ときどき、相手の人生の前提を揺らす行為だから。

でも、ゆいの「ふつうじゃない」を、わたしがちゃんと引き受ける。そう決めた。



杏から、30秒で電話が来た。

わたしはトイレの個室の半分外で、こそっと出た。

「萌、聞こえる?」

「うん、ゆいのトイレの個室の前から電話してる」

「鎮痛剤が効かない月経痛は、それは『困難症』っていって、治療する病気」

杏の声は、看護師のテンポになっていた。

「我慢する必要、ない」

「今日のうちに、うちの病院の婦人科外来、空いてるか聞いてくる」

「あと、本人とすぐ電話替わって」

わたしはスマホを耳に当てたまま、個室のドアをすこし開けて、ゆいに渡した。

「杏が話したいって」

ゆいは震える手でスマホを取った。

「もしもし、杏?」

「ゆい、いまどのくらい痛い? 1から10で」

「……8、くらい」

「8で4年やってきたんだ。よくここまで頑張った」

杏の言葉がスピーカーから漏れて、わたしの耳にも届いた。

ゆいの目から、ぽろっと涙が落ちた。

「よく頑張った」──たった4文字。でもその4文字を、ゆいはたぶん4年間、ずっと欲しがっていた。

仕事を頑張ったあと、上司から「お疲れ」とは言われる。試験に受かったあと、親から「よくやった」とは言われる。でも、月経の痛みをふつうに耐えてきたことに対して「よく頑張った」って言ってくれる人は、ふつう、いない。それは世間的に「頑張ること」だと思われていないから。

ゆいの嗚咽は、最初は声を出さない涙だったのに、やがて声を出して泣く泣き方に変わった。

わたしはトイレの個室の壁に自分の頬を当てて、彼女の泣き声をただ聞いていた。その声は、4年分の誰にも拾われなかった「痛い」が、ようやく外に出てきた声だった。

わたしもちょっと泣いた。罪悪感のためじゃなくて、ゆいがようやく誰かに「頑張った」って言ってもらえた嬉しさで。



ゆいが「歩けそう」と言うまで、20分くらいトイレで一緒にいた。

途中、コンビニまでひとっ走りして、夜用ナプキンと温かいお茶と塩味のキャラメルとスポーツドリンクを買った。

塩味のキャラメルは、貧血でふらふらするとき杏がよく勧めてくれるやつ。スポーツドリンクは、痛み止めをもう一錠追加するときに胃が荒れないように。看護師の友達がいるって、ふつうにすごく心強いな、と改めて思った。

タクシーの中で、ゆいはすこしだけ話してくれた。

「初経が中1で来てね」

「うん」

「そのとき母に、『これから毎月くるよ。痛い子は痛いから、慣れるしかない』って言われたのが最初の記憶」

「うん」

「鎮痛剤も最初は1錠で効いてた。それが2錠になって、3錠になって、4年前くらいから効かない日があるって感じになった」

ゆいは目をつぶった。

「でも、これがふつうだと思ってた」

「アプリの履歴見たら、年に40日くらい寝込んでるんだよ。年に40日」

40日。会社員のお盆休みと年末年始を足したくらいの日数を、毎年ゆいは痛みに支配されていた。

「仕事の納期、それで何回逃したかわからない」

ゆいは車窓の外を見つめながら続けた。

「クライアントに謝るたびに、自分は仕事の取れないデザイナーだって思ってた」

「生理だから、なんてダサくて言えないし、嘘の理由を作って謝る」

「それを4年やってきた」

「だから、わたし、自分のことを、ずっと、ふつうの人じゃないって思ってた」

わたしは何も言えなかった。なぐさめも励ましも、彼女の4年間の重さに軽すぎた。

「お腹がいたい」じゃなくて「お腹をくだした」。「生理が重い」じゃなくて「ちょっと体調を崩して」。「PMSで集中できない」じゃなくて「すみません、忘れていまして」。ぜんぶ、自分のからだに対する嘘。わたしもたぶん何十回もこれをやってきた。

ただ、ゆいの手を握った。冷たかった。



杏の働く大学病院は、目黒から30分くらいかかった。

受付を済ませて、婦人科外来の番号札をもらって、ロビーで待つ。平日の午後の大学病院は年配の方が多くて、ゆいとわたしのふたりはちょっと浮いていた。

でもその「浮いている感じ」のなかに、世代としての責任みたいなものを感じた。ここにいるご年配の女性たちは、若いころ誰にも「ふつうじゃないかも」って言ってもらえなかった人が多いかもしれない。ゆいはいまそれをようやく聞きに来た。何十年か早く聞きに来た。

担当してくれたのは、杏が「あの先生、めっちゃ話聞いてくれるから」と推していた40代の女性の先生だった。肩までの黒髪をうしろでひとつにまとめていて、机には子どもの写真が一枚立てかけてあった。

問診票を見ながら、先生はゆっくり言った。

「月経の状況、もうちょっと詳しく聞かせてくださいね」

ゆいが答えた内容はこうだった。

  • 月経周期:30日くらい(少し長くなったり短くなったり)
  • 持続日数:7〜8日
  • 経血量:夜用ナプキンを1時間ごとに替える日が3日続く、レバー状の塊あり
  • 月経痛:鎮痛剤3錠でも効かないことが多い、寝込む
  • PMS:月経の1週間前から気分が落ち込み、肌荒れ、過食

「あと、最近ちょっと階段で息切れすることが多くなって」

先生は頷いて、「血液検査とエコーをしましょう」と言った。

採血のあいだ、わたしは隣の椅子で待っていた。ゆいは注射の針を見ないように天井を見ていた。

「ねえ萌」と、ゆいは小さい声で言った。

「うん」

「わたし、ふつうじゃないって言われたらどうしよう」

「うん?」

「ふつうじゃないって診断で出ちゃったら、わたしの4年間なんだったんだろうって」

「ふつうじゃない」と診断されることが怖い。たぶんわたしたち世代が、SNSで「みんなこうなんでしょ?」を確認しすぎる副作用なのかもしれない。でもゆいの場合、「ふつうじゃない」のほうが、ぜんぜん救いだった。

しばらく考えてから、答えた。

「4年間、ゆいはちゃんと生きてきたんだよ」

「うん」

「ふつうじゃないって診断されることは、ゆいの4年を否定することじゃない。むしろ、ずっと頑張ってきたっていう4年間の証明」

ゆいはしばらくわたしを見て、それから頷いた。



検査が終わって、再び診察室に呼ばれたのは40分後だった。

先生はPCの画面とエコーの画像と血液検査の結果を机のうえに広げた。

「子宮腺筋症の所見ですね」と、先生はまず言った。

「子宮の壁が平均より厚くなっています。それが強い痛みと過多月経の原因です」

それからもう一枚の紙を見せた。

「ヘモグロビン値、9.8。基準値の下限は12なので、軽度の鉄欠乏性貧血です。階段で息切れしたのは、これですね」

ゆいはしばらく黙ってから、小さい声で聞いた。

「先生、わたし、これ、ふつうじゃなかったんですか」

先生は首を振った。急かすでもなく慰めるでもなく、ただ目の前の人をちゃんと見る振り方だった。

「ふつうじゃないです」

「経血量が多すぎて貧血になっている状態を過多月経といいます」

「鎮痛剤が効かない強い痛みは、月経困難症」

「腺筋症のような病気がある場合は、器質性月経困難症といって、治療が必要です」

ゆいはふっと息を吐いた。4年分の力みがすこし抜けたのが、わたしにも見えた。

「ずっと母にも『生理は我慢するもの』って言われて育って」

先生はふっと表情を緩めた。

「お母さんの世代はそうだったかもしれませんね」

「でもね、ゆいさん」

「はい」

「いまの医療は、ゆいさんが痛くないで生きていける選択肢を、ちゃんと持ってるんですよ」

ゆいの目がまた潤んだ。

「痛くないで生きていける選択肢」──ゆいの4年間に、誰もその言葉をくれなかった。お母さんも、お姉さんも、職場の人も、たぶんゆい自身も。



先生がホワイトボードに、ゆいの選択肢を書いてくれた。

1. LEP(低用量エストロゲン・プロゲスチン配合薬)

  • 月経困難症の治療として保険適用で処方できる
  • 排卵を抑制し、月経の量・痛み・PMSをぜんぶ軽くする
  • 1日1錠、毎日飲む
  • 副作用:飲み始めの1〜2か月、不正出血や吐き気が出ることがあるが、多くは慣れる
  • 血栓症のリスクがあるため、喫煙者・35歳以上・前兆を伴う片頭痛の人は要相談

2. IUS(ミレーナ)

  • 子宮の中に装着する小さな器具
  • ホルモンを少しずつ出して月経量を約90%減らす
  • 5年間有効
  • 過多月経・月経困難症で保険適用
  • 装着時に痛みあり

3. ジエノゲスト(ディナゲスト)

  • 子宮内膜症・腺筋症の治療薬
  • 排卵を抑え、病気の進行を抑える
  • 中等量の不正出血が続くことがある

「ゆいさんの場合、まずはLEPから始めてみるのがいいと思います」

「それで効果がイマイチなら、IUSやディナゲストを検討。あと鉄剤で貧血の治療も並行しましょう」

ゆいは何か考え込んでから聞いた。

「先生、それって……ピルってやつですよね? 避妊する薬」

先生はちょっと笑った。

「成分は似てます。避妊目的のものをOC、治療目的のものをLEPといって、保険適用かどうかが違うだけ」

「ピルって聞くと身構える方が日本では多いんですけど、実は日本での服用率って約2〜3%で、フランスの33%、カナダの28%と比べてかなり低いんです」

「怖い薬ではないですよ」

「飲んでるあいだ、ずっと飲み続けるんですか?」

「月経困難症の治療として、症状が出ているあいだは続けるのがふつうです。やめたらまたもとに戻ることもあります」

「でも、腺筋症は子宮に薬で休んでもらうことで進行を抑えられるので、治療として意味があります」

ゆいは頷いて、しばらく紙を見つめていた。

そしてふっと顔を上げて、わたしに言った。

「萌、わたし、これ始めてみる」

「うん」

「4年やめないつもりだった我慢を、いまやめてみる」

その「やめてみる」に、ゆいのいちばん大きな勇気が籠っていた。我慢をやめる。書いてあるだけだとなんてことない。でも、4年間毎月寝込んできた人がそれを「やめる」と決めるのは、自分の人生のひとつの章を自分の手で閉じることだ。



その夜、ゆいの部屋で3人で集まって、お茶をした。

ゆいの部屋は目黒の小さな1Kで、北欧風の家具が好きで、グレーと白とくすんだブルーで統一されていた。テーブルにはカモミールティー。カップはARABIAの、たぶんセール品のちょっと欠けたやつ。そういうカップをふだんから使っているゆいを、わたしは好きだ。

杏は、自分も学生のとき月経痛がひどくて、看護学生時代からピルを飲んでいると話した。

「わたしね、ピルを飲み始めて、最初の3か月くらいは不正出血があったの」

「うん」

「でもさ、毎月の生活が自分のホルモンに振り回されないって、こんなに楽だと思わなかった」

「生理痛で何もできない日が消えるって、ほんと革命」

ゆいはしばらく黙って、カモミールティーをひとくち飲んでから言った。

「わたし、自分のせいだと思ってた」

「痛みに弱いだけ、メンタル弱いだけって」

杏が首を振った。

「ううん、それは違う」

「プロスタグランジンっていう物質が出すぎて、子宮が必要以上に収縮してるから痛い」

「あなたの腺筋症は、画像で見ても客観的に存在する病気」

「体質と病気の問題で、メンタルじゃない」

杏は続けた。

「しかも放っておくと進行するし、不妊の原因にもなる」

「治療をするって、いまの自分のためでもあるし、未来の自分のためでもある」

ゆいの目がちょっと濡れた。

「わたしね」

「うん?」

「ずっと母に痛みのこと言えなかった」

「うん」

「母も痛みを我慢してきた人だったから」

「わたしが痛いって言ったら、母の40年を否定する気がしてた」

杏は、ゆいの肩に自分の額をことんと当てた。

「ゆい」

「うん」

「お母さんを否定するんじゃないの」

「お母さんが我慢して生きてきたことは、お母さんの真実」

「でも、ゆいがいまから別の選択をすることも、ゆいの真実」

「両方が両方を否定しなくていい」

ゆいはぽろぽろ泣いた。

お母さんを否定するのが怖くて自分の痛みを認められなかった4年間を、はじめて外に出した。

わたしと杏は彼女の背中をふたりでずっと撫でていた。カモミールティーの湯気がゆっくり立ちのぼっていた。

世の中のたくさんの女性が、お母さんとお姉さんとお祖母さんの我慢の歴史を、自分の身体のなかに引き受けて生きている。その引き受けは愛情と罪悪感と自己犠牲がぜんぶ混ざってぐちゃぐちゃになっている。それをひとりで解くのは難しい。だから誰かが一緒に解いてくれる手が必要で、杏はその手をゆいに貸してくれていた。



それから3か月後。

ゆいは明らかに表情が変わった。肌のきめが整って、目の下のクマが薄くなって、何より「今日、調子悪いから……」というメッセージが月の半分から月に1〜2日に減った。

ある日、ゆいからこんなLINEが来た。

ゆい:「昨日、母に電話した」

ゆい:「わたし、いまピル飲んでるって報告した」

ゆい:「最初、母、ちょっと固まってた」

ゆい:「でもしばらく黙ってから、『あんたの体、楽になるなら、いいんじゃない』って言ってくれた」

ゆい:「それで、わたし、すこし泣いた」

わたしはその文章を読んで、デスクのパソコンの前で自分もちょっと泣いた。

ゆいの「すこし」はたぶん思いっきりだったろうな、と思った。

そしてゆいのお母さんが「いいんじゃない」と言うまでに、お母さんのなかで何かがぐっと押されていたんだろうということも想像した。お母さんは自分の40年を「我慢してきてよかった」と思いたかったかもしれない。でも娘の世代に別の選択肢があることを認めるのは、自分の40年をすこし違う角度から見ること。お母さんにとっても苦くて、でもすこしやさしい瞬間だったんだろう。

世代から世代へ、痛みは引き継がれてきた。でもその痛みをようやく誰かが止めた。ゆいが止めた。そしてお母さんがそれを許した。すごく大きなふたりの仕事だった。



12月のはじめ、ゆいに誘われて恵比寿のカフェでお茶をした。ガーデンプレイスのちかくの、奥まったところにある家具屋さん併設のおしゃれなところ。窓の外で雪まじりの雨が降り始めていた。

ゆいはラテのカップを両手で包みながら言った。

「萌、なんでわたしもっと早く婦人科行かなかったんだろう」

「行くタイミング、だれも決められないからね」

「月経痛=我慢って思い込みって、ほんと罪だよね」

ゆいは外の雪を見ながら続けた。

「わたし、20代の半分くらい毎月寝込んでた」

「それぜんぶ、別に我慢する必要なかったんだよ」

「でもね、それと同時に思ったの」

「うん?」

「わたしが我慢してきた4年は、ぜんぶ無駄じゃなかった」

「あの4年があったから、わたしはいまの治療を心の底から『よかった』って思える」

「痛みは必要じゃないけど、痛みを通って学んだことは必要だった」

わたしは頷いた。痛みそのものは悪い。でも痛みを通った人がその先で自分のからだにちゃんと向き合えるようになる、その経路ぜんぶを悪いとはできない。

「ゆい」

「うん」

「ありがとう、わたしにそれを話してくれて」

「ううん。萌があの日来てくれたから」

「わたし、はじめて自分の痛みを人に話せた」

ゆいがメニューを眺めながら「ねえ、ケーキ食べる? いまケーキ食べたい気分なの」と笑った。

それはここ何年か聞かなかったゆいの笑い方だった。「いま、〜したい気分」って言えること。それがこんなに軽やかなことだったんだ。

ゆいは4年ぶんの自分のからだを取り戻していた。

ふたりで抹茶のロールケーキをひとつだけ頼んで、半分こにした。



その夜、わたしは自分の月経の記録アプリを開いて、最後の数か月の周期を見直してみた。

わたし自身もPMSの気分の波にはけっこう振り回されている方だった。先月は月経前の3日間、翔に何度も無意味に怒っていた。そのときは翔が悪いと思っていた。でもいまアプリを見返すと、ぴったりPMSの時期だった。わたしのなかでホルモンと感情と関係性がぐちゃぐちゃに混ざっていた。

「ねぇ杏」と、わたしはあとでLINEを打った。「わたしもLEP、考えてみていいと思う?」

杏はすぐに返信してくれた。

:「自分のために選ぶってこと、それがいちばん大事」

:「ゆいはお母さんの世代の苦しみを自分の身体で引き継いできた」

:「それをゆいが終わらせた」

:「萌は萌の世代の何かを、自分のために選び直していい」

スマホを置いて窓の外を見た。

ゆいが4年ぶんの自分のからだを取り戻していた。そしてゆいの隣にいるわたしは、すこしだけ、自分のからだの記録を見直し始めていた。


ゆいのひとり言

母に「ピル飲んでる」って言うのは、わたしのなかで、すごく勇気のいることだった。

「あんたの体、楽になるなら、いいんじゃない」

母がその一言を返してくれるまでに、母自身もたぶん自分のなかで何かをぐっと押した。

母はわたしを通して、母の40年を自分のなかで認め直したのかもしれない。

我慢して生きてきた40年は、無駄ではなかった。

でもわたしは、母とは違う選択をする。

それを母がゆるしてくれた。

ううん、母はわたしを通して、自分自身をゆるしたのかもしれない。

性の知識は、わたしひとりだけのものじゃない。

痛みも知識も、世代から世代へ、ゆっくり繋がっている。

そしてわたしの妹がいつか月経のことで困ったら、わたしはすぐ「ふつうじゃないかも」って言える人でいたい。わたしが杏に、萌にもらった「よく頑張った」を、ちゃんと次の世代に渡したい。


ゆいメモ:知ってよかったこと

  • 月経の正常範囲:周期25〜38日、持続3〜7日、経血量20〜140ml
  • 鎮痛剤が効かない月経痛は治療対象=月経困難症
  • 過多月経で貧血になることも多い。健康診断のヘモグロビン値もチェック
  • LEP(治療用ピル)は保険適用。月経痛・量・PMSの三大症状を軽くできる
  • IUS(ミレーナ):5年間装着。月経量を約90%減らす
  • PMSは「気のせい」じゃない:ホルモンの波で起こる実体のある症状
  • 「我慢するもの」じゃない。情報を持って、選択する権利がある
  • わたしの選択は、誰かを否定するためじゃないわたし自身を、ゆるすため

相談窓口

  • 婦人科のかかりつけ医:自分が話しやすい先生を見つけるのが大事
  • オンライン処方:スマルナ、mederi、ルナルナおくすり便など。初回は対面が望ましい
  • 生理の貧困:自治体で月経用品の無償配布をしているところも

← 第1話 | 次のお話:第3話 深夜2時、ドラッグストアで →

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

目次